1:直筆の楽譜1
その日の日中は、この夏の最高気温を記録した。肌を焦がす陽射しに蒸し焼きにされそうな、圧倒的な暑さである。湿度も高く不快指数も極めて高い。
日が沈みそうな時刻になっても蒸し暑さは緩まず、熱帯夜になりそうだった。うだるような暑さが纏いついて、まるでぬるい湖底を歩いているような錯覚がする。
車を降りてからも蒸し暑さに辟易していたが、朝子は建物の広場にたどり着くと、そんな不快感も全てどこかへ飛ばされてしまった。
招かれた祥子の住まいは、朝子の想像を裏切っていた。駅の周辺に建造されたプラチナホールから、公園を挟んだ位置に聳え立つ高層マンション。プラチナホールに等しく最近に築かれた建物で、賑やかな駅の周辺に新たな光景をもたらした。
深さを増してゆく夕闇の中で、照明が建物の輪郭を浮かび上がらせている。プラチナホールに等しく、外観を眺めたことは幾度となくあったが、足を踏み入れるのは初めてのことだ。
祥子に招かれた部屋は、そのマンションの最上階に位置していた。
駐車場からエントランスへ入り、エレベーターに乗り込みながらも、朝子は建物の立派な仕様に目が奪われたままだった。
高校時代、一人暮らしをしていた風巳の住まいを初めて訪れた時も、同じような感慨に襲われたものだ。学生の一人住まいには、贅沢な建物だと感じた。
ここはそれ以上に明るくて広い。新しい建物に特有の美しさが付加されて、全てが輝いている。
「すごいね、吉川君」
朝子は案内人の透に感激を伝える。彼は無言で頷いて、ただ困ったように笑うだけだった。いつもの愛嬌が見られず、朝子はわずかに引っ掛かりを感じる。何かあったのかと問おうとすると、エレベーターが最上階に着いた。
「うわぉ、ホテルみたい」
声をあげる親友の晴菜に思い切り腕を引っ張られて、朝子は透に問いかけるきっかけを失う。目前に続く通路は広く、夕闇を払拭する程度に、穏やかな明度で照明が灯されていた。
「一度でいいから、こういう処に住んでみたいかも」
晴菜は辺りを見回しながら、ひたすらはしゃいでいる。綺麗なものに憧れる乙女心は朝子にもあるが、どうにも腑に落ちない部分があった。
通路を進みながら透を振り返ると、彼と並んで後ろを歩いている風巳が、朝子の引っ掛かりを口にした。
「祥子さんって、東京在住って言っていたよね」
透は足元を見つめたまま無言で頷く。朝子の位置からでは表情が読めないが、俯いた顔がうな垂れているようにも感じられる。あまり首を突っ込まないほうが良い話題なのかもしれない。
「こっちにもこんな住まいを持っているなんて、すごいね」
風巳も思うところがあったのか、それ以上の追求をやめたようだ。他愛ない感想にとどめて、清潔感の溢れている通路を見回していた。一瞬、透が肩の力を抜いたような気がして、朝子は風巳の気遣いが正しかったのだと悟る。
何か違う話題をふろうとすると、先頭を歩いていた晴菜がいつのまにか傍らにいた。彼女は器用に後ろ向きに歩きながら、透に笑いかける。朝子はまずい予感がしたが、親友は既に口を開いていた。
「実は吉川君に隠れて、パトロンがいたりしてね」
「そんなわけないでしょ」
朝子は即座に突っ込みを入れた。
「ドラマじゃないんだから。晴菜ってば、すぐにそういう成り行きを妄想して遊ぶんだから」
明るく釘を刺すと、晴菜は悪戯っぽく口元に笑みを浮かべる。
「いろいろとドラマチックな展開の方が面白いかなと」
「あれはドラマだから面白いの」
「まぁね」
悪気もなく面白がっている親友と並んで歩きながら、朝子はそっと透を窺ってみた。どうやら彼は気を悪くした様子もなく、風巳とこちらを見て「室沢らしい」と笑っていた。
「その展開で続くと、愛憎ひしめく殺人事件が起きて、俺が犯人だったり?」
透は晴菜の妄想を同じように面白がって、勝手に物語を作っている。彼の楽しげな調子に安堵しながら、朝子は晴菜と声を揃えて「それはありえない」と笑った。
「吉川君って昔っから弱いものいじめとか嫌いだし、正義感が強いから。人殺しなんかしたら、すぐに自首しそう。だから何の展開もなく終わって、ドラマにならないよ」
晴菜が的確に彼の印象を語る。朝子も「そうだよね」と頷いた。
四人でくだらないことを話していると、祥子の部屋にたどり着いたようだ。透がインターホンを押すと、中からはすぐに反応があった。
朝子はインターホンに伸びた彼の腕を眺めて、先日の襲撃で受けた怪我の具合が気になった。彼はこの暑さの中でも、長袖を着ている。きっと祥子に心配をかけたくない気持ちのあらわれなのだろう。
朝子は彼に怪我の具合を確かめることはせず、出迎えてくれた祥子に挨拶をした。
祥子は砕けた私服姿で現れた。改めて間近に見ると、それほど自分達と年の開きがあるようには見えない。ホールで出会ったときはスーツを纏っていたせいか、もっと大人びた印象を受けた。
凛とした格好の良さは相変わらずで、半袖から覗く腕がしなやかだった。引き締まった二の腕をしている。ひ弱な印象がなく、朝子は楽器を扱うには体力が必要なのかと、勝手に想像を巡らせる。
シャツの襟元には、やはり以前に見たのと同じペンダントトップが輝いていた。白い肌に小さな銀の輝きが映える。本人も相当気に入っているのかもしれない。
「お邪魔します」
訪れた四人はポーチを抜けてから玄関へ進んだ。晴菜が早速サンダルを脱いで揃えている。その隣で靴を脱いでいる透の所作に、朝子は違和感を覚えた。
「吉川君、足、どうかしたの?」
尋ねながら、脳裏には鮮明に夜の襲撃の場面が広がる。
「もしかして、あの夜に?」
透は素早く履物を脱いで、何でもないという素振りを示した。
「何でもないよ。……バイトで、足に荷物が直撃しただけ」
早口に彼が説明する。朝子はそれで傍らに祥子がいることを思い出した。彼女に対する透の配慮を思い出して、余計なことを聞いたと焦っていると、透はいつも通りの振る舞いで祥子を振り返った。
「あ、そうだ。配達用の車、教えてもらった駐車場の位置に止めてきたから」
透は素早く話題を変えたようだ。祥子もそれで興味が逸らされたようだった。
「ありがとう。ごめんなさい、透。無理を言って」
「いいよ、別に。ついでにみんな乗せてきたし。バイト先は融通が利くからさ。俺もそのまま家の前に止めて、翌朝乗っていったりすることがあるんだ」
「そうなの?じゃあ、遠慮なく明日のお昼まで借りるわね」
「ああ。また明日同じ処に止めておいてくれたら、勝手に乗って帰るし」
「それって、どういうこと?」
二人の会話に、透かさず晴菜が乱入している。どうやら明日の朝に祥子の楽器を移動させるらしい。そのために彼女は一日だけ透のバイト先の車を借りるようだった。
「それって、吉川君の権限で?」
「そう、ばれなきゃ平気。今日も一日配達だったし」
晴菜が「不正だ」と茶化すので、その場に笑い声が響く。
「それって、私とまどかさんが乗せてもらった車?」
朝子が聞くと、透は「そうそう」と頷いた。
「あれがバイト先で、俺がよく使う車だから」
「でも、冷蔵車じゃなかった?」
もっともな質問に透は得意げに笑う。温度調節の機能があるらしく、普通の荷台にも冷凍庫にもなるようだった。
ひとまず透の怪我から話題を逸らすことに成功したようだが、祥子は真っ直ぐに透を見つめている。朝子は更に祥子の気を逸らしておこうと、畳み掛けるように彼女に声をかける。
「あの、祥子さん。これ私の義姉から」
透を見つめて何か言いかけていた祥子に、手にしていた包みを差し出した。
「兄と義姉は、一緒に来ることができなかったので。せめて、これを届けて欲しいって」
「そんな、こちらの勝手な都合なのに。お二人には、どうかよろしく伝えて下さい」
彼女は問いかけを飲み込んで、朝子から包みを受け取る。「ありがとう」と会釈した。
一緒に訪れる筈だった晶は慌しい日々を送り続けていて、二日前から自宅に戻っていないのだ。どうやら英国から上司であるアルバート・スペンサーが来日しているらしい。その報告を受けて、まどかも今朝から出掛けている。
結局、兄である晶とまどかはこちらに訪れることが叶わなかった。
朝子は祥子の気を逸らすことが出来たと、小さく吐息をつく。祥子は四人の来客者を導くように、続く廊下を進んで突き当たりの扉を開けた。