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3:誘い1

 食事が終わると、風巳かざみはリビングのソファに移動した。あきの意味不明な言動に付き合って疲れてしまったが、心当たりがあるだけに強く切り返すことも出来ない。

 朝子あさこは思い出すだけで可笑しいのか、小さく笑いながら同じソファに座る。

 「はぁっ」と溜息をつくと、朝子が手を合わせて詫びた。


「ごめんね、風巳。扱いにくいお兄ちゃんで」

「……まぁ、今に始まったことじゃないから。仕方ないとも思うし」


 風巳の望んだ女の子は、彼が大切に見守ってきた妹なのだ。亡くした両親の形見とも言えるだろう。晶が風巳に対してひねくれたくなる理由としては充分すぎる。


「晶から見ると、俺ってやっぱり幼いのかもしれない。……色々と割り切れないから」


 多くを語らなくても、いともたやすく見抜かれた闇。晶の立っている境地は、想像以上に深くて広いのだ。風巳の世界とは比べ物にならない。

 朝子は風巳の呟きをどのように受け止めたのか、再び声をたてて笑った。


「そうかな。私から見ると圧倒的にお兄ちゃんの方が子どもに見えたけど」

「うーん。……たしかに、そういう時もあるみたいだね」


 ささやかな攻撃を思い出して、風巳は苦笑が浮かぶ。


「でも、それ以上に助けてもらっているし」


 昨夜のことも含めて、彼の遠まわしな策略によって行き違いを正されたことが、少なからずある。朝子も「そうだね」と素直に頷いた。

 隠し切れずに振り回された、秘めておきたい気持ち。醜い不安。朝子に全てを吐き出して、こごっていたものが解けた。渦巻いていた醜悪な苦しみが嘘のように、今日は穏やかに笑っていられる。


 朝子が厭わずに、受け止めてくれたから。

 二人にそのきっかけを与えてくれたのが、晶の仕掛けなのだ。風巳は皮肉な成り行きだと、今更になって笑ってしまう。


 すっかりいつもの自分を取り戻して朝子と向かい合っていると、慌しくリビングに戻ってくる人影があった。風巳は彼を見上げて目を丸くする。


「出掛けるの?晶」


 彼は食事を済ませるとすぐに自室へ向かったようだが、再びきっちりとスーツを纏って戻ってきた。仕度を整えて気を引き締めたのか、さっきまで色濃く漂っていた疲労感がすっかり影を潜めている。


「戻ってきても、毎日慌しいね」


 腕時計に視線を向けてから、彼は「まぁな」と意味ありげに笑った。まどかが廊下に続く扉から顔を出している。


「晶、時間は大丈夫?忘れ物はない?」

「ああ」


 彼は彼女の方へ歩みよりながら、ソファの二人を振り返る。


「じゃあな」

「うん、いってらっしゃい」


 朝子と二人で見送ると、すぐに姿が見えなくなった。風巳は帰国直後の彼の言葉を思い出す。大きな計画が始動すると語っていたはずなのだ。母国へ戻っても忙しく動き回っているのは、そのためなのだろうか。


 きっと彼ならば、目指して進む道の先陣を切っているに違いない。自分にはまだたどり着くことの叶わない、遠い道のり。いつかは繋がって、力になれる日が訪れるといい。


 刺激されるのは、胸に抱えた夢。

 風巳が思いを巡らせていると、ふいに軽快な音が耳に飛び込んできた。何度か聞いたことのある着信音。サイドボードの上にある朝子の携帯電話が鳴っている。


 素早くソファを立って、朝子が携帯を手にした。一瞬、不自然に動きを止めてから、彼女は受信に答える。一言、二言、朝子がやりとりしているのを聞いてから、風巳はテレビのリモコンに手を伸ばす。昨夜、朝子に思いをぶつけて、さかまく想いは癒された。今なら、彼女の立っている世界を認めるだけの余裕が持てる。


 あまり聞き耳を立てているのもどうかと思い、風巳はテレビの電源を入れてみた。けれど、「吉川君」という言葉が飛び込んできて、すぐに興味がそちらへ戻る。


 昨夜は朝子に関わる彼の世界を認められず、ただ嫉妬に苦しんで周りが見えなくなっていた。けれど、朝子に力を借りて立ち直り、一夜が明けて冷静になると、風巳も素直にとおるが心配だった。


 昨夜の襲撃は、どう考えても通り魔だとは思えない。

 ソファに掛けたまま身を捩るようにして朝子を眺めていると、彼女が通話を終える。朝子は言葉を選んでいるのか、ためらいがちにこちらを見た。風巳はすぐに気掛かりを口にする。


「今の電話って、もしかして吉川よしかわ君? 怪我の具合はどう? 昨夜はあれから大丈夫だったの?」

「……あ、うん。今、彼女とデート中だって云ってたから」


 なぜか戸惑った様子で、朝子が答える。風巳は昨夜の成り行きを振り返って、思い切り自己嫌悪に陥った。そっと朝子に苦笑を向けてみせる。


「あのさ、朝子。昨夜は俺、おかしくなっていたから。その、車の中で言ったこととか、気にしないで欲しいな」


 朝子は手に携帯を握り締めたまま、再びソファまで戻ってくる。勢い良く風巳の隣に掛けて、真っ直ぐに向き合ってくれた。風巳は頭を垂れて、素直に謝る。


「昨夜はごめん。俺の心が狭くて、朝子に嫌な思いをさせてしまいました」

「うん。でもね、風巳が気持ちを打ち明けてくれたから、すごく嬉しかったよ」


 朝子は笑顔を見せてから、窺うように風巳の顔を覗き込む。


「だけど、本当に風巳の気持ちはきちんと割り切れたの?」


 風巳はためらわずに頷いてみせる。


「だって、朝子が我儘をきいてくれたから、わかったんだ。……きっと、望めばいつでも朝子の描く世界の真ん中に立つことができるって」


 朝子は少しだけ不服そうに眉をしかめた。


「私の中では、風巳はいつでもど真ん中に立っているのに」

「さすがに、そこまで自信過剰にはなれないかな」


 風巳がいつもの調子で笑って見せると、朝子は大きな溜息をついた。


「やっぱり、風巳は風巳なんだよね。私なんて高校時代にどれだけヤキモチを焼きまくったことか。いつも晴菜とまどかさんに泣きついて。気持ちを立て直すのに、すごく時間がかかったのに」

「朝子が?」

「そうだよ。今だから言えるけど、高三の頃なんて、心の中に嫉妬の虫を飼っていたかも。風巳ってば、ほんっとに乙女の心を弄びすぎなの。全然知らなかったでしょ」

「え?それは、その、……ごめん」


 意外な過去を力説されて、風巳は思わず謝ってしまう。朝子は手を拳に握って、しみじみと思い出を語ってくれる。


「あの頃は毎日、本当に色んなことを考えていたよ。いっそうのこと、風巳の顔がのっぺらぼうにならないかなとか、極悪な人相しかできなくなる病気にかからないかなとか。透明人間になって、私以外には見えないとか。本当に色々と妄想して、自分を慰めていたのに」

「ご、ごめんね、朝子。俺、鈍くって」


 ひたすら詫びることしかできずにいると、朝子は明るい声で笑う。


「でも、普通の女子高生の悩みだなって、冷静に考えている自分もいたの。お兄ちゃんのこととか、それまでの経緯を考えれば、そんなことで悩むことができるようになった自分は幸せなのかもしれないって。ヤキモチ焼きながらね、そんなふうにも思っていたよ」

「……朝子らしいね」

「そうかな」


 彼女の描いた心の筋道を、風巳はとても愛しく感じる。込み上げた気持ちを、そのまま表現してみた。腕を伸ばして、しっかりと朝子を抱きしめる。

 愛おしくて、温かい。

 腕の中から朝子の声が響いてくる。


「だから、昨夜は風巳にも同じ想いが在るんだって思えて、嬉しかった。とても身近な気がしたから」

「そんなふうに云ってもらえると、すごく救われる」


 思ったまま言葉にすると、朝子はそっと顔をあげて困ったような顔をした。


「だけど、やっぱり風巳は風巳で、そういう想いにいつまでも捕らわれていないから。留まっていてくれないから。一日限定だったね。私、また全力で追いかけなきゃ」

「朝子ってさ、俺のこと過剰に評価しすぎ」

「そんなことないよ」

「あるって。お願いだから、俺の隣にいてね」


 心から懇願してみるが、朝子はあっさりと意味を取り違えてくれる。


「うん。頑張って隣に立てるように追いかけるね」

「いや、だからね。そうじゃなくて……」


 風巳は頭をがしがしと掻いてどう伝えればいいのかを考えるが、朝子は自分に渇を入れるように「頑張る」と呟いた。

 隣にいられるように努めてくれる、彼女の健気な決意。風巳を決して独りきりにはしない。離れていても望むことは同じなのだ。風巳は言いかけた言葉を呑みこんで、自分に気合を入れる。


「よし、じゃあ俺も頑張ろうっと」


 これからも彼女を欠いた世界では、心が揺らいでしまうだろう。不安が芽生えるのはたやすい。同じ世界に立っていることを忘れてしまいそうになる。

 自分の中に生まれる、もう一人の自分。余裕のない想いが作り上げる翳。


 誰もが戦っている。朝子も。

 汚い心も、醜い想いも、弱さも。自分だけに与えられた特別な試練ではなくて、誰もが胸に抱えて、一つずつ乗り越えている。


 自分の力で、あるいは誰かの力を助けにして。

 嫉妬も我儘も、全て朝子が教えてくれた思い。

 もう醜い自分を厭わない。

 いつしか、激しい葛藤の全てが、かけがえのない思い出になる。そんな日々が訪れることを、信じている。

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