2:屈託のある兄2
時刻は既に正午を過ぎている。昨日に引き続き、今日も朝と昼が兼用のブランチになった。まどかに起こされて兄がやって来たのが最後で、風巳は既にいつもの席に掛けている。晶は妹の朝子と顔を合わせても、風巳の顔を見ても、何の皮肉を言うでもなく物静かに食卓についた。
朝子は彼の様子を見た途端、気まずい気持ちがすぐに別の思いで上書きされてしまう。こういう場合、物静かという表現は間違えているだろう。興味深く兄の様子を窺ってしまう。
「どうしたの? お兄ちゃん」
まどかとのやりとりから、理由は何となく判るのだが、それでも朝子は聞かずにはいられない。妹の目にも整った顔立ちであるのは変わらないが、今朝はありえない位に気だるげな顔をしている。憔悴していると云った方が正しいかもしれない。
昨夜まどかとどのような賭けをしたのか興味が沸いたが、さすがに朝子もそれを聞くのは思いとどまった。賭けの話題をふれば、昨夜の自分達へ矛先が向くのは避けようがない。まどかの気遣いを台無しにして、朝子と風巳が被害を受けるのは目に見えている。
そんな危険を冒す気はさらさらないので、とにかくまじまじと兄の顔を眺めていた。
「晶、何だかものすごく疲労感が漂っているんだけど」
風巳も奇妙なものを見るような視線を送っている。一昔前なら、こんなふうに気だるい様子を眺めることはよくあった。不調な体を引きずるようにして、それでも彼は日々を当たり前のように過ごそうと努めていたのだ。大怪我をして戻って来た時も、同様に体力が損なわれていた。
今は全てが回復していて、おそらく人並み以上に体力を取り戻している筈なのだ。朝子としては、体力的な疲労というよりも精神的な疲労、もっと言葉を選ぶならば敗北感が漂っている、そんな気がしてしまう。
たしかにこの有様では、人をからかっている場合ではないだろう。朝子は再び心の中でまどかに喝采を送った。
兄である晶は「不本意だ」と低く呟いたまま、目の前に並んだ料理に箸をつける。風巳は彼からの皮肉を予想していたらしく、あまりに覇気のない主に戸惑いながら、同じように食事を始めた。
「とにかく、いただきます」
「はい、どうぞ」
いつもより精彩を欠いた食卓で、まどかだけが変わらず明るい。彼女は席につかず、料理を取り分けたり飲み物を用意したり、活き活きと給仕に回っている。
朝子も料理に手を出すと、ふいに兄がまどかに他愛ない注文をした。彼女が応えるためにキッチンへ入っていくと、大きく溜息をつく。
「ほんとにどうしたの?晶」
何気なく風巳が問うと、彼は無言のまま顔をあげた。だるそうな眼差しを向けて、何の前触れもなく掌で風巳の頭をはたく。
「イタッ、いきなり何?」
「――害虫駆除」
一言だけ答えて、彼は弄ぶように風巳の頭をペシペシとはたいている。朝子は兄の心境が手に取るようにわかってしまい、呆然とその光景を見守ってしまう。
(……こ、子どもみたい)
朝子は笑いたくなるのを堪えていたが、風巳は意味不明な攻撃に困惑している。とり皿を持って戻ってきたまどかが、食卓の違和感に気付いたのか「どうしたの?」と首を傾げた。
晶は何事もなかったように、簡潔に答える。
「でっかい蚊が飛んでいただけ」
まどかは言葉どおり素直に受け止めたようだが、朝子は堪えきれずに吹き出してしまう。
「あ、晶。それ俺の」
「何となくこっちが食べたくなった」
挙句の果てに、彼はささやかな嫌がらせに興じると決めたのか、風巳に取り分けられた料理に箸を伸ばす。
「何となくって、そっちと同じじゃん」
「だから何となくって云っているだろうが」
まるっきり子どものような理由である。彼はわざとらしく顔を上げると「また蚊がとんでいるな」と呟いて、風巳の頭をはたいた。心なしか力がこもっているのは、朝子の見間違いではないと思う。
「イタッ。蚊なんて飛んでないだろ」
「え?俺の耳にはさっきからブンブンうるさいけど」
「あのね」
風巳の訴えを聞き流して、彼は平然と食事を進めている。まどかも事情が飲み込めたらしく、朝子の傍らで同じように肩を震わせていた。
たしかに兄はまどかとの約束通り、昨夜のことには一切触れていないのだ。
被害をこうむっている風巳には申し訳ないが、朝子は目の前の光景が可笑しくてたまらなかった。