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1:屈託のある兄1

 結局のところ、朝子あさこは昨夜兄の仕掛けを最大限に活用してしまった。兄であるあきは、きっと全てを見抜いているだろう。兄妹とはいえ、あるいは兄妹だからこそ、朝子は彼と顔を合わせるのが、何だか気恥ずかしくてたまらない。そんな思いに捕らわれながら、朝子は窺うようにリビングを覗いてみた。


 見慣れた兄の人影はなく、思わずホッと吐息を漏らしてしまう。室内に入ると、そのまま一続きになっているダイニングへ向かう。食卓の前まで歩み寄ると、ようやくキッチンに立っていたまどかが朝子に気がついた。


 彼女は顔をあげると、対面キッチンの向こう側でいつもの微笑みを浮かべる。あでやかなのに柔らかな笑顔。どことなく気まずい気持ちを抱えていたが、朝子は一瞬で拭われるのがわかった。


「おはよう朝子ちゃん」

「まどかさん、おはよう。私、何か手伝おうか?」


 対面キッチンを覗き込むように身を寄せると、既に出来上がっている料理が視界に入った。


「もうほとんど出来ているの。この際、朝と昼を一緒にしちゃおうと思って。お腹空いているでしょ?朝子ちゃん」

「うん。風巳かざみもそろそろ起きてくると思うし。……じゃあ、それをテーブルに並べるね」

「ええ、ありがとう」


 二人でてきぱきと仕度を整えていて、朝子はふと気がついた。食事の用意は、自分と風巳とまどか。そして兄の分まで揃っている。


「まどかさん、お兄ちゃんは?」

「あ、いけない。そろそろ起こさなきゃ」


 朝子はてっきり兄が出掛けていると思っていたので、驚いてしまう。自宅にいたというだけでも驚きなのに、まだ安眠を貪っているというのが信じられなかった。


 最近は自宅に戻っていても、晶が昼近くまでだらだらと眠っていることは少ない。日本に帰国しても多忙であるのは変わらないらしく、朝から忙しくどこかへ出掛けていることが多いのだ。そのため既に習慣となっているのか、家にいても朝子がリビングに下りてくる頃には、既に起きて寛いでいる。


「お兄ちゃんがまだ寝てるの?珍しいね」

「云われてみれば、そうね。だけど無理もないわ。あたし、約束通り色々と頑張っているものね」

「え?」


 朝子はすぐに言葉の意味が判らなかったが、まどかが照れたように頬を染めて笑っているので、さすがに察しがついた。思わず小さく拍手をして讃えてしまう。


「すごーい、さすがまどかさん」


 彼女は照れながらも、腰に手をあてて「まかせて」と胸を張った。続いて、逞しい台詞を述べてくれる。


「あたしだって、やる時はやるのよ。女は開き直ったら強いんだから。それにね、ついでに晶と賭けをしたのよ。あたしが勝ったら、絶対に二人をからかったりしないという約束で」

「二人って?」

「朝子ちゃんと風巳君のこと。昨夜のことには一切触れないっていう約束なの」


 まどかはサラリと答えてくれるが、朝子は突然矛先を向けられてうろたえてしまう。顔が真っ赤にほてるのが自分でもわかった。恥ずかしさで顔をあげていられないが、何とか冷静に思いを巡らせて見ると、まどかほど心強い味方もいないだろう。


 兄に対しては、彼女以上に影響力のあるものなど存在しない。

 まどかが強い決意を持って釘を刺せば、きっと兄は従うだろう。朝子は目の前の女性が勝利の女神に見えてしまう。


「あの、ありがとう。まどかさん」

「どういたしまして。今回の賭けにはね、負けなかったから大丈夫よ」


 心強い言葉に救われていると、まどかは何かを思い出したのか小さく笑う。


「昨夜の晶の荒み方は可笑しかったわね。自分で言い出したことなのに、一人で落ち込んだり苛々しているのよ」

「お兄ちゃんが?」

「ええ。まるで朝子ちゃんのお父さんみたいだった」


 まどかの教えてくれた成り行きは、簡単に思い描くことが出来る。天邪鬼な兄らしい一面だ。彼に風巳との関係を見抜かれるのは、ただ恥ずかしくて、どこかくすぐったい。出来ることなら触れて欲しくはない。隠して秘めておきたい気持ちは変わらないけれど、朝子は胸の底にぽうっと何かが満ちてくるのを感じた。兄の様子を辿る光景は、それだけで涙がでそうになるくらい、温かくて優しい。


 彼が妹として自分を想ってくれている、たしかな証。

 これまで、複雑な事情を抱えながらも、彼はいつでも朝子に対して責務を果たそうと努めてくれた。たとえ両親を失ったことへの罪悪が絡んでいても、彼が見守ってきてくれた事実は揺るがない。


 いつでも、どんな時も。

 彼は兄として在って、自分を見捨てたりはしなかった。今も、朝子が幸せになるための礎を築いてくれている。はっきりと言葉として聞いたことはなかったけれど、これまでを思い返せば明らかなことだ。


 朝子はこんな時に強く感じる。

 両親を失った不幸を補うだけの幸せを、自分はたしかに与えられている。

 恵まれている。


 込み上げた想いを、なんと言葉にすればいいのかわからない。兄に対する感謝は、口では伝えられない。きっと朝子が幸せでいることが、それを伝えてくれている。

 今はまだ言葉はいらない。いつか巣立つ日までは、惜しみなく彼の庇護に甘えていたいのだ。


「朝子ちゃんのおかげで、昨夜は珍しいものが見られたわ。ああいう晶を眺めているのも、何だか微笑ましくて、あたしは好きなんだけど」


 朝子は胸を満たす想いから顔を上げて、まどかに笑って見せた。


「それって、お兄ちゃんはまどかさんに甘えているんだと思うな」

「え?本当に?……そうなのかしら」

「うん。絶対そうだよ」


 朝子がはっきりと宣言すると、まどかは嬉しそうに笑った。


「朝子ちゃんにそう云ってもらえるなら、たしかね。すごく嬉しい。あたし、晶を起こしてくるわね」

「うん」


 食卓を離れて部屋を出て行くまどかを見送りながら、朝子は胸に宿った気持ちを確かめる。

 兄に与えられた幸せを感じながら、朝子は兄が手に入れた幸せも噛み締めることができた。頑なに閉ざされていた彼の世界は、既に開かれている。


 安らげる、癒される、穏やかな世界。闇は掃われ、翳は拭われる。

 甘えられる存在。

 心を開くことができる場所を、兄は手に入れた。


 朝子と晶。

 亡き両親が望んだのであろう子供達の幸せは、たしかにここにある。

 だからきっと、それで全てが許されるのだ。もう誰も両親の死に対して罪の意識を抱える必要はない。

 兄も、風巳も。

 朝子は自分の中に芽生えた想いを強く抱きしめる。この満たされた気持ちが両親へ届くようにと、強く祈った。

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