真夏の夜の悪夢 6
闇に包まれた寝室には、彼女以外の一切の刺激がない。晶は全く気が紛れないことに気がついて、自分の浅はかさを呪いたくなっていた。
視覚を遮断すれば、そこから得られる情報が失われて、次々に与えられる衝撃を軽減できると考えていたのだ。
それなのに。
寝台で寄り添うように押し付けられた体の温もりが、彼女の輪郭を脳裏に描き出してしまう。伸ばされた腕は晶を抱くように、しっかりと絡み付いていた。
気を逸らそうとしても、どうしても意識が彼女へ集中してしまう。
(……この状況で、どうやって眠れと?)
彼女が癒しをもたらす存在だとしても、今夜ばかりは癒されそうにない。苦痛で、苦渋で、拷問以外の何物でもないだろう。
ただてさえ、かなり危うい場面があったのだ。刻まれた光景が蘇ると、それだけで晶は悶々と欲望が込み上げてしまう。
彼女が自身の浴衣を踏んで、躓いたとき。
(あれは、まずかった)
自分の腕に寄りかかった彼女の重みが、甘い刺激になって体を貫く。同時に、倒れた勢いで乱れた浴衣から細い肩と、豊かな膨らみを示す胸の谷間が覗いた。
一瞬欲望に身を任せそうになったが、我ながらよく堪えたと自分を称賛したくなる。
晶は寝台でわずかに身動きをして、深く息をついた。まどかはぴったりと寄り添ったまま、既に眠りに落ちているらしい。穏やかな息遣いが首筋に触れる。ふわりと吐息が触れるたびに、晶は込み上げてくるものを頑なに堪えた。
(――俺を殺す気か)
もちろん賭けには負けたくないが、気持ちよさそうに眠っている相手を襲うような真似もしたくない。
けれど、伝わってくる温もりと息遣いに、気が遠くなりそうだった。
(いっそうのこと、気絶させてくれた方が楽だろうな)
まどかの淹れた濃いコーヒーのせいなのか、渦巻く欲望のせいなのか、目が冴えていっこうに眠れる気配がない。
地獄を彷徨うよりも、長い長い一夜になりそうだった。晶は何とか彼女の気配から気を逸らそうと古典的な方法を試みる。
(羊が一匹、羊が二匹―――)
これが名案だとは思えないが、気を許すと意識がすぐに彼女へ向かってしまう。彼は長い夜を、羊を数えてやり過ごすことを決意する。
傍らの彼女が身動きするたびに、と言うよりも呼吸するたびに、同じ調子で正気がぐらぐらと揺れ動く。はっきり言って羊を順番に数えているのかも怪しい。とにかく挫けそうになる理性を慰めながら、解決策のない葛藤を続けながら、ゆっくりゆっくりと過ぎていく時に、抗わず身を任せるしかない。
どうして自分がこんな目にあう羽目になったのか遡っていくと、妹の彼氏である風巳にたどり着く。妹との関係をからかうよりも、晶の中では既にこんな拷問に陥れた逆恨みの方が比重を占めていたかもしれない。この一夜に対しての報復がしたいという気持ちの方が強くなっている。
とにかく彼にとっては五本の指に入るくらい最悪で、ひたすら長い一夜だった。
(羊が二万四千五百六匹、羊が二万四千五百七匹――)
どのくらいか念仏のように唱え続けていると、闇に沈む室内にじわりと薄明が満ちてくるのを感じた。遮光カーテンを貫いて淡い光が届く。
(羊が………、やっと、夜が明けたか)
晶は深く息ついて、腕を持ち上げると額を押さえた。ゆっくりと首を回すと淡い光に包まれた室内が見渡せる。時計を確認すると、短針が午前五時を指していた。
(賭けの終了まで、あと一時間だな)
結局一睡も出来ずに欲望と戦っていたが、ここまで来れば賭けには勝ったようなものだ。まどかはまだ目覚める気配がない。無防備な寝顔に愛しさが募って、思わず気を引き締める。長い一夜、とんでもない拷問をやり過ごしたのだから、今更こんな処で失敗は許されない。
晶は戦い続けて疲れきった理性を労わるために、起きて一風呂浴びようと思い至る。それでもう賭けのタイムリミットはほとんど消化されるだろう。
(……永かった)
想像以上に苦戦したが、勝てばいいのだ。
晶は絡みつくまどかの腕をそっと引き剥がして、ゆっくりと身を起こした。
その時。
「―――っ」
ふと視界の端に入ってきた光景が、あまりに衝撃的で、魅惑的で、一切の思考が停止する。
(駄目だ)
それは神様の悪戯だったのかもしれない。
自身が起き上がった成り行きで、肌布団が捲れたのだ。隣で眠っているまどかの上からもそれが奪われたせいで、すぐ間近に理性をぶちかます信じられない光景が広がっていた。
ゆったりと纏っていた浴衣の襟元が、無防備に乱れて華奢な肩が露になっていた。その乱れは胸元の重ね目にも及んで、しどけなくはだけている。
白い胸元の豊かな膨らみが、隠しようもなく視界に飛び込んできて、おもいきり鮮烈に焼きついた。
薄明に映し出された柔らかな輪郭が、晶の正気を遠ざける。
(――待て。我に返れ、俺)
一晩の苦痛を思い起こすと、それを無駄にすることはできないという強い意志が働いた。晶は傾きまくった理性を、奇蹟的に立て直す。
深い吐息をついて欲望を沈めると、とりあえず肌布団に手を伸ばす。まどかに掛けようとすると、わずかな気配に気がついたのか、伏せられた長い睫が震える。
彼女は目覚めると、すぐに起き上がっている晶を見つけた。直後、自分の状況に気がついたらしく、「きゃあ」と悲鳴をあげて身を起こすと、慌ててはだけていた浴衣の胸元をかき合わせる。
「あ、あの、これは」
頬だけではなく首筋まで赤く染めて、まどかは恥ずかしさのあまり瞳を潤ませている。
「ご、ごめんなさい」
意味もなく謝って、泣き出しそうな表情で晶を見た。
その仕草があまりに可愛くて、愛おしくて。
全てをぶち壊す決定打になってしまった。
例えば、ここで彼女が開き直って晶を誘惑したり、思い余って晶を責めたりしたのなら、きっと彼の理性が失われることはなく、踏みとどまっただろう。
けれど、まどかの反応には何の思惑もなく、ただ素直で、掛け値なく健気で。
だからこそ、晶を揺るがす最大の武器になった。
数々の試練を乗り越えてきた、強靭な理性も。
この瞬間に。
――ぶちっ。がらがらがら、がしゃん。じゅう。
一瞬にして千切れて、崩れて、倒れて、灰になるまで燃え尽きてしまった。
跡には理性を焼き尽くした、業火のような欲望が残っているだけである。
「あっ。……あの。晶?」
彼は何のためらいもなくまどかの体を抱き寄せる。
一方、突然強い力で引き寄せられて、まどかは成り行きについて行けない。
「どうしたの?怒っているの?」
「違う。もう限界」
戸惑う彼女の顎を持ち上げて、晶はそれだけを告げる。
永い永い一夜。ひたすら焦がれ続けた甘い温もりと、柔らかな輪郭。
全てを惜しみなく確かめるように、彼はただ深く口づけた。
時刻は午前五時十五分。
既に一時間を切った段階で、彼は見事に敗北したのだった。
その後、どれほど激しく彼女を求めたのかは、本人もよく覚えていない。
手に入れるはずだった勝利をぎりぎりで逃して、我に返った彼がどれほど凹んでいたのか。
それは、どうやら目覚めてからの憔悴ぶりが明らかにしていたらしい。