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真夏の夜の悪夢 4

 この拷問と断言していい悪夢は、いつが始まりだったのだろう。

 彼女が書斎の扉を叩いたときなのか、濃い目に淹れられたコーヒーを差し出されたときなのか、この目で彼女の姿を見たときだったのか。


 まどかが再び書斎に現れてからも、あきはノックに対してもただ返事をするだけで、目の前に広がる画面と書類から目を離したりはしなかった。


 そんな具合に、良い感じに高まった集中力が乱れたのは、彼女が傍らにやって来てコーヒーを差し出したときだったのかもしれない。


 視界の端に少しだけ白い手が見えたような気がしたのだ。

 その瞬間、カップから立ち昇る香ばしい匂いと共に、ふわりと甘い香りが漂う。ただかたわらに立つだけで、彼女から放たれる香りがうっとりと晶を包み込んだ。


「晶、コーヒーを淹れてきたの。どうぞ」


 訊きなれた声に「ありがとう」と答えて、彼はようやく机上から視線を外して振り向いた。


「――――」


 あまりの衝撃に、言葉が出てこない。


(――ちょっと待てよ、おまえ)


 隣に立つ彼女を眺めて、晶ははじめて危機感を抱いた。片付けをしてコーヒーを淹れただけではなく、浴室へ立ち寄ったのは間違いがない。


 火照ほてっているのか、頬がほのかに染まっている。蛍光灯に照らされただけで、白い肌が桜色に染められた真珠のように輝いて見えた。

 付け加えて。


(なんだ、それは)


 白地に深緑の百合が咲く浴衣。ゆったりと重ねられた襟元、結い上げた髪から覗く白い首筋。そして、鮮やかな朱の腰紐が彼女の引き締まった輪郭を完成させる。

 あまりの色香に一瞬だけ自失しそうになったが、晶は辛うじて自分を取り戻した。


(本気だな、これは。……そう来るか)


「おまえ、俺が望んでも絶対にのらないくせに、風巳かざみ朝子あさこのためには、そこまでするわけか」

「だって、夏は浴衣よねって思ったの。……それに、あたしに足りない色気とか魅力を少しは補ってくれるかしらと思って」


 恥ずかしそうに指先を重ねて弄びながら、まどかは小声でそんなふうに打ち明けた。


(誰に、何が足りないだって?)


 晶は眩暈を感じながらも、彼女らしい考え方だと溜息をつく。例えば、魅力値というものがあるならば、まどかはきっと自分のそれがマイナスの値にあると思い込んでいるのだろう。浴衣という小道具の力を借りて、ようやく世間の女性並みにプラスマイナスがゼロになるのだと考えているに違いない。


(これで一晩戦うのか、俺は)


 晶の危惧には一切気がつかない様子で、まどかは窺うように彼を見つめている。


「あたしが慰めてあげるだけじゃ、駄目?」


 思い切り色気を漂わせているのに、彼女の仕草は変わらず素直で、いじらしい位である。抱きしめたくなる衝動を堪えて、晶はかき乱された心境を隠すようにいつも通り笑って見せた。


「賭けている限り、駄目だな」


 まどかはがっかりしたように息をついてから、決意を新たにしたのか顔をあげた。


「じゃあ、今夜はめいっぱい晶に甘えさせていただきます」


 火に油とはこういうこと言うのかもしれない。

 まずいと思ったが、言い終わらないうちに再び彼女が腕を伸ばした。自分に触れた体温が理性を焦がしてしまいそうに熱い。

 むせ返るような甘い香りに、正気が奪われそうになる。


「あたし、今度は絶対に負けられないもの」


 耳元で囁く声、触れる息遣い、体の熱、漂う甘い香り。

 聴覚、嗅覚、触覚の全てが、彼女に奪われてしまう。

 晶は自身をこちら側にとどめておく為に、吹き飛びそうな理性を何とか繋ぎとめて、机の上のコーヒーに手を伸ばして口に含んだ。いつもより濃いコーヒーの苦味が、少しだけ欲望を遠ざけてくれる。


 辛うじて味覚に救われたが、次の瞬間には視覚まで奪われていた。

 ゆったりと重ねた襟元が、彼女が身動きする度にわずかに開く。触れそうな位置で、白い首筋から続く鎖骨が露になって、口づけたい衝動に駆られた。


(――気が、狂う)


 晶はとにかくこの状況を打開しようと、一時的に戦線を離脱することを考えた。椅子から立ち上がると、まどかが驚いたように彼を見上げる。


 着崩れた浴衣で立ち尽くす姿。たったそれだけの彼女を眺めているだけで、晶は手を伸ばしたい衝動が込み上げる。


(頭がおかしくなりそうだ)


 世の中には、悩殺という言葉がある。

 晶にとって、今のまどかがまさにそれだった。彼は初めて悩殺という言葉の真実に至り、それ以上に相応しい言い回しはないと、日本語の素晴らしさを皮肉な思いで噛み締めていた。


 まどかの作戦は見事に功を奏して、確実に晶を追い詰めている。

 彼はこの目に彼女を映しているのは、絶対的に不利だと作戦を練り直す。


「どうしたの?晶」


 立ち上がった晶を見上げて、まどかは戸惑っているようだった。


「あの、お仕事の邪魔かしら。晶は忙しいのに、ごめんなさい」


 どんな時も気遣う思いを忘れない心。欲望をかき乱す色香だけでなく、愛しさまで込み上げてくる。まったく別の意味で追い詰められていたが、さすがに晶は彼女の思いやりを勝利のために利用する気にはなれなかった。


「今夜は仕事に追われている訳じゃない。おまえが謝ることは何もないよ。俺もシャワーを浴びて、もう寝ようかと思っただけ」


 賭けを開始した時から、まどかには相手を誘惑する権利があるのだ。晶は仕事を盾にして権利を侵すことはしなかった。


 正攻法で臨むつもりだが、このまま書斎で過ごすのは分が悪すぎる。明るい処で彼女を見ているよりは、寝台に入って視覚だけでも遮断した方がいいと思えた。

 彼女から離れると、見失いそうになっていた理性が戻ってくる。


「賭けは、まだ続行?」


 まどかの問いかけに、晶は笑って見せた。


「もちろん。続きは寝室で」


 苦戦する予感がしていたが、今更反故にはできない。受けて立つしかないだろう。ここまで彼女に苦しめられるとは予想もしていなかったが、彼女との戦いというよりも既に自分の欲望との戦いになっていた。


「賭けのタイムリミットは、いつまで?」


 まどかの問いかけに、晶は簡単に答えた。


「おまえが今夜一晩と言っていたから、……明日の朝までだな」

「朝なら、日が昇るまで?」

「そうだな。寝室の時計が午前六時を刻むまで。それでどうだ?」


 晶は単に判りやすくするために時刻を指定したのだが、これがどれほど自分の首を絞めることになるのか、当然この時点では知る由もない。


 まどかは「わかったわ」と頷いた。

 晶が机を離れると、まどかは悩ましげに浴衣の裾を引きずりながら、奥の寝室へ入っていく。書斎を出ると、晶は深い溜息が出た。

 扉に背を預けたまま、思わず天井を仰いでしまう。


(俺としたことが、不覚だな)


 改めて気合を入れ直して、晶はとりあえず浴室へ向かった。

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