真夏の夜の悪夢 3
キッチンで手早く片付けを済ませながら、まどかは次の作戦を考えていた。何か勝負事を持ちかけた場合、晶が手強い相手となることは分かりきっていたことなのだ。今更戸惑ってみたり、後悔してみても仕方がない。
言い出した以上は、ひたすら迷わずに邁進するしかないだろう。
どう考えても、彼が自分の毒牙にかかってくれるとは思えなかったが、風巳と朝子の明日がかかっているのだ。恥ずかしさに負けて、攻撃の手を緩めることなど許されない。
まどかは出来る限り、考え方を前向きに修正する。
自分に指一本触れることが出来ないということは、彼の強引な振る舞いが封印されたことに等しい。まどかがどれほど身を寄せようが、しがみつこうが、抱きつこうが、彼が狼になることはできないのだ。なぜなら、それは彼の敗北を意味するのだから。
(――それって、思っていたよりも甘えやすいのかも)
彼が狼にならないのなら、まどかは無邪気にまとわりつきたい気がした。どれだけ触れても抱きついても、彼は人形のように身動きできないのだ。
はっきり言って、そんな機会はこの先あるかどうか分からない。
しかも今夜は彼を誘惑するための、正当な理由があるのだ。色香を振りまくことに戸惑う必要もない。
(だけど、問題はあたしにそれだけの魅力があるかしらってことよね)
彼を誘惑する決意を固めてみたものの、まどかは女としての魅力があるのかどうか、いまいち自信が持てない。
先刻も書斎で机に向かっている彼の背中に抱きついてみたが、彼は刺激を受けたという素振りもなく、面白そうにまどかの行動を受け止めていた。悔しいくらいに余裕が漲っていて、このままでは埒があかないと思えた。
晶の理性を揺るがすほどの魅力がないのだと、まどかは思わず落ち込みそうになってしまうが、今は挫けてはいられないと思い直す。
(どうやったら、その気になってくれるのかしら)
自分でも大胆なことを考えていると思えたが、不思議とためらいはなかった。風巳と朝子の平穏な日々を守るために、臆している場合ではないと、強い使命感が働いているせいだろう。
まどかは有り得ないくらい大胆な方法からささやかな方法まで、あらゆる手段を思い浮かべてみて、辛うじて自分に出来そうな成り行きを追いかけてみる。
(お風呂上りとかなら、あたしでも少しは色気が漂うかしら)
どんな案を模索してみても、結局は自分の持つ色気に限界があるという答えにたどり着いてしまう。
(……玉環みたいに魅力的だったら、簡単なのに。自分を呪いたくなるわ)
どう考えても自信が持てないが、まどかは仕方がないと開き直ることにした。湯上り美人という言葉もあるのだから、それで攻めてみようと決意する。
(湯上りで浴衣なんか着てみると、風流でいいかも)
季節も相応しいし、細い帯だけを使ってゆったりと羽織っていれば、旅館風の寝間着にもなる。まどかが恥ずかしさを堪えて形に出来そうな、ぎりぎりの発想がこれだった。
男の浪漫を刺激するらしい裸エプロンだとか、大胆な夜着も考えてみたが、どう考えてもそれは実行できそうにない。
まどかは自分なりに名案だと、浴衣を小道具として選ぶことにした。
キッチンを綺麗に片してから、絶対に勝つという決意を固めて浴衣を用意する。それを抱えて浴室へ向かうと、ゆっくりとぬるめのお湯を浴びた。濡れた髪を適当に乾かして緩く結い上げてから、用意した浴衣にするりと袖を通す。
白地に濃い緑で描かれた花は、凛とした山百合。
わざと裾をひきずるように無造作に纏い、できるだけ襟元をゆったりと整えて前を重ねてから細い朱色の腰紐を手にとって結ぶ。
鏡に映る着崩れた様子がいかにも無防備に乱れていて、まどかは少しだけ色気が出たような気がした。
裸身の上に薄い浴衣を一枚だけを纏う。
恥ずかしくないと言えば嘘になるが、これ位の勢いがなければ、あの晶を揺るがすことなど出来ないと思えた。半ばヤケクソというか、意地になっている部分があると言ってもいいのかもしれない。
(よしっ。あとは、ドロドロに濃いコーヒーでも淹れて持っていけば、完璧だわ)
どこかで強烈に恥ずかしいという思いが込み上げたが、それは次の瞬間には苛烈な使命感に上書きされる。
(神様。どうか、風巳君と朝子ちゃんのために、晶がその気になってくれますように)
胸の前で手を組み合わせてから、まどかは思わずそんなことを願っていた。