真夏の夜の悪夢 2
賭けの開始から、約一時間後。
書斎で机に向かいながら、晶は頬杖をついて深く息を吐き出した。
さっきまで傍らにあった気配がまだ室内に残っているようで、彼はその残像を振り払うように、落ちかかる髪をかきあげた。
(……まずいな)
机上に広げた書類に集中しようと努めるが、込み上げてくる衝動が邪魔をする。
(思っていたよりは、苦戦するかもしれない)
彼の想像よりも、賭けの相手が強敵であったことを自覚してしまう。まどかが賭けを言い出したとき、晶は容易に勝てると考えていた。以前のオセロの時と同様に、こちらに有利で分があると賭けの結果がはじき出されたのだ。
当初の予定では、一晩気を逸らしておくことなど簡単な筈だった。そもそも晶には、時間を持て余しているような暇人の感覚はない。英国から自邸へ戻ってきても、成すべき職務に追われているのは変わらない。
書斎にこもって仕事に打ち込んでいれば、時間は瞬く間に過ぎていくのだ。寝る間を惜しむことには慣れている。一晩位、寝室への出入りを禁じてまどかの誘惑から目を逸らすことなど容易い。
容易いはずだったのだ。
彼はもう一度深く息をついた。どの辺りから、彼女の力を読み誤っていたのだろうと模索してしまう。
まどかの全力をかけた誘惑。
晶は彼女にそれを豪語されても、瑣末なことのように捉えていた。今までの経験から考えてみても、まどかは自ら甘えるということが出来ない性格なのだ。
そういう方面に対しては、どこか羞恥心の塊のような処があって、――それがもどかしく、またからかい甲斐があって愛しい部分でもあるのだが――、全力で誘惑すると宣言されても、絶対に晶にとっては大した攻撃力にはならない。
ならないと思っていた。
賭けを始めてみて、晶は彼女の意気込みを甘く見ていたのだと思った。よく考えてみると、彼女にとって今回の賭けは「誰かのため」という大義名分がついている。
まどかの場合、この「誰かのため」という理由が相当な力になってしまうのだ。自分独りが負けた代価を支払うのならば、彼女の意志は羞恥心に打ち勝つほどには育たない。
けれど、それが「誰かのため」――今回の場合は風巳と朝子のためなのだが――であるならば、少々の恥ずかしさは強い意志によって打ち消されてしまうだろう。
晶は重大な布石を見落としていたのだと、少しばかり後悔していた。
賭けが開始してから、彼は迷わず書斎で仕事に向かってみた。予定では、これでまどかには手も足も出ないだろうと考えていたが、彼女は珍しく同じように書斎へついて来た。
もちろん彼女には相手を誘惑する権利があるのだから、普通に考えると、標的の傍にいることは当然である。彼女の反応を珍しいと感じつつも、晶は傍らにやって来たまどかに対しては、ほとんど何の警戒もしていなかった。
きっと、傍にいても大した振る舞いはできないと思い込んでいたのだろう。
この辺りから、何かが狂い始めていたのかもしれない。
はじめの一撃が放たれたのは、彼が机に向かってしばらくしてからだった。
書類を広げて何気なく接続した画面を眺めていると、ふいに背後から彼女の腕が伸びてきた。晶の心情的には思い切り不意打ちで、構える隙を与えず彼女の細い腕が首筋に絡みつく。
柔らかな体温と甘い香りが、一瞬にして全てを支配した。
画面上の数式や活字が送り込む情報が一気に遮断されて、何もかもが真っ白に染まった。
他愛ないことを語るだけの彼女の声。たったそれだけなのに、耳元で囁く息遣いが触れて、ざわりと背筋に衝撃が走る。
まずいと思ったが、彼は辛うじて思い切り傾いだ心を立て直した。見事に動揺を隠し切って、いつも通りを貫き通す。
甘えてくる彼女に慣れてくると、こんな状況も悪くないという余裕が芽生えてきた。
まどかはしばらく晶にまとわりついて、さんざん欲望をかき乱してから、成り行きで放って来たままのキッチンの片付けを済ませてくると書斎を出て行った。
次の作戦を立てるためなのか、単に片付けるためなのか、とにかく一時休戦である。
晶はさっきまでの状況を顧みて、再び溜息をついた。首筋に絡み付いていた細い腕を思い出すだけで、甘い衝動が込み上げてくる。
思っていたよりも、勝利への道程は険しいのかもしれない。
晶は自身の考えを軌道修正して、二回戦に臨む姿勢を正す。
「誰かのため」に芽生えたまどかの意志に負けないくらい、強い意志を持てばいいのだ。
決して彼女の誘惑に屈しない心と、自身の思いを叶える勝利への執着。
強く言い聞かせて胸に抱き、晶はかき乱された集中力を取り戻した。手元の書類と画面を交互に眺めて、追われている職務に身を任せる。
この時はまだ、晶の中では負けるという思いは微塵もなく。
まどかの決意を見誤っていたと後悔した処で、それは本当にささやかな悔いでしかなく。
彼女の全力をかけた誘惑がどのようなものなのか、賭けの成り行きを楽しんでみようという余裕があった。
けれど、彼はこの後、思い切り真夏の夜の悪夢を体験することになるのだった。