おまけ視点
とりあえず、現在の邸宅の主の心は荒んでいる。自分で言い出しておきながら、自分で落ち込んでいるのだから始末が悪い。
妹の背中を見送ってから、彼は食卓の椅子に掛けて長い足を組む。ぼんやりと何かを考えてから、深い溜息をついた。やりきれない思いでもあるのか、テーブルに頬杖をついてから、再び溜息をつく。
心優しい妻は夫の心境を察したのか、紅茶を淹れて彼の前に置いた。自分もそっと向かいの席に座る。
妻であるまどかは、こんな時、彼がお酒を飲んで酔えない体質であることが、たまらなく不憫になる。自分で扱いきれない感情をごまかす有効な手段を持たないのと同じことだ。
酔えないとわかっているのだが、まどかは少しでも彼の思いを紛らわせようと尋ねてみる。
「晶、ワインでも開ける?」
声をかけられて、彼はようやく頬杖から顔をあげた。向かい側に座っているまどかが、戸惑いがちにこちらを気遣っているのがわかる。食卓に置かれた紅茶を眺めて、苦笑が漏れた。
「いや、いいよ。これで充分」
晶は目の前のカップを持ち上げて、口をつけた。まどかはどんなふうに声をかければいいのか、ぐるぐると言葉を探している。良い言葉が見つからず、一人で悩んでいると、晶がカチャリとカップを置いた。
もう一度深い溜息をついてから、強い響きで胸の内を語る。
「やっぱりどう考えても、どんなに心優しい視線で眺めてみても、腹が立つ」
言葉にすると、ますます苛立ちが募るようだ。晶はとんとんと指先で卓上を叩いてから、二階の様子を窺うように天井を仰いだ。
「どうして俺があいつらのお膳立てをやっているんだ。おかしいだろう、この展開は」
まどかは思わず笑ってしまう。そんなことに苛々している様子が、とても微笑ましく見えた。
「そうかしら。晶のそういう処、あたしは好きよ」
彼には思いがけない台詞だったらしく、驚いたようにまどかを見た。
「結局、二人には幸せでいてほしいのよね」
「……たしかに、百歩譲っておまえの言っていることを正しいと認めよう。けどな、それとこれとは話が違う」
「え?どこが違うの?」
「どこがと云われても。とにかく腹が立つんだよ、風巳に。あのボケ、たまに帰国してきたら、この有様だからな。何しに戻ってきたんだ、あいつは」
「それは、朝子ちゃんに会いに」
「それがそもそもムカツクんだよ。しかも、ベランダ。人の目を盗んでこそこそと」
「目の前でベタベタされるよりは、いいと思うけれど」
まどかは可笑しくなってきて、小さく声をたてて笑った。
「晶、言っていることがメチャクチャよ。――おかしい」
控えめに笑い続けていると、晶も矛盾した自分がバカバカしくなったのか、何かを吐き出すように吐息をつく。それからまどかに釣られたように、低く笑った。
「不毛なことを云っているな、俺は」
「妹の朝子ちゃんでそれだったら、晶に娘が出来たら大変だわ。年頃になった時、毎日イライラしてるの」
「おまえね、楽しそうに想像するなよ」
「だって、なんだかそういうのって、可愛いお父さんよね」
まどかは妄想を膨らませて、うっとりと目を輝かせている。
「そんな晶を、あたしが宥めたり慰めたりするの。それも、とっても幸せね」
「へぇ」
不毛な苛立ちに終止符を打って、晶はすばやく気を取り直す。腹を立てているより、彼女に慰めてもらうほうが楽しいに決まっている。
「俺を宥めて慰めるのが、幸せですか。それなら、今すぐこの荒んだ心を慰めてもらいたいね」
「いいわよ」と答えようとして、まどかは言葉を呑みこんだ。目の前で悪戯めいた微笑みを浮かべて、彼が真っ直ぐに彼女を見ている。
「えーと、晶も気を取り直したことだし、あたしはこれで……」
そそくさとキッチンへ戻って片付けにかかろうとすると、彼が素早く手を伸ばした。傍らを通り過ぎようとしたまどかの腕を、しっかりと掴んでいる。
「こらこら、話は終わってないだろ」
「だって、もう慰める必要もなさそうだし」
「こんなに心が荒んでいるのに?」
「晶、楽しそうよ」
彼の皮肉っぽい笑みを示すと、彼は細い腕を掴んでいる手に力を入れた。まどかは小さく悲鳴をあげたが、立ち上がった彼に、荷物のようにあっさりと抱え上げられる。
そのままスタスタと食卓を離れて、部屋を出ようとするので、まどかは抱え上げられたまま声を高くした。
「ちょっと、晶ったら。あたしは片付けが残っているのに」
「そんなのは明日でもかまわない」
有無を言わせず、彼はリビングを出ると廊下を突き進んでゆく。まどかはジタバタしてみるが、一向に埒があかない。
晶はためらう事もなく書斎に入ると、そのまま奥の寝室に続く扉へ歩み寄っていく。まどかはこの後の展開を思って「ちょっと待って」とますます声を高くした。
寝室の扉に手をかけたまま立ち止まって、彼は抱えあげたまどかを振り返る。
「おや?慰めてくれるんだろう?――身体で」
「そ、そんなこと一言も言ってません」
「あれ、そうだった?」
うすらとぼけたまま、彼が寝室の扉を開く。
「だけど、娘が欲しいんだろ?」
寝台まで進んで、彼がゆっくりとまどかを下ろした。「そんなことも一言も言っていない」と訴えようとしたが、まどかは思いとどまる。
娘かどうかはさておき、彼の子どもを生みたいのは事実なのだ。いつだったか、「頑張る」と豪語もしている。いまさら怖気づいている場合でもない。
降参して力を抜くと、そっと晶の手が触れる。まどかは瞳を閉じて、やがて訪れる未来に思いを募らせた。