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3:甘い嵐

 課題のまとめが一段落ついた頃、晴菜が声を潜めて示す。

「朝子。この机の向こう側に座っている人と知り合い?」

 訊ねながらも、そうではないだろうことが判っているらしく、晴菜は何気ない様子でそちらの方を窺っている。親友の見慣れた横顔は、その人物に対して警戒しているようだ。朝子にも、それが伝わってきた。


 不自然にならないように、朝子も示された人物を見る。半袖から伸びている腕は、筋肉質で太い。大柄ではないが、鍛えられた体格をしている男子学生である。朝子達と同じ学科ではないようだ。見かけたことのない顔だった。

 童顔でもなく老けているわけでもない。よく日に焼けていて、印象が溌剌としている。同じ学年なのか、先輩になるのか後輩になるのか、外見だけでは判断できない。

 短い髪は色を抜いてあるらしく、金髪で綺麗に逆立っている。はっきり言って、見た目はかなりいかつい。


 知らない人だと思うのに、朝子は何かが引っ掛かった。思わずその学生を見つめたまま、じっと視線を止めてしまう。

 格好に反して愛嬌のある目元が、誰かに似ているのだろうか。それとも、全身に漂う雰囲気だろうか。良く鍛えられた体躯は、高校時代にサッカー部の主将をしていた友人と似ている。

 つかめそうで、つかめない感覚。


 このもどかしさがどういうものであるのか探っていると、ふっと彼が顔をあげた。思い切り視線があってしまい、朝子は一瞬息を呑んだ。

 真正面から見た顔。

 朝子の中に在ったもどかしさが四散した。一瞬にして答えが導かれる。

 それは、見たことのある目元。

 誰かに似ているのではない。朝子がその眼差しを知っているのだ。

 懐かしい感覚。

 気付いた事実を教えようとして、朝子は咄嗟に晴菜を振り返った。けれど、同じようにこちらを向いている彼を見ていた親友は、一瞬早く「ああっ」と大きな声をあげる。


「吉川君だっ」


 彼女も事実にたどり着いたらしく、沈黙の求められる館内で思わず声を高くしている。いっせいに周りから非難の視線を向けられて、晴菜は慌てて口を押さえた。朝子はもう一度、戸惑いながら彼を振り返る。

 こちらが彼の正体に辿りついても、彼が自分達のことを判っているとは限らない。


 突然大声で名前を呼ばれて、驚いているのか、呆れているのか。朝子がどんな顔をしていいのか悩んでいると、彼はさっきと同じ姿勢のままこちらを見ていた。

 晴菜と朝子の犯した失態に気を悪くした様子もなく、日焼けした顔にニカッと笑顔が宿る。白い歯が覗いて、その白さが目立った。


 彼はすぐに机の上を片付けて、書籍やノート、筆記用具を無造作に鞄に突っ込んで席を立った。まるで同じ学科の仲間であるように、当たり前の顔で二人の前までやってくると、会話を戒めるために口の前に人差し指を立てる。


「とにかく、出よう」


 彼の囁きに頷いて、三人はためらうこともなく一緒に図書館を出た。

 館内を後にして中庭を横切る通路に出ると、晴菜がすぐに口を開く。


「はじめは誰なのかわからなかったよ。こっちをチラチラ見てる奴がいるなって思って、警戒していたんだけどさ。でも、吉川君だったんだ。懐かしいね。ものすごく久しぶり。こっちの大学を受けていたとは、驚きだよ」

「まぁな。思い出してくれて良かった。俺もさ、二人を見てもしかしたらって思っていたけど、声をかけるほど自信もなかったし。でも、やっぱりそうだった」


 言って、彼はその容貌に不似合いな人懐こい笑みを浮かべる。笑顔は変わらず、幼い頃のままだった。

 吉川透よしかわ とおる。彼は朝子と晴菜が小学生だった頃に、クラスメートだった。小学三年から六年の夏まで、卒業まであと少しという時期に彼が転校してしまうまで、三年半の月日、三人はずっと同じクラスだった。やんちゃで、けれどどこか正義感の強い少年として、透のことは朝子もよく覚えている。


 何より名前が、自分の父親である透と同じだったから、他のクラスメートよりも思い出に残っていた。

 朝子は記憶の中の面影を追って、当時よりずっと背が高くなった透を見上げる。逞しい体格を見ていると、棒のように細かった手足が嘘のようだ。


「あの頃も二人っていつも一緒にいて、仲が良かったけど。未だにそのままつるんでいるんだな。二人とも大きくなったけど、変わってないな」


 透は二人を眺めて、嬉しそうに笑う。

 金に染めた髪といい、外見は別人のように変わっているが、笑い方や口調に当時の面影があった。透が当時のまま人懐こく話しかけてくれるので、朝子も懐かしさと同時に、親近感を取り戻した。


「吉川君は、なんか、すごくいかつくなったね。髪も綺麗に色を抜いてあるし」

「あ、これ?」


 朝子が頷くと、彼は自慢げに語ってくれた。


「これをやったのは、つい最近。日焼けには金髪が合うかなと思ってさ。夏っぽくしてみた。どう?」

「うん。まぁ、似合っているけど。たしかに、すごく日焼けしてるね。何かスポーツでもやってるの」

「ほんとに。腕なんかすごく太い」


 朝子と晴菜がまじまじと腕の筋肉を眺めていると、透は声をたてて笑った。


「あー、これはバイトのせい。俺、知り合いの運送屋でバイトしてるから。すげー重たい荷物とかを、炎天下の中運んだりするんだ。それで、かなり鍛えられた」

「へぇー、すごいね」

「俺、親の反対を押し切って、勝手にこっちに戻ってきたようなものだから。ま、学費は何とか親のスネを齧らせてもらってるけど、生活費は自分で稼がないといけないからさ。働きまくってる」

「そうなんだ。すごいね。吉川君の家って、そういえばお父さんが事業家じゃなかったっけ。会社興して成功して、そのせいで吉川君は転校したんだよね」

「よく覚えてるって言うか、よくそんなこと知ってるな。でも俺、家の跡を継ぐのは嫌だし。……看護士目指してるんだ」

「じゃあ、看護科に通ってるの?」

「そう」


 晴菜と彼のやりとりを聞きながら、朝子は何となく彼らしいと温かい気持ちになった。彼は活発でやんちゃではあったけれど、正義感が強く、人を傷つけるような行いを嫌ったものだ。

 朝子は思わず思いだし笑いをしてしまう。


 ある同級生の男の子が、女の子をいじめて泣かしてしまった時。

 彼は周囲のものが呆気にとられる位に、烈火のごとく怒って間に入り、結局は自分がその少年と喧嘩をするはめになっていた。

 結果、勢いで窓ガラスを割ってしまう大乱闘になって、先生の逆鱗に触れていた。

 当時は幼いために未熟で、彼は正しい筋道を示す方法を知らないだけだったのだろう。弱いものいじめに立ち向かうという彼の優しさ、それが過ちだったとは思えない。


 幼い時から、彼の中にあった思いやり。

 それは失われることなく、きっと彼の未来ゆめを示す道標として形になった。

 看護士を目指すという、そういう形になったのだ。朝子にはそんなふうに感じられた。


「それじゃあ、吉川君自身は苦学生なんだ」

「そうなのかな。自分のやりたいことだから、楽しいけど」

「見た目はいかついのに、実は努力家なんだね」


 晴菜は茶化しながらも、彼を讃えていた。朝子も胸の内で、彼の姿勢にただ感嘆する。

 記憶では、晴菜の言うとおり、彼の実家は会社を興して成功している筈なのだ。当初、彼の家は自営の小さな町工場だったと言われている。


 晴菜の言葉で、朝子も当時の噂を思い出した。彼の家が経営していた工場は業績が良好で、透の父親は新しい事業を興したという。透が六年の夏と言う、中止半端な時期に転校しなければならなかったのは、家のそういった事情からだと、彼がいなくなった後にも囁かれていた。


 朝子は吉川透と再会して、その噂が真実だったのだと思った。だとすれば、もちろん彼の実家が貧しいはずがない。普通に考えれば、バイトなどしなくても、生活費を仕送りしてもらえる環境にある。

 なのに、彼は家の跡継ぎとしての期待を裏切って、自身の未来を選択したのだ。そのために、親は最低限の援助しかしないと厳しい態度に出た。


 夢に向きあうということは、自分独りで戦う舞台に出て行くことに似ている。

 自ら甘やかされた環境を捨てて、独りで歩いていく。

 自分の掲げた志しに向かって、真っ直ぐに。迷いなく。


「なぁ、ちょうど昼飯の時間だし。一緒に学食行って食べないか。久しぶりだし、二人の近況とかも聞きたい」

「いいね、それ」

 晴菜がすぐに賛同して、朝子を振り返った。

「うん。私も誘おうと思ってた」

「よし、じゃあ決まりだな」


 透が意気揚々と通路を歩いて食堂のある方向へ進む。晴菜と二人でその背中を追いながら、朝子は思いだしていた。

 吉川透が臨んだように、自身の夢に向かっている大切な人。

 誰に出会っても、どんな話を聞いても、何もかもが彼に繋がってしまうのは、どうしてなのだろう。


(――風巳かざみ……)


 胸が痛い。思い出すと、会いたくてたまらない。

 こちらに戻ってくると知ってからは、なおさら、その衝動が強く朝子を責め立てる。

 前を歩く吉川透の背中は、志しに向かって自信に満ちているように見えた。朝子は風巳の後姿を重ねて見てしまう。


 自分のやりたいことだから、楽しい。


 ふっと透の語った言葉が蘇る。きっと、風巳もそんな日々を過ごしているのだ。

 志しに支えられた、充実した日々。

 夢に向かっている人達は、それだけで満たされているのだろうか。


 自分のように、ただ一人に焦がれる苦しみは、風巳の中にもないのかもしれない。

 後ろ向きに考えてしまう癖。切ない病は、悪化する一方だ。

 ひたすら、夏休みが待ち遠しい。同時に、不安が重みを増して行く。


 朝子は気持ちを切り替えて、暗い闇だけを振り払う。

 風巳への想いで満たされた心。苦しいくらいに切ないけれど、厭わしくはない想い。

 誰に出会っても、どんな話を聞いても、全てが彼への想いを喚起させる。


 心を奪われる瞬間。

 彼が傍にいなくても、それは突然やって来る。


 胸の中を吹き荒れる、甘い嵐。

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