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3:刺客と追手1

 浴室を出てから少しだけ迷ったが、風巳かざみはそのまま自室へと足を向けた。今朝子あさこと顔を合わせても、何を云えばいいのかわからない。


 もしかすると、醜い言葉を吐き出してしまうのかもしれない。

 いつも通りを装う自信すら持てない。些細なことですぐに綻びが出来てしまう。自分を取り戻すまで、少しだけ時間が欲しかった。これ以上、朝子に醜い気持ちをぶつけて、彼女を傷つけたくはない。こんなことを繰り返していれば、いずれ朝子の想いを失ってしまう。疎まれて、嫌われるだろう。


 階段を上がって廊下を進む足取りが重たくて、億劫だった。晴れない気持ちを引きずったまま、風巳はたどり着いた自室の扉を開く。室内に思いがけない人影を見つけて、思わず動きが止まってしまった。


「――あき


 何事にも敏い彼が、帰宅後の状況を見て気がつかないわけがないだろう。もしかすると、朝子は泣いているのかもしれない。


 彼は椅子に掛けて、机に頬杖をついたままこちらを仰いだ。風巳に対して怒っている様子もなく、浅い微笑みで迎えてくれる。

 あまりにいつも通りの情景で、風巳は力が抜ける。ふっと吐息が零れた。


「……ちょうど良かったかも」


 脈絡のない台詞だと思ったが、経緯を語ることが面倒に思えた。晶は意図がわからないらしく、眉を潜める。


「何が?」

「俺って最低で最悪みたい。晶、一発ドカンと殴ってくれないかな」


 笑おうとしたが、うまくいかなかった。目の前にある眼差しは、晴れた夜空のように一点の曇りもない。心に巣食う全てを暴いて裁いてしまうような、錯覚。風巳は居たたまれずに視線を伏せた。


「そうだな。実は一つ露見したことがあって、おまえを殴りたい気持ちは山々なんだが」

「え?」


 今度は風巳がわからなくなる番だった。晶は寛いだ姿勢で椅子にかけたまま、皮肉っぽく薄笑いを浮かべていた。


「でも、報復は既に完了しているから遠慮しておくよ」

「何の話なの、それ」

「その台詞は、そのままおまえに返してやるよ」


 うまくごまかされている気がするが、そう言われると風巳には返す言葉がない。笑うことも答えることも出来ずに立ち尽くしていると、晶が困ったように首を傾けた。


「風巳」


 明瞭な声が、まるで労わるように柔らかに響く。


「そういえば、この前の問いに答えていないな」

「この前?」

「朝子の両親が、どんな人だったのか」


 海辺での一瞬を思い出して、風巳はギクリと構えてしまう。自身の中で秘めておくべき闇の在処。あの時、的確に見抜かれたような気がしたのだ。けれど、晶はもう厳しい色を浮かべることもなく答えた。


「きっと、おまえが抱いている印象そのままでいい。それが一番正しい」

「だけど、俺は会ったこともないのに」


 彼は風巳を見上げてから、懐かしむように目を閉じた。


「俺の中にも朝子の中にも、二人はいきている。それと同じことだな。開き直ってしまうしかない。もう映すことも、触れることも叶わないから。それぞれの胸の内に抱く印象だけが、輪郭かたちになる」


 低く響く声は、心地がいいくらいに優しかった。晶は再び風巳を見上げて笑うと、自嘲するように目を伏せた。


「色々と考えてしまうのは、自分なんだ。わかるか、風巳」


 ゆっくりと首を横に振ると、晶はただ頷いた。


「そうだな。……俺は、それでも色々と考えてしまう。今でも。曽祖父が二人にしたことを。どんなに責めて悔やんだのか、自分でももうよくわからない。朝子の行く末を見守ることも出来ず、両親がそれをどう感じているのか、恨んでいるのか。今でも考える。だけど、もう声を聞くことは叶わないから、答えはいつも自分の中にしか得られない。彼らが自分のことを愛してくれていたのか、恨んでいなかったのか、悔やんでいないのか。――許してくれるのか。応えるのは自分なんだ。自分が許してくれると思えるのなら、それが正しい。そう思えないなら、励むしかない。励んでたどり着くしかないんだ」


「……晶」


 やはり彼には、彼にだけは見抜かれてしまう。曽祖父の犯した咎。彼は風巳よりもずっと身近に感じて、苛まれてきた。風巳の抱える想いをなぞることは容易いのだろう。少し振り返ってみるだけで、同じ闇を映すことができるのだ。


 苦しんで悔やんで、今もなお背負い続けて、ようやく得られた境地を、晶は惜しみなく教えてくれる。自分達には関係のない過ちだとか、許してくれるだとか、そんな気休めは言葉にしない。それで救われることがないのを、彼が誰よりも知っているから。


 許されるために励めという。

 その先にしか、満たされた結末はないのだと。

 答えてくれる人はどこにもいない。それは自分の中から生まれるのだ。


「うん。ありがとう、晶」


 心から感謝すると、彼はふたたび微笑みに嫌な気色を取り戻した。


「と、これはまぁ、もう会うことの叶わない両親に対しての、俺の殊勝な姿勢なわけだが。顔をつき合わせて話が出来る相手の場合、逃げない。これに尽きる」


 さらりと直面している事実を突きつけて、彼はからかうように笑った。風巳は弱音を吐きそうになって、辛うじてとどまった。ここで感情を吐露するのは、あまりにみっともない。込み上げる感情をうまく扱うことが出来ない。駄々を捏ねる子どもと変わらない、幼い想い。幼稚で稚拙で、醜い自分をさらけ出すだけだ。


 風巳にもわかっている。

 向かい合って、言葉を交わすこと。それが行き違いを正すために、どれほど有効な手段であるのか。

 わかっているのに、向かい合うことが出来ないのだ。


 再び返す言葉を失ってしまうと、晶が椅子から立ち上がった。身動きに伴う緩やかな風に、ほのかな香りが紛れている。爽やかなのに苦く、そして甘い。

 いつのまにか身近にあると、心地の良い気配になっている。彼の存在に、たしかに癒されている自分。


「そういうわけで、派手な爆弾を仕掛けておいたから」

「え?」


 晶は「じゃあな」と言って、何の未練もない足取りで部屋を出て行った。風巳は首をかしげたまま、溜息をつく。

 瞳を閉じると、やはり晴れない想いが蠢いていた。

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