2:光と影
風巳を傷つけてしまったのかもしれない。
自分が伝えた言葉を、一つずつ慎重に思い返してみる。どんなに考えても、理由がはっきりとしない。
朝子ははじめ風巳が怒っているのだと感じていた。何か気に障ることを口にしたのか、彼の言いつけを守らず車を降りた行動に対してか。
自覚しない処で、彼の機嫌を損ねてしまう何らかの要因があったのだろう。そんなふうにぐるぐると考えてみたが、風巳はどんな時も自身の感情については、かなりの確率で統制のとれる性格をしている。朝子に些細な非があったとしても、彼は腹を立てる前に叱ってくれるような気がした。
どんな時も。
揺るぐことのない、強い心。
前を向いて一歩を踏み出してゆく姿勢。
太陽のような、強い光。どんな闇も彼の輝きの前には四散する。彼を取り巻く色彩に等しく、朝子の中に在る風巳の印象はまばゆい。
幼い頃から兄の翳を感じてきた朝子が、彼の輝きに惹かれるのは当然なのだ。
いつでも、彼は真っ直ぐに向かい合ってくれた。
ひとときの別れに朝子が怖気づいていた時も、彼はきちんと向き合って大切なことを伝えてくれたのに。
今は彼が背を向けている。
まるで怖気づいて逃げているように、何かを避けている。
避けている、何か。
それは朝子自身であり、全く違う何かであるのかもしれない。
あれは、見間違いではなかったのだろう。
車の中で、一瞬だけ見てしまったのだ。こんな気持ちに至るまでは、見間違いだったのかもしれないと思うくらい、刹那に。
何かに追い詰められてゆくような、風巳の暗い眼差し。それは思い返すほど、胸が詰まる。
――切なくて。
どうして気がつかなかったのだろう。
彼は怒っていたのではなくて、痛みに耐えていたのかもしれない。
心を蝕む、激しい苦痛に。
彼を苛む、得体の知れない理由。
そこまで思いを巡らせると、全ての符号が揃うような気がした。どんなに考えても、理由に触れることは出来ない。ただ、風巳を追い詰めてしまったのだと、心のどこかが強く訴える。
朝子はいてもたってもいられなくなってしまう。帰宅後、勢いで浴室にこもって独りになってみたが、すぐにでも風巳との行き違いを正したかった。
彼は怒っていたのではない。朝子自身を避けていたのではなくて、きっと何か目を逸らしたくなるような思いに捕らわれる契機があったのだ。
風巳の放つ光ばかりに目をとられて、何も見ていなかったのかもしれない。
海でのひとときに、波間で語られた風巳の葛藤。拭うことの出来ない闇。そんなふうに彼を追い詰める闇は、いつでも朝子と等しいくらい在った。
秘めていただけで、風巳にも弱さがある。
一人の人間として。
当たり前のことに、朝子は気がついていなかった。
彼がどんな時も、真っ直ぐに想いを言葉にして、笑っていてくれたから。
こんなふうに突きつけられるまで、気がつけなかったのだ。
どれほど彼に甘やかされてきたのか。どれほど無防備に甘えてきたのか。
朝子は浴室から出ると、素早く身体を拭って寝間着を身につける。髪の毛を乾かす時間すらも、今は惜しい。
廊下を駆けていると、リビングから風巳の声が漏れてきた。朝子はためらわず、リビングの扉を開く。兄である晶とまどかがこちらを見た。
「あら、朝子ちゃん、早かったのね。だけど、そのままじゃ風邪をひいちゃうわよ」
「あ、うん。でも、この時期なら自然乾燥でも平気」
一呼吸遅れて、風巳も朝子を振り返る。
「……あの」
声をかけようとすると、風巳の表情が凍りつく。彼は朝子の声を遮るように、浴室を借りると告げてすぐ横を通り過ぎてゆく。
余裕のない横顔。
まるで朝子を恐れるように、逸らされたままの視線。
今までの憶測が、全て確信になる。ひたすら彼を苛む理由が知りたくなった。
ひとときの別れを恐れて朝子が背中を向けていた時、彼が追いかけて伝えてくれたように。不安を拭ってくれたように。
今度は自分が彼を追いかける番なのだ。これまで、風巳がしてくれたように。
すぐに追いかけなければならない。
判っているのに、体はその場に縫い付けられたように動かなかった。臆病な自分が邪魔をする。いつも、あと少しの勇気が足りない。
彼の拒絶を感じることが怖いのだ。築かれた壁を打ち破って隣に並ぶ強さが持てない。こんな立場に陥ってようやく知ることが出来る。これまで当たり前だと感じていた風巳の振る舞いが、どれほど恐れと背中合わせであったのか。
「朝子」
兄である晶の低い声が、いつもより響いた。駆け巡る思いでいっぱいになっていた頭が、わずかに現実に引き戻される。朝子はゆっくりと晶を見た。
「――お兄ちゃん、何?」
「一体どうしたんだ、二人とも。事件のことは風巳に聞いたが、それで動転しているだけじゃないだろ。同じように余裕のない顔をして」
言い当てられて、朝子の中で張り詰めていた何かが崩れる。涙が溢れそうになって、咄嗟に俯いた。堪えるために、強く歯をくいしばる。泣きたいくらいに苦しいのは、自分ではない筈なのだ。風巳にこそ、その資格がある。
激しい波をやり過ごして、朝子は再び顔をあげた。まどかが胸の前で手を組み合わせて、心配そうにこちらを見つめていた。
「――私、風巳のことを傷つけてしまったみたい」
兄がわずかに表情を動かす。
「おまえが?」
「うん。理由ははっきりしないけど、でも判ってしまったから」
「単純に喧嘩をしたわけじゃなくて?」
「喧嘩?」
そんなふうに形容されて、朝子ははじめて喧嘩という言葉に思い至る。
「俺の目にはそんなふうに見えたけど」
「……それは、そうかもしれないけど。でも、私は腹立たしいことなんてないし。風巳が目を逸らすのも、何か理由がある筈だから」
どんなふうに説明にすればいいのかわからない。兄はどのように受け止めたのか、朝子を眺めたまま小さく笑った。
「ふぅん、なるほどね。……では、困っている妹のために、お兄ちゃんが力を貸してあげよう」
「え?」
思い切り、話が飛躍したような気がする。朝子が思わず怪訝な顔をすると、兄は見慣れた嫌な微笑みを浮かべていた。こういう時は、たいてい碌なことを考えていないのだ。
「おまえはこの家の間取りがわかっているか」
更に話があらぬ方向へずれている気がする。相槌を打つと兄が調子に乗りそうで、朝子は固唾を呑んでじっ彼を見据えることに徹した。
「おまえはいつも受身だからな。まぁ、たまにはどーんとぶち当たってみるのもいいだろ」
「お兄ちゃんの言っている事は、さっぱりわかりません」
冷たくあしらおうとしたのに、彼は嫌味な笑みに磨きをかけた。
「おまえの部屋と風巳の部屋は、実はベランダで繋がっている」
「そんなの知ってるよ」
思わず答えてしまい、朝子は慌てた。一瞬、嫌な沈黙があった。兄がふっと低く笑うのが、この上もなく不吉に見える。
「知ってる?……ほほぅ、それはそれは。では今までにも利用経験があるわけだ」
「そ、そういうわけじゃなくて。住んでいたらわかるよ」
否定してみても、顔色が勝手に反応してしまう。真っ赤に頬を染めた朝子を見て、傍らで様子を見守っていたまどかも、ようやく顔を綻ばせた。
「あたし、知らなかったわ。あのベランダにはそういう用途があったのね。こそこそするには絶好の抜け道なのね」
朝子には、もはや答える言葉がない。
「何か釈然としないし腹が立つが、まぁいい。今夜は目をつぶってやる。今から心優しいお兄ちゃんが風巳の部屋に忍び込んで細工してきてやるよ」
「は?」
「非常に心苦しいが、可愛い妹のためだし。あいつの部屋のベランダに通じる窓の鍵。それを開けといてやろう。あとは朝子の度胸と頑張りに全てがかかっているからな。せいぜい頑張りなさい」
彼は何気なく、とんでもないことを示唆しているのではないか。朝子は開いた口がふさがらない。どうしてこう、人を玩具にしなければ気がすまないのだろう。
「では、あいつが風呂を使っている隙に、任務にかかるとしようか」
「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん」
彼はするりとリビングを出て行ってしまう。頭を抱える朝子に、まどかの優しい声が追い討ちをかけた。
「何だかドキドキするわね。朝子ちゃん、頑張ってね」
朝子は肩を落として、深い溜息をつく。けれど、兄の仕掛けがこの後どれほど有効に働くのか。朝子は身をもって体験することになるのだった。