4:心の距離2
歩いていく透の後姿を見送ってから、風巳が再び鍵を回して車のエンジンをかけた。一連の操作を見守っていると、サイドブレーキに彼の手が伸びる。一瞬、自分よりも一回り大きな手に気を取られたが、朝子は慌ててシートベルトを引っ張る。車の操作をする風巳の何気ない仕草は、何度見ても飽きない。朝子のお気に入りの光景である。
すぐに車が発進すると思ったが、ふいに車の後方で何かが光った。
風巳が弾かれたように振り返るのを見ながら、朝子もゆっくりと顔を向ける。どこから現れたのか、真後ろからオートバイが飛び出して車の横を通過した。
尋常ではない何かを感じたが、朝子はそれがどういう事態に繋がるのか判らない。
風巳は既に車の扉をあけて、降り立とうとしていた。
「朝子はここにいて。絶対に外に出たら駄目だよ」
「え?どうしたの?」
状況が把握できない朝子を残して、風巳が素早く扉を閉めた。
「吉川君、うしろっ」
叫びながら、彼は一目散に駆け出す。風巳を目で追いかけて、朝子は信じられない光景を目の当たりにした。
真っ先に飛び込んできたのは、手に握られた細長く伸びる、黒い影。
朝子はようやく事態を飲み込んだ。オートバイに乗っている人間は片手で車体を操りながら、もう一方の手で棍棒のような物を振り上げている。
目をこらさなくても、それが金属質であることは瞭然だった。
透はまだ細い道に入っておらず、車が来た道路を真っ直ぐ進んでいたようだ。風巳の怒声で振り返ったが、駆け出して逃げ切れるような相手でもない。
車からは少しばかり遠ざかっていたが、オートバイが辿りつくのは造作もない距離である。瞬きをする間に、オートバイは彼のすぐ背後まで迫っていた。
躊躇いのない走行で、真っ直ぐに透を目掛けて突っ込んでいく。
「吉川君っ」
もう一度、風巳の声が響いた。朝子は何かを考えることもできなかった。風巳の言いつけも、どこかへ弾け飛ぶ。たまらなくなって車を飛び出すと、黒い影が間違いなく透を狙って、手にしている棒を無造作に振り下ろした。
「やめろっ」
風巳の絶叫と、鈍い音が交差したような気がした。朝子は後を追って駆け出しながら、悲鳴をあげた。オートバイの人間は一撃を振り下ろしてから、すぐに体勢を立て直す。目的が果たされたのか、何の戸惑いも未練もないという風情で走り去る。
「吉川君」
その場に倒れこんだ透に、風巳が一瞬遅れて駆けつける。朝子は透がどこを殴られたのか見届けられなかった。
「吉川君っ、風巳っ」
信じられない思いに身が竦む思いがしたが、朝子もようやく二人の処へたどり着く。オートバイが引き返してくる気配がないことだけが、救いだった。透は一瞬道の端に倒れていたようだが、既に身を起こして路上に座り込んでいた。風巳に続いて駆けつけた朝子を仰いで、何とか笑みを浮かべた。
「吉川君、大丈夫?どこを殴られたの?怪我は?」
朝子はその場に膝をついて、畳み掛けるように問いかけた。風巳が彼の右腕を看ているようだ。透の前に膝をついて、余裕のない表情をしている。
「結城、大丈夫だから。盾にした腕が少し痛むだけ。骨は折れていないみたいだし」
透が風巳を見る。風巳は小さく息を吐き出してから、頷いた。
「うん。確かなことは言えないけど、多分骨は折れていないと思う」
「俺って頑丈だから」
明るく振る舞っているが、透の手先は震えていた。突然の襲撃に気が動転しない筈がない。暗くても、透の引きつった笑みから、血の気が引いているのだろう様子が伝わってくる。
「朝子。晶に看てもらったほうがいいよ」
「うん。携帯とってくる」
朝子が車へ戻ろうとすると、透が「待って」と厳しい声を出した。
「いいよ、そんなの。大怪我したわけでもないのに。ただの打撲で、結城の兄さん煩わせることないよ。たたでさえ、昨日も今日も世話になったのに」
「そんなの気にしないで」
朝子がぴしゃりと言い放つが、透も引きさがらない。
「とにかく、いいって。ほんとに。これくらい自分で手当てできるし」
「だけど、吉川君を狙っている奴がいるわけだし。今は一人にならないほうが得策じゃないかな」
風巳が提案すると、透は明らかに狼狽する。それからとってつけたように、傍らに掲げられた看板を指差した。不審者に注意と赤字で警告されている。
「最近、この辺り変なのがよく出没するって噂だから。ただの通り魔だと思うよ。俺、誰かに恨みをかうようなことしてないし」
「だけど、吉川君を狙っていたみたいに見えたけど」
「そんな筈ないって」
頑なに否定する様子に余裕がないように見えた。事件の後の衝撃なのか、あるいは信じたくないのか。秘めておきたい何かがあるのか。彼は勢い良く立ち上がって、二人の気遣いに礼を述べる。それでも、やはりこれ以上手を借りる気はないようだった。
「本当に大丈夫だって。運が悪かっただけで。怪我も大したことないし、事件にして騒ぐのも面倒だからさ」
「……うん」
朝子には不自然に思えたが、彼が言い張るのならばそれ以上追及することも出来ない。風巳も隣で立ち尽くしていたが、彼の拒絶を感じているのは同じなのだろう。強引に誘うことはせず、すぐそこにあるという透の住まいまで、徒歩で送ることにしたようだ。
透は既に立ち直っているのか、気丈に振る舞っているのか、いつも通りの愛嬌のある笑顔を取り戻していた。戸口まで寄り添ってくれた二人に、照れたように「ありがとう」と呟いた。
「戸締り、しっかりしてね」
思わず朝子が声をかけると、透は大きく頷いた。
「もちろん。この辺りは物騒だから。またな、結城。吹藤君もありがとう」
彼が部屋へ入るのを見届けると、朝子はひとまず安堵の吐息がもれた。気掛かりはあるが、透の怪我が大事に至らなかっただけでも良かったという思いが、今更のようにこみ上げて来る。
透の部屋に灯りがつくのを確かめてから、ようやく風巳が踵を返した。二人で車までの道程を戻ろうとすると、風巳の手がしっかりと朝子の手を捕まえる。
「危ないから、出てきちゃ駄目だって言ったのに」
「それは、ごめんね。だけど、びっくりして。それに、危ないのは風巳も同じだよ」
「うん。それはそうなんだけど。でも、俺も驚いたよ」
風巳も色々なことが腑に落ちないのか、表情を険しくしていた。きっと彼も同じ疑惑を抱いたに違いない。朝子は繋いだ掌に少し力を込めてから、思い切って問いかける。
「ね、風巳。あれがただの通り魔だと思う?」
「……どうかな」
期待とは裏腹に、風巳の答えは曖昧だった。
「私、思い出したんだけど。吉川君の頭の怪我も、もしかして同じ理由だったんじゃないかなって。本人は自分の不注意だって言っていたけど。本当は吉川君、誰かに狙われていて、自分でも心当たりがあるんじゃないかな」
風巳は答えず、沈黙を守ったまま寄り沿うように歩いている。いつも豊かな表情が、驚くほど無表情だった。車までたどり着くと、風巳が助手席の扉を開けてくれた。
行動はいつも通り優しいのに、表情のない顔が酷薄に映る。
朝子を乗せてから彼も素早く運転席に乗り込んだ。風巳は朝子との会話を厭っているのか、すぐにエンジンをかける。
「風巳?」
朝子は居心地の悪さを感じて、思わず呼びかける。感情の表れない彼の横顔は、まるで人形のように整っている。
「朝子、今日のことは忘れたほうがいいよ」
思いがけない台詞を投げられて、朝子は一瞬反応が遅れた。
「彼が何でもないと言うなら、何でもないんだよ。俺達が関わる必要ないし、関係ないよ」
あまりにも突き放した態度だった。朝子にはどうして風巳がそんなことを言い出すのかわからない。たしかに透は風巳にとって、沙輝のように親しい友人ではない。それでも、既に気心の知れた知人ではある筈だ。
知り合いの危機に対して、どうしてここまで冷淡に振る舞えるのだろう。朝子はかみ合わない物を感じて、じっと風巳の横顔を眺めてしまう。動かない表情のまま、風巳がようやくこちらを向いた。
朝子は何か大切なものを見失いそうな気がして、理由を問う。彼の真意を量ることの出来ない自分が、信じられなかった。
「そんなの、何でもないわけないよ。風巳もそう思わなかった?吉川君に何かが起きているのかもしれないのに。どうして?どうして関係ないって言えるの?」
一瞬、表情のない彼の顔に、追い詰められた色が浮かんだような気がした。それはすぐに影を潜めて、彼が再び口を開く。苛立たしさを押し殺しているような、低い声だった。
「じゃあ、仮に彼が誰かに狙われていたとして、朝子に何が出来るの?」
「……それは」
「ただ詮索するだけ?それとも、彼の話を聞いて相談に乗るだけ?そうやって、彼の為に何かをしているという安心感が欲しいの?」
「――違うよ」
「違わない」
胸が張り裂けそうなくらいに苦しい。たしかに風巳の言うとおりだろう。非力な自分が、透のために何かが出来るわけでもない。風巳の云っていることは正論なのだ。けれど、それでも力になりたいという気持ちはどうしようもない。風巳ならば、そんな気持ちだけでも判ってくれると思っていた。
朝子の知っている風巳は、こんなに酷薄ではなかった気がする。
自分が甘えすぎていたのだろうか。
抱き続けた風巳の印象が、かけ離れている。
二人を隔てていた距離が、そのまま心の距離になっていく。自分の知らないところで、風巳はどんどん変貌を遂げていくのかもしれない。
朝子の知っている風巳が失われていく。それとも、自分が前に進んでいないから、彼と同じ情景を見ることが叶わないのだろうか。力の限り追いかけても、風巳はそれ以上に前を向いて歩いていく。
もしも、このまま彼に追いつく日が訪れなければ。
いつか見失ってしまうのかもしれない。
風巳の姿も、想いも。自分の気持ちも。
これは、その兆しなのかもしれない。
涙が零れそうになって、朝子は咄嗟に顔を背けた。唇を噛み締めて堪える。
こんなことで泣いても、風巳を困らせるだけだ。愚鈍な自分をさらけ出すだけで、ますます彼との距離が開いてしまう。
風巳はそれきり何も言わず、サイドブレーキに手をかけてから、ハンドルを握りなおした。
重苦しい沈黙を乗せて、車がゆっくりと発進した。