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3:心の距離1

 とおる結城ゆうき邸から帰途についたのは、午後九時が少し過ぎた頃だった。風巳かざみの運転で彼を自宅まで送る道中、朝子あさこは後部座席から助手席の透に声をかけた。


吉川よしかわ君、本当は彼女と会う予定があったから、今日一日バイトを入れていなかったんじゃないの?」


 もっと早く帰すこともできたのに、結局彼の貴重な一日は結城邸で過ぎてしまった。朝から出掛けていた兄が昼過ぎに帰宅した頃、透は一度帰ろうとしたのだ。それを兄が「もう帰るのか」と声をかけた。強く引き止めるつもりがなくても、それは透が一緒に夕食を囲むための布石になってしまったのだ。


「予定を狂わせていたら、ごめんね。気になっていたんだけど。うちっていつもああいう調子だから」


 透は助手席から、わずかに振り返って首を振った。


「予定があったら帰ってるよ。無理矢理引き止められたわけでもないし。俺のほうが入り浸って申し訳ないくらいだ。美味い飯が食えてラッキーだった」

「――そっか。それなら良かったけど。バイトがないって聞いたときに、予定があったんじゃないかなって思ったから」


 何気ない朝子の言葉に、透は前を向いたまま苦笑したようだった。


「本当は彼女から連絡がくるかなって期待していた。そのつもりでバイトも入れずに一日空けておいたんだけど。でも、残念ながら携帯は鳴らなかった」


 落胆を語る声の調子は明るい。けれど、やはり期待が外れたことが、彼を傷つけているのだろう。いつも通りを演じ切れずに、透は重い溜息を漏らした。


「独りで鳴らない電話を待っていたのかと思うと、ぞっとするな」


 茶化しているけれど、彼の想いは真っ直ぐに祥子に向けられている。

 ままならない思いに、痛みを感じない筈はないのに。

 揺るがない気持ちが、彼の中には在るのだろう。

 強い想いが。


 朝子は切なくなったが、それほど想われる祥子しょうこが羨ましい。

 同時に。

 何よりも、揺るがない透の強さが羨ましかった。

 彼のように与えられた立場を受け入れることが出来たら、風巳が不在の日々にも取り乱すことはないのかもしれない。寂しさが募っても、涙しても、きっと不安に駆られることはないだろう。


 透にどう声をかけていいのか判らず、朝子が言葉を探していると、何の前触れもなく軽快な音が響いた。携帯の着信メロディらしく、すぐに透が身動きして上着のポケットを探っている。


「お、噂をすれば彼女から」


 取り出した携帯の画面を確かめて、彼が嬉しそうに呟いた。受話器を耳に当てて受け答えする透の声が輝いて聞こえるのは気のせいではないだろう。


 朝子は後部座席からそんな様子を眺めて、微笑ましい気持ちで笑ってしまう。ハンドルを握っている風巳を見ると、彼も同じ気持ちらしく笑みを浮かべていた。

 車が赤信号で停止すると、風巳は窺うように朝子を振り返る。透は声の調子を押さえて応答しているが、それでも受話器を持つ様子が楽しそうだった。


「吉川君、幸せいっぱいだね」


 小声で運転席へ伝えると、風巳は笑う。


「男って、単純な生き物だからさ」


 信号が青になって、再び風巳が車を発進させる。透は通話を終えたらしく携帯電話をしまって、運転席の風巳を見た。


「今、俺のこと単純だって言ってなかった?」


 風巳はハンドルを握って前を向いたまま、笑い声をたてた。


「男は単純だって話だよ」

「それって、吹藤君も含まれているわけ?」

「もちろん。俺なんかものすごく単純だよ。ね、朝子」

「え?――それって、頷いてもいい質問なの?」


 朝子が問い返すと、風巳と透が爆笑した。朝子は気のあった二人の反応に、独り取り残された気がするが、彼氏と友達が仲良くしているのは悪い気がしない。


 透はどうやら期待通り明日の予定が決まったらしく、嬉しそうに惚気てくれた。バイトと掛け持ちで忙しい一日になりそうだと不平を唱えつつ、それでも充実した予定に顔を綻ばせている。


 やがて車が大通りから外れるように右折した。しばらく走ると住宅街に入り、透の先導で少し走ると、細い道へ入る三叉路が見えてきた。


「あ、ここでいいよ。ボロアパートはあの道を入った向こう側だし、すぐだから」


 風巳は道の端に寄せるように、車を停めた。時刻は既に九時半を回っている。道に沿って、ぽつりぽつりと街灯が灯っているが辺りは暗く、人通りも失せている。

 華奢な朝子が独りで歩くには危険な気配がしたが、透の逞しい体格を見て襲ってくるような暴漢もいないだろう。


 二人に礼を述べて透が車を降りた。朝子はそれを契機にして、後部座席から助手席に移る。透の住まいに続く細い道には、街灯の光も届かないようだ。

 少し先に見えるその道は、真っ暗な闇に呑まれていた。


「気をつけてね、吉川君」

「ああ、もうすぐそこだから、大丈夫」


 いつもの愛嬌のある笑顔で、彼はもう一度二人に礼を述べてから、ゆっくりと歩き出した。

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