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2:不穏な影

 風巳かざみが仕度を整えてダイニングへ向かうと、食卓に吉川透よしかわ とおるが座っていた。風巳自身、昨夜はどうやって結城ゆうき邸まで戻ってきたのかは定かではない。おそらく飲み潰れてそのまま泥酔し、あきが連れて帰ってくれたのだろうと、勝手に想像していた。


 断片的に蘇る記憶を辿れば、とおるも風巳の隣でかなりの勢いで酒をあおっていたのだ。二人で他愛ないことを語り合って、大笑いしていた記憶も残っている。楽しいひとときだったが、きっとお互いに同じように飲み潰れた結果、ここまで運ばれてきたのだろう。


 この邸宅の主人である晶をはじめとして、まどかも朝子あさこも知り合いを迎え入れることには何の抵抗もないのだ。

 透は食卓で転がり込んだことを恐縮しているようだった。まどかは食卓が賑やかだと嬉しそうに給仕をつとめている。


「風巳君、おはよう」

「おはよう、まどかさん。ごめん、俺こんな時間まで寝ていて」


 殊勝に詫びると、まどかは笑顔で「いいのよ」と答えた。


「だって、無理もないわよ。二人ともすごく呑んでいたし。二日酔いはどう?」

「あ、それは大丈夫」


 自分でも、あれほど呑んで二日酔いの症状を感じないのが不思議だった。これまでにも呑みすぎて翌朝を迎えたことはあるが、風巳は二日酔いを体験したことがない。

 親友の沙輝が二日酔いで呻いていても、風巳は常に普段どおりの調子を取り戻していた。


「風巳って、いつもそうだよね」

「朝子ちゃんも朝はだるそうだったものね」


 まどかも朝子も昨夜はそれなりに呑んでいた筈なのに、既に二日酔いの気配が微塵もなかった。いつもの明るい振る舞いである。


「すごいな。俺はまた少しだるいのに」


 透は風巳に羨望の眼差しを向けている。たしかに彼の様子からは、身体が重たげな素振りが伝わってきた。


「風巳君も、きっと晶と同じで特異体質なのね。とにかく、ランチメニューはさっぱり系で用意してみました。吉川君、食べられそう?」


 彼は卓上に並べられた料理を眺めて、顔を綻ばせた。


「はい。これなら入りそう」

「良かったわ」


 風巳がいつもの席につくと、まどかに促されて昼食になった。卓上に並んだ料理に、無造作に箸を伸ばす。透に気をとられて意識していなかったが、食事を始めてから、風巳はようやく主である晶の席が空いていることに気がついた。

 まどかに問いかけようと顔を向けると、風巳の気掛かりに至ったのか、隣の朝子が教えてくれた。


「風巳。お兄ちゃんなら、午前中に用事があるって出て行ったよ」

「え?昨夜、あんなに呑んでいて?……晶とあの白石さんって人は、俺達よりも呑んでいたと思うんだけど」

「うん、俺もそんな気がする。尋常な量じゃなかったけど、すごいな。強い」


 向かい側に掛けている透も同意して、半ば目を剥いている。それから少し気まずそうに風巳に問いかけてきた。


「ところで、あの。俺さ、昨夜の記憶が途中で途切れているんだけど、ここまで連れて来てくれたのって、もしかして吹藤ふとう君?」

「あ、違う。実は俺もここまで戻ってきた記憶がないから……」


 言いながら、風巳はまどかを見た。彼女は可笑しそうに笑って、二人に真相を教えてくれた。


あき白石しらいしさんが、二人を車まで抱えてくれたのよ。晶は酔うってことを知らない体質だし、白石さんもザルっぽい強さだから。もう空の端が明るくなってきていたわね」

「俺、本当に色々と迷惑をかけたみたいで、家まで転がり込んで申し訳ないです」


 透は自分の失態を恥じているようだが、すぐにまどかが大きく両手を横に振った。


「そんな、こちらこそ調子に乗って誘っちゃったのに。気にしないで」

「そうだよ、吉川君。彼女と二人でいられる時間だったのに、こちらこそ、付き合ってくれてありがとうって思う」


 まどかに続けて、朝子もそう付け加えた。透はそれでも恐縮していたようだが、和やかな食卓の空気に気を許したのか、ぽろりと本音を零す。


「いや、あの時は本当に誘ってもらって良かったんだ。結城達がいてくれて、救われたっていうか」

 暗い気持ちをごまかすように口調は明るい。彼は手元で器用に箸を動かしていたが、ふっと風巳に視線を上げた。

「いろいろあってさ、実は一人で落ち込み気味だったのを、思い切り呑んでごまかしていたって感じ。吹藤君には思い切り付き合ってもらったな。話の内容はきっとくだらないことで良く覚えていないけど、莫迦みたいに笑っていたのは覚えてる。結局、泥酔して転がり込んで、こんなふうに失態をさらして、恥だけど。でも、昨夜は普段の憂さ晴らしが出来たし、楽しかった。あんなに呑んだの、久しぶりだ」


 日焼けした顔に白い歯を覗かせて、透は照れたように笑った。周りの者から与えられた気遣いを受け止めて、彼はそっと感謝を向ける。

 自身の抱える暗い思いを、まるで瑣末なことであるかのように語る。素直にいい奴なんだと、風巳は改めて思えた。


 透は一言も落ち込んでしまう理由が祥子しょうこに起因しているとは云わない。それでも、風巳は空港で見た光景が鮮明に焼きついていて、どうしても彼の抱える憂鬱が彼女へと繋がってしまう。


 二人が一緒にいる微笑ましさを眺めて、一度は思い過ごしだと考えた。今だって、透は一言も彼女との関係が原因だとは云っていないのだ。


 それでも。

 空港で寄り添っていた二人。

 親密で、翳りのある微笑み。意味ありげな構図。

 その光景に、透の抱える憂慮がぴったりと重なって、風巳におぼろげな輪郭を与える。

 はっきりと教えられたことは、何一つないのに。


 篠宮祥子しのみや しょうこと透の関係に、何らかの事情があるのかもしれないと思えて仕方がなかった。そんなふうに勝手な想像を巡らせる自分を卑しくさえ思うのに、どうしてもその推測が離れない。

 まさかここで本人に是非をうかがう訳にもいかない。


 透は決して、自身の抱える問題に誰かの手を欲しているわけではないのだから。助けを求めて抱えるわだかまりを口にしたのではない。本来ならば、語ることすらためらう秘め事だろう。彼はただ、誘いが強引だったのではないかという、朝子やまどかの気兼ねを軽くするためだけに語ったのだ。


 風巳は皿に取り分けられた料理に箸を伸ばしながら、ただ向かい側の透に笑みを返した。彼を取り巻く事情に気掛かりを覚えながらも、彼自身に親近感も覚えている。風巳にとっては、どちらも疑いようのない気持ちだった。


「俺も吉川君には助けてもらったよ。昨夜はちょっとした誘惑から気を逸らすのに必死だったから。吉川君が相手してくれて、助かった」


 透は一瞬箸を止めて風巳の顔を見てから、何かを察したのか、隣の朝子を見た。からかうような眼差しで、愛嬌のある笑みを浮かべる。


「あー、誘惑ね。なるほど。わかる気がする。たしかにものすごい無防備だった」

「でしょ?」


 二人で面白がってうんうんと頷きあっていると、話の見えない朝子が眉を寄せて「何それ?」と声をあげた。だいたいの状況が読めたらしく、まどかも面白がって参加する。


「風巳君って、紳士よね」

「そうでしょ?まどかさんもそう思うよね。まどかさんがあんな状況だったら、晶なんて取り返しのつかないことになってるよ、絶対に」

「うーん、そうね。たしかにそうかもしれないわ」

「ちょっとってば、みんなで何の話をしてるの?全く話が見えないんだけど」


 三人が一斉に朝子を見て、ふうっと溜息をついてみせる。


「な、何、その反応は。私、何かおかしなことしたの?」

「結城、聞かない方がいいと思うけど」

「朝子、覚えていないんだ」


 面白がって事態を誇張していると、朝子はますますうろたえている。昨夜の記憶が曖昧なのは、途中で眠りこけてしまった彼女も同じはずなのだ。

 まどかも珍しく悪戯に加わって、大袈裟な発言に拍車をかけた。


「朝子ちゃん、お嫁入り前なのに」

「だから、何をしたのってば。ねぇ、まどかさん」


 まどかは答えず、わざとらしく風巳を見た。


「え?俺の口からは云えないよ」

「ちょっと、風巳」


 朝子は助けを求めるように、透を見る。


「結城の彼氏が口に出来ないのに、俺が云えるわけないって」

「もう、吉川君まで面白がってる」


 朝子はあまりに三人の様子が頑なで、開き直ってしまったらしい。「もういいよ」と気を取り直して、箸先で料理を突き刺して口に運ぶ。頬張っていたものを呑みこんでから、改めて風巳を睨んだ。


「あとでちゃんと教えてよね、風巳」

「はぁい、了解」


 拗ねている仕草も、たまに見るのなら悪い気はしない。風巳が笑っていると、朝子は吐息をついてから、おもむろに透を見た。


「それから、吉川君。憂さ晴らしならいつでも付き合うよ。一人でしんどくなったら、相談してね」


 さりげない言葉だった。気負うこともなく、朝子は友達としての気概を示す。風巳が思い描くように、朝子にも思うことがあるようだ。


 彼女は空港で風巳が見た光景を知らない。知らなくても、公演の時に感じた二人の違和感は、やはり拭いようがないのだろう。

 透は噛み締めるように俯いて、すぐに顔をあげた。


「うん、ありがと。結城」


 白い歯を見せて、彼は屈託なく笑う。打ち解けた、優しい眼差しをしている。

 朝子の思いは、きっと彼にも届いてその胸をうった。人の抱える憂慮を前にして、朝子が背を向けることはない。これは当たり前の成り行きなのだ。


 そんな彼女の姿勢は、風巳にとっても誇らしい。

 誇らしい筈なのに。

 風巳はこみ上げた思いを吐き出すように、そっと息をつく。

 不穏な思いが、胸底にゆっくりと滲んでいた。

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