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1:午後のひととき

 朝子あさこは音を立てないように、ゆっくりと部屋の扉を開けた。風巳かざみの部屋に入ったことは数え切れないくらいにあるが、こんなふうに忍び込むような気持ちになるのは始めてである。

 既に正午になろうかという時刻にも関わらず、彼はまだ寝台で寝静まっている。


 朝子は彼の眠りを妨げないように、あえて扉をノックすることを避けた。

 昨夜は晶の知り合いの店で、朝方まで騒いでいたのだ。風巳が目覚めている筈がない。

 朝子は途中で酔いが回って、夜がふける頃には片隅で眠り込んでいた。


 まどかの話によれば、風巳は遅くまで、かなり勢いよく呑んでいたようだ。

 足音を殺して、寝台へ歩み寄る。室内はよく冷房が効いていて、薄着では肌寒いほどだった。夏の蒸した暑さは、跡形もなく掃われている。


 風巳は夏蒲団にくるまるように、頭からかぶっていた。褐色の髪色がわずかに覗いている。深い眠りに落ちているのか、彼は全く身動きしない。


 単に様子を見に来ただけなので、朝子は邪魔にならないように、そっと寝台の隅に腰掛けた。気配を殺していたつもりなのに、わずかな寝台の動きに反応したのか、風巳が寝返りをうった。くるまっていた夏蒲団が、動作にあわせてわずかに捲れる。


 こちらを向いた彼の顔を眺めて、朝子はあまりの無防備さに胸が詰まる。

 最近は出会うたびに、彼の大人びた仕草に戸惑いながら、惹かれていた。けれど、こんなふうに寝顔を眺めていると、その無邪気さは可愛くて限りなく甘い。


 胸の締めつけられるような愛しさに捕らわれる。

 飽きずに見入ってしまったが、彼は一向に目覚める気配がない。朝子はふと悪戯心を起こして、試すように指先で彼の頬に触れてみた。つつかれても、風巳は夢の中から戻ってこない。


 息を殺すようにして、朝子は身を乗り出した。上体を屈めて、触れる程度に彼の頬に口づけをする。誰かに見られているわけでもないのに、朝子はたったそれだけのキスが恥ずかしくて、すぐに身を起こす。

 まるで逃げ出すように立ち上がろうとすると、寝台に突いていた手に何かが触れる。風巳が掌を重ねてから、しっかりと朝子の手を握り締めていた。


「か、風巳」


 振り返った途端、朝子は顔が朱に染まるを感じていた。彼は寝台に横たわったまま、悪戯っぽく舌を出した。子どものような笑みを浮かべて、真っ直ぐに朝子を見ている。


「もしかして、起きてたの?いつから?」

「朝子が部屋にやって来る、少し前かな」


 彼は答えてから、朝子の右手を捉えたまま身を起こす。


「寝たふりをしているなんて、ずるいよ」


 朝子は彼の手を振りほどいて逃げ出したいくらい、恥ずかしさでいっぱいだった。風巳は寝起きのせいか、どこまでも無邪気に笑う。


「ずるくないもん。ね、俺にも朝の挨拶をさせてほしいな」

「え?」

「ほっぺにちゅう」


 さっきの行為を言い当てられて、朝子は恥ずかしさのあまり勢い良く立ち上がった。


「風巳のバカ。もう知らない」


 居ても立ってもいられない気持ちで、部屋を飛び出そうとすると、強く引き止める力があった。


「待って、朝子。ごめんってば」


 思いも寄らない力で引き寄せられて、朝子は重心を崩す。短く悲鳴をあげて、派手に寝台に倒れこんでしまう。状況を把握する前に、彼の褐色の髪がさらりと視界に飛び込んできた。間近に自分を覗き込む風巳の顔が迫っている。琥珀の色味を帯びた瞳に射抜かれて、朝子はすぐに身動きできなかった。


「ごめんね、朝子」


 彼が困ったように笑う。朝子は彼の顔を見上げたまま、横に首を振った。焦って身を起こそうとすると、彼の手が肩を掴む。起き上がることを許されず、朝子は「風巳?」と小さく呼びかけた。

 答えはなく、すぐに柔らかな髪が落ちてきて、咄嗟に眼を閉じてしまう。


 頬に彼の唇が触れた。朝子が身を固くすると、彼は腕を伸ばして、無造作に放り出していた朝子の手を捉えた。しっかりと繋ぎとめて、何度も朝子の頬に口づける。


「――あの、風巳。寝ぼけてるの?」


 戸惑いを隠せず、朝子は彼を仰ぎ見た。澄んだ瞳に、大人びた色が浮かんでいる。切なくなるような眼差しが、吸い込まれそうなくらいに綺麗だった。

 目を逸らすことができずにいると、言葉もなく彼が顔を寄せた。唇が重ねられる気配を察して目を閉じた瞬間、階下から朝子を呼ぶ声が聞こえた。


「……朝子ちゃん、どこ―?」

「ま、――まどかさん、ここ」


 咄嗟に返事をしてしまい、朝子はガバッと身を起こす。同時にガツンと、思い切り頭に何かがぶつかった。


「――っ」

「わわ、ごめん。風巳」


 朝子は頭を押さえながら、すぐに風巳を振り返る。いきなり頭突きをくらった風巳は、顔を抑えながら恨めしそうな斜め目線で朝子を見上げていた。


「ご、ごめんね。思わず」


 せっかくの雰囲気をぶち壊して、なおかつ頭突きである。さすがに悪いことをしたと申し訳なさ一杯の顔で覗き込むと、彼は表情を一転させて浅く笑う。おもむろに朝子の頭に手を回して引き寄せた。

 直後、軽く触れる程度に唇が重なった。朝子が身動きできずにいると、風巳はいつものように屈託なく笑ってみせる。


 階下から、もう一度朝子を呼ぶ声がした。ただ立ち尽くす朝子に、風巳が「これで行ってよし」と明るい声を出す。

 朝子は顔が真っ赤になるのを自覚したが、呼びかけに返事をしながら即座に踵を返した。

 扉を閉める間際に、ほてった顔のままでそっと風巳を振り返る。


「風巳、お昼ご飯だよ。一緒に食べよう」

「うん。すぐに行くよ」


 笑みを浮かべたまま、彼が寝台から立ち上がった。

 いつも通りの、自然な仕草。

 朝子は頷いてから、扉を閉ざした。途端に張り詰めていた何かが崩れて、閉めた扉にぐったりと背中を預けた。


 風巳の振る舞いに圧倒されてしまう瞬間。余裕のない自分を叱咤してみても、どうにもならない。いつでも彼に魅せられて、それだけで精一杯なのだ。


 彼に相応しいと思える自分になるまでには、あらゆる場面で、まだ長い道のりを残しているに違いない。だから、自信をもって向き合えないのかもしれない。


 深い息をついて胸を押さえると、幾分おさまった動悸が掌に響く。

 月日を数えるほどに、あるいは日毎に、出会う度に、彼の爽やかな気配に、一筋の色気が垣間見える。

 朝子を脅かす、甘い歯牙。

 自分を引き寄せる、強い力。思い出すだけで、胸いっぱいに満ちる何かがある。


 恐れではなく。

 戸惑いでもなく。

 ためらいでもない。

 そんな想いは、すぐに剥がれ落ちて失われる。

 いつでも最後に残るのは、彼を愛しいと思う、それだけの気持ち。

 彼に触れられて、露になる輪郭。風巳が与えてくれた、自分の形。


「……頑張ろう」


 いつか自分が、彼にも与えることが出来るように。

 朝子はゆっくりと扉から離れて、小走りに階下へと向かった。

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