4:小料理屋
結城邸で過ごした日々を振り返っても、風巳には外食した記憶が数えるほどしかない。いったい晶がどのような店に連れて行ってくれるのかと、期待が膨らんでしまう。彼の目指す店は付近にあるらしく、プラチナホールから駅の駐車場に車を停めなおして、一行は徒歩で駅前の通りを進んでいた。
しばらく人通りの多い通りを歩き、晶は迷わず何の特徴もない道へ入る。まるで路地裏へと続いていくような狭い通路だった。どうやら朝子も知らない道筋であるらしく、興味深い顔で辺りを見回している。
狭い道を突き当たりまで進むと、再び視界が開けた。少し広い道に出ると、彼は右に進む。こんな処に店があるのかと思えたが、幾らも進まないうちに、軒先に掲げられた提灯が目につく。暖簾のかかった瀟洒な店で、隠れ家に相応しい風情が漂っている。
晶はためらいもなく、暖簾をくぐって引き戸に手をかけた。まどかはこの店におぼえがあるらしく、戸惑う素振りもなく後に続く。
とりあえず透と祥子を促してから、風巳も朝子と店内へ足を踏み入れた。趣のある小料理屋で、店内の造作も気取らない程度に品良くできあがっている。正面にはカウンター席が設けられており、板前らしき男が「いらっしゃい」と勢いのある声を出した。隅にある水槽では、魚がひらひらと泳いでいる。水中では動かない伊勢えびが、こちらを向いていた。隣には、籠に上げられた伊勢えびの濡れた甲殻が、照明を反射している。
こんな僻地にあるにも関わらず、店内は賑わっていた。
座敷へと案内されて靴を脱いでいると、店の奥で仕込みでもしていたのか、先にいる板前よりも年配の男が出てきた。料理人というには、体格がすらりと整っている。白髪が渋く、格好良く年をとった典型のような板前である。
渋い風体の板前は、座敷に目を向けて、初めて風巳達の来店に気がついたらしい。こちらに目が釘付けになったまま、奥の誰かに声をかけた。
「おい、女将。あいつに電話しろ」
風巳には成り行きがわからないが、男はそのままこちらへやって来た。
「いらっしゃい。しばらくご無沙汰していたね」
見た目は男前がそのまま年をとったという印象がするのに、言動は粋の良い調子だった。そのちぐはぐさが愛嬌になって、風巳は男に好感を持った。
まどかが打ち解けた笑顔を向けて「こんばんは」と挨拶をした。
「ここで二人の祝いをしてから、どの位になるかな。お子様はまだかい」
「残念ながら。毎日子作りには励んでいますけどね」
晶が軽口を叩くと、男は破顔した。
「じゃあ、腕によりかけて精のつくものを作ってやろうか。希望もどんと受け付けるよ」
テーブルに据えられた品書きを手にとって、とりあえず各々が飲み物を注文した。店は新鮮な魚が売りらしい。一品料理と同じくらいに、寿司も多彩に取り扱っている。良く見ると品書きには一切値段が記されておらず、時価のようだった。
この店と晶達の関係が把握できず、風巳はただやりとりを見守ってしまう。知り合いであることは確かなようだ。
「食べる物はお任せします」
「わかった。今日は仕入れで良い物がいっぱい入ったんだ。甲斐があったな」
男は嬉しそうに調理場へ戻った。朝子がさっそく兄に問いかけている。
「二人の知り合いなの?」
「ああ。知り合いというか、友人の親父さんだな」
意外な交友関係を知った気がして、風巳はまどかを見た。
「晶と二人で良く来ているの?」
「良くってことはないけれど。たまに顔を出すかしら。ここに友達が集まってね、内輪であたし達の結婚を祝ってくれたのよ」
「そうだったんだ」
まどかは笑いながら、透達にも語りかける。
「それにお料理がとても美味しいの。きっと、みんなにも気に入ってもらえると思うわ」
朝子は驚いたように兄を見たが、彼もその言葉に不服はないようで頷いた。
「本当に?二人がそう言うなら、本当に美味しいんだ」
「あたし、来るたびに味を盗もうと挑戦しているんだけど、やっぱり本物の料理人は何かが違うのよね。食材に対する目利きも違うのね、きっと」
「それは、ものすごく楽しみかも」
風巳には、まどかの味覚を疑う理由がない。結城邸での食事に違和感を覚えた思い出がなかった。まどかの料理には、顕著に彼女の思いやりが現れている。あらゆる状況を考慮して、献立が出来ているような気がしていた。
けれど、心掛けていたのはそれだけではなかったのだろう。美味しいものを口にするたびに、彼女はしっかりと吟味して、味覚を磨いているのかもしれない。
六人で座卓を囲んで会話を続けていると、女将らしき女性が飲み物とつきだしを運んできた。ふくよかな女性で、さっきの板前の細君らしい。割烹着の裾から、からし色の着物が覗いている。
「今ね、愚息に電話をしてみました。もし友達が店に来たら、知らせてくれってうるさいですからね」
「彼は一人暮らしで羽を伸ばしているようですけど。ここへは、良く顔を出すんですか」
「ふらりとやって来て、盛大に呑んで食べて帰ります。来るたびに、いろんな女の子を連れてくるから。誰が本命なのかもわかりませんけれど。お二人を見習って、早く落ち着いて欲しいのに」
晶は「彼らしい」と苦笑している。風巳にはどういう友人なのか想像もつかない。
「でもあの子、さっきの電話では、すぐに来るらしいことを言っていたけれど」
「彼が?」
「ええ、そうです。ちょうど週末だし、運が良いって笑っていたわ。二時間くらいかかるから、思い切りもてなして、足止めしておけですって」
店主の息子のことで、晶達は女将と話が盛り上がっている。風巳が朝子を見ると、彼女はつきだしに箸をつけて「美味しい」と声をあげた。
風巳も口に含んでみたが、たしかに素材の生臭さが微塵もなく、口当たりが良い。他愛なく透や祥子と公演の感想を語っていると、次々に料理が運ばれてきた。
盛大に箸を進めながら呑んで、加減良く酔いが回ってくると、透達の出会いの話で大いに盛り上がる。祥子は東京在住で、小さな楽団に所属しているらしい。透は風巳達と同じ年だが、実は学年は一つ下だった。高校卒業後、一年間バイトをしながら関東を放浪していたと云う。もちろん浪人生として勉強もしていたと、透は笑いながら主張した。二人が出会ったのはその頃で、はじめは透の一目惚れで片思いのようだった。
「吉川君って、積極的だね」
「うん。俺、あの頃はものすごく頑張った気がする。何かがとりついていたかもね。一歩間違えれば、ストーカーだよ。あぶねー」
自分で認めてしまうのが可笑しくて、風巳は思い切り笑ってしまう。祥子は恥ずかしそうに頬を染めていたが、笑みが絶えることはなかった。
プラチナホールで初めて二人の様子を見たとき、風巳はすぐに空港で見た光景を思い出した。空港の通路で、間宮祥吾に寄り添っていた女性。
あれは間違いなく、篠宮祥子だった。
彼女の表情には、その時も翳りが滲んでいた。ホールに現れた時にも、同じような暗さが漂っていたように思う。何か込み入った事情があるのかもしれないが、こうして仲睦まじい二人を前にすると、考えすぎのような気もした。
風巳には、祥子が二股をかけるような女性には見えない。人は見かけによらない場合もあるが、透に向けられた想いは偽りではないだろう。
それでも、空港での光景を思い出すと、どうしても複雑な気持ちになってしまう。
自分が立ち入るようなことではないが、二人に悲劇が訪れるようなことは望まない。こうして知り合ったのも、何かの縁なのだ。知人として、ただ幸せに過ごしてほしいと願う。
風巳は同じ座卓で、通じ合っている二人の様子をたしかめる。やはりただ微笑ましい。気にしすぎだと思い直そうとした時、祥子がハッとしたように携帯電話を手にした。どうやら受信していたらしく、座卓に背を向けるようにして通話している。
隣の透の表情が、剣呑になっていた。再び、風巳の胸の内に不穏な気配が広がった。電話に応じている祥子の声は良く聞き取れない。やがて彼女が通話を終えて、こちらを向いた。暗い眼差しで、彼女は用事が出来たとの旨を告げる。
さっきまでの微笑ましい光景が、一本の電話で見事に崩壊していた。風巳は透が彼女の抱える何らかの事情を知っているのではないかと思えた。