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2:切ない病

 親友の室沢晴菜むろさわ はるなと一緒に、朝子は大学の図書館に来ていた。図書施設は全学部共通の場所であるため、校内でも一、二を争う規模を持つ。

 館内の行き来は自由だが、書物は分類によって整理整頓が行き届いているため、おのずと在籍する学部によって使用する書架が決まってしまう。


 二人は文学系の書籍が集まっている三階に上がると、広くはない本棚の間を、あれでもない、これでもないと彷徨っていた。

 期末考査は昨日から始まり、日程としてはこれからまだまだ続く。朝子達にとっては、小論文やレポート、授業のまとめなど提出物の締め切り地獄である。


 本日も締め切り日となっているレポートの提出があったため、朝子は晴菜と待ち合わせて大学までやって来た。無事にレポートの提出を果たしてから、二人は次の課題のための資料漁りに精を出している。

 図書館に入ってから半時間が過ぎた頃に、二人はようやく目ぼしい資料を抱えて一階まで下りた。図書館の一階は、見渡す限り机と椅子が並んでいる。大勢で共有できる長机から、仕切りのある個人向けの机まで、整然と据えられていた。


 二人は窓際の明るい席について、持ち寄った書籍を開く。周りには同じように課題を仕上げている学生や、メモをとったりしている学生が溢れていた。

 ほとんどが見知らぬ顔で、おそらく違う学科の人間なのだろう。


「ね、朝子」


 席についてから、広げた資料に視線を落としたまま晴菜が声をかける。朝子も分厚い書籍の必要な箇所を書き写しながら返事をした。


「うん、何?」

「さっき吹藤ふとう君が、夏休みに一時帰国するって言っていたけどさ」


 朝子はゆっくりと視線を晴菜に向ける。その気配に気付いたのか、彼女も顔を上げて朝子を見た。


「もし戻ってきた時に、今すぐ結婚しようって言われたらどうする?」

「そんなの有り得ないよ」


 朝子はぴしゃりと即答した。晴菜は眉をしかめて、幼馴染でもある親友を見る。


「だって、まだ大学卒業までに二年弱あるんだよ。風巳かざみなんてもっと大変だろうし。……なのに、どうしてそんなに納得できないって顔になるの、晴菜」

「私はまどかさんの言っていたことが正しいと思うな」

「ん?意味深長ってこと?私には二人がどうして拘るのか判らないような普通の文面なのに?」


 晴菜はものすごく何か言いたげな顔をしていたが、その台詞は飲み込んだらしい。朝子にはひたすら腑に落ちない態度だ。晴菜は一瞬の間に目まぐるしく言いたいことをまとめたらしく、再び口を開く。


「じゃあ、朝子に聞くけど。例えばさ、吹藤君にこれからは毎日朝子の作ったご飯が食べたい、とか言われたら、どう答える?」


 薄笑いを浮かべて、彼女は興味深げに朝子の答えを待っている。朝子はその質問にどういう意図が絡んでいるのか考えながらも、とりあえず思ったとおりに答えた。


「今の状況から考えると、無理かな。毎日会うこともままならないわけだし。とりあえず帰ってきた時だけは叶えてあげるよ」


 言い終わらないうちに、ばたっという音をさせて晴菜は本の上に突っ伏した。思いがけない反応に、朝子は何か可笑しなことを言ったのかと焦る。けれど焦ってみても、振り返った会話の流れに齟齬はないように思えた。


「何なに?晴菜、そのリアクションは」


 それはこっちの台詞だと咆えたい相棒の心情に、朝子はどうしても気付いてくれないようだ。がっくりとうな垂れている晴菜を、彼女は目をぱちくりさせながら眺めている。


「駄目だこりゃ」


 そう呟きながら、晴菜は気を取り直したのか、むくりと上体を起こした。


「朝子。私は今、思いきり吹藤君に同情した」

「え?どうして?」


 風巳に対して失言があったとは思えない。朝子は眉をしかめて考え込んでしまう。目の前では、晴菜が先日のまどかとよく似た溜息をついていた。


「私、何か嫌な事でも言ったかな」

「ううん。そういうことじゃないんだよ、朝子」

「じゃあ、何?」

「それは、教えてあげないよ」


 これまで、いつも手に入れた情報を明かすことを、晴菜は生きがいのように楽しんできた。なのに、今回は頑なに口を閉ざすと決めたらしい。朝子がどれほど追求しても、この件に関しては、まるで梨の礫である。


「ともかく、資料をまとめようよ」


 人の気も知らず、晴菜がさっさと作業を再会する。朝子も仕方なく、再び鉛筆シャーペンを握った。必要事項を書き出すために、文献に目を向ける。

 細かな活字を追いながらも、朝子は自分の想いが急激に不安に駆られるのを感じた。晴菜の思わせぶりが悪いわけではない。幼馴染でもある親友は、励まして背中を押してくれることがあっても、不安になるような事態を招いたりはしない。


 だから今も、晴菜の抱く秘密にうろたえることはない。

 芽を出して、根を張ってゆく不安の原因には、既に心当たりがあった。

 本当は朝子自身も、風巳から届いた手紙については、何か意味があるのではないかと感じていた。まどかや晴菜のように、帰国をただ喜ばしい意味として捉えるのではなく。


 風巳が記した――伝えたいこと――。

 晴菜のように二人の未来への兆しだと考えるような要素は、どう考えても見つけられない。

 朝子はまだ学生で、風巳も夢の一歩を進み始めたばかりなのだ。そんな時期に、風巳が周囲の環境も顧みずに行動を起こすとは考えられない。


 誰に迷惑をかけても一緒にいたい。そんな我儘だけに突き動かされるような人なら、朝子はきっと彼に惹かれたりはしなかった。

 いくら恋は盲目と言っても、彼が無謀な振る舞いをするわけがないのだ。

 けれど、そんなふうに結論が出ると、朝子には彼が手紙を書いた理由が絞られてしまう。


 彼が手紙を書く理由。


 ――伝えたいことがある――と記す、その理由。


 何か伝えにくいことがあるのではないのだろうか。書いては消して、迷って、結局あんなに簡潔な手紙が出来上がった。

 だとしたら。

 彼が自分に伝えたい言葉とは――。


「―――…」


 文献の字面を視線で追うふりをしながら、朝子はそっと溜息をついた。

 時折、自分を襲ってくる後ろ向きの感情。

 それは満ち足りた日々にも、まるで発作のようにやって来る。


 彼を信じている。

 自分を信じている。


 信じられないものなど何もないのだ。想いが通じていて、満たされている自分を知っているのに。想いは、今も揺ぎ無く刻まれているのに。


 判っていても、どれほど信じていても、それはするりと忍び込んでくる。


 心許ない感覚。不安。闇。


 それは、風巳に関わる自分に限ったことではない。

 いつからだろう。輝いた日々だけが連続してゆくのではないと知ったのは。

 そこに闇があるから、光が輝きをもたらすことが出来ると悟ったのは。


 喪失感。


 忘れているようで、忘れていないのだろう。

 突然絶たれた、幸せな日々。戻ってこなかった両親。手の届かない世界に奪われた兄。


 深い絶望。


 幸せな日々を取り戻した今も、それは既に自分の一部となって、胸の奥にある。きっと生涯、消えることはない。


 満ちた日々に癒されても、傷跡までは消えてくれないのだ。けれど今は、それでいいのだと判っていた。朝子はもう自分の中に在る絶望を否定はしない。それを抱えたままでも、人は幸せになれると知っているから。


 そんな自分を、愛してくれる人達がいる。

 闇を受け入れて共存してゆく未来。その先に広がる輝いた日々。

 今は間違いなく、日向の中にある途を歩いている。


 ――伝えたいこと――。


 風巳は帰ってくると約束をしてくれた。いつか自信が持てたら、迎えに来ると。

 それだけを信じて、明るい日々の中にいればいい。

 わかっているのに、傷跡が呼応する。闇の在処を示す。


 忍び込む不安。


 それが二人の別れではないと、どうして言い切れるだろう。

 ばかばかしい危惧だと自分でも思う。風巳が突然求婚するのと同じくらいに有り得ないことだ。

 認めながらも、朝子は微かな不安が育ってゆくのを止められなかった。


「――はぁっ」


 今度はわざと声に出して、朝子は溜息をついた。

 悪い癖のようなものだと言い聞かせる。一過性の流行り病と似ているのかもしれない。

 きっと、風巳に会えれば嘘のように治ってしまう。

 特効薬は風巳の笑顔。


 そんな、切ない病。

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