1:プラチナホール
夏の陽は長く、午後五時を過ぎても辺りは明るい。焦げつきそうな日差しの強さは緩んでいたが、日中の激しい熱が残滓となってとどまっている。蒸した暑さに包まれながら、朝子は手に持っていた招待券に視線を落とした。
高校時代の友人である一条司に招待された公演は、午後六時が開演である。
「思っていたとおり、少し早くついたね」
隣の風巳が腕時計を見てから、建物の正面玄関を仰いだ。
「うん。だけど、大ホールへの入場は五時半からだし、これ位に着いてちょうどいい感じ」
オーケストラの演奏が催される音楽ホールは、プラチナホールの中にある大ホールを会場としている。プラチナホールは最近に建造されたばかりで、無駄がないのに優雅な輪郭をした美しい外観で佇んでいた。
「あたし、ここに入るのは初めてだわ」
二人の後ろを歩くまどかも、建物を仰いでいる。朝子は彼女を振り返って「私も」と頷いた。プラチナホールは、車を使えば自宅から十五分もあればたどり着ける距離にある。国内屈指の音響設備を活かし、あらゆる催しが開催されているのも知っていたし、外観を眺めたことは数え切れない位にあったが、入館するのは初めてだった。
三人がゆっくりと正面玄関まで到達すると、駐車場に車を止めてきた晶がようやく階段の踊り場に姿を見せた。彼はすぐにこちらに気付くと、早足に階段を上がってやって来た。
「駐車場は空いていた?」
風巳が訊くと、彼は頷く。
「それなりにね。駅が近いから、電車で訪れる人の方が多いだろうな」
プラチナホールから続く歩道は、レンガが敷き詰められた憩いの広場になっており、そのまま駅へと繋がっている。同じように公演を観に来た人達の姿で、辺り一体がいつもより賑わっているような気がした。
朝子が見渡す限り、あまりに羽目を外した服装で臨む人影は見当たらない。
回転扉を押して中へ進む兄に続いて、朝子も初めてプラチナホールへ足を踏み入れた。絨毯の敷き詰められた吹き抜けの広場に、わずかな喧騒が満ちている。それは騒がしくない程度のざわめきで、荘厳な印象の漂う館内には相応しいと思えた。
天上に仕掛けられた見事な照明器具を中心に、階段が両側から二階へと続いている。
大ホールは一階の奥にあるようで、公演の案内が示されていた。傍らにはクロークがあったが、厚着の冬とは違い、預けるような大袈裟な手荷物もない。
司のために用意した花束があったが、持ち歩くと目立つので車に置いたままだった。
受付はまだ始まっておらず、人々はそれぞれに時間を持て余しているように館内を彷徨っているようだ。
朝子は思わず、同じように今日の公演に訪れる見知った人影を探してしまう。熱心に辺りを見回していると、風巳から「どうしたの?」と肩を叩かれた。
「友達がね、同じ公演を観に来るって言っていたから、見つけられないかなって」
「大学の?」
「うん。風巳も知っているよ。吉川君」
彼はすぐに思い至ったようで、「ああ」と顔を綻ばせた。
「金髪の彼だよね。だけど、あんなに逞しいのに、スポーツ選手じゃないの?音楽鑑賞よりは、スポーツ観戦とかに興味がありそうな気がしたのに。趣味が多彩だね」
風巳は透に対して悪い印象はないらしく、彼のことを語る口調が明るい。数えるほどしか会ったことがないのに、どうしてそんなに反応が好意的なのかと、朝子は不思議な感じがした。
「それは、彼女の影響だと思うよ。彼女が音楽を齧っている人みたいだし。今日も一緒に来るって言ってた」
「そうなんだ。……彼ってさ、少し沙輝に似てない?」
彼が示す親しい友人を思い浮かべてから、朝子は真っ先に気付いた点を挙げた。
「筋肉が?」
その答えが可笑しかったのか、風巳は笑いながら首を振った。
「たしかに背格好もそうだけど、どこか雰囲気が似てるよ。だから、親近感が沸く」
「そうなんだ」
すぐにささやかな謎が解けて、朝子は風巳らしいと笑った。
「携帯の映像で彼女を見せてもらったけど、年上っぽくて、綺麗な人だった。黒髪で透けそうに色が白くて、すごい格好良いの」
何か思い当たることがあるのか、風巳は一呼吸置いてから答える。
「――へぇ、それはお目にかかりたいかも」
「うん。その時に、風巳の映像を吉川君に見せてあげたりもしたよ」
「あ、やっぱり。朝子の友達だったら、俺のこと知っていてもおかしくないなって思ってたんだ。それなら初めて会った時の、彼の様子も辻褄があうしさ」
透がはじめて風巳を見たときは、まだ朝子との関係を知らなかったはずである。けれど風巳は人に色彩を感じる透の才能を知らないのだ。
きっと風巳なら、透の秘密を何の戸惑いもなく受け入れてくれるだろう。
朝子は端的に透の才能について語り、風巳の誤解を解いた。
「人の周りに見える色?」
風巳は自身も特異な力をもっているせいか、さらに親近感を覚えたようだ。二人が同じ学校に通っていたら、きっと仲の良い友人になれたに違いない。
風巳は透の力に対して何の疑いも抱かず、無邪気に問いかけてくる。
「じゃあ、俺って何色だったの?」
「それは秘密」
何となく、朝子は自分の中に秘めていたい気がした。風巳はどんなふうに受け止めたのか、「どうして?」と不安そうな顔をする。
「もしかして、ものすごく変な色だとか?マーブル模様とか」
「違うよ。でもね、秘密」
戸惑う彼の様子を楽しみながら、朝子は唇に人差し指をあてて見せた。
「すっごく気になるんだけど」
思いがけず強く手首をつかまれて、今度は朝子が戸惑ってしまう。彼の澄んだ眼差しが、間近まで迫っていた。鼻先が触れ合いそうな、吐息のかかる距離感。