2:漂う心2
朝子はハッとした。今まで、風巳の血統に関わる事情を深く考えたことがなかったのだ。兄を苛む悪夢を知りながら、風巳の見ている光景を全く別のことのように捉えていた。
強弱があったとしても、それは兄と同質の力である筈なのに。
風巳が何らかの思いを抱えていても、不思議ではないのに。どうして見落としていたのだろう。
「そういうの、おかしいって思わない?普通じゃないって。……気持ち悪いとは思わない?」
問いかけは穏やかだったけれど、風巳の声は切実に響く。朝子は激しく
横に首を振った。
「思わない」
「……うん。朝子は、そう言ってくれるって思ってた」
「風巳は、自分のことをおかしいって思うの?」
彼は答えずに、揺らめく波に視線を移す。
「朝子は全てを知っていても、晶のことを兄妹として受け入れていたから。間近に彼の力を感じながら、それでも心から彼を慕っていたから。――きっと、こんなことは当たり前に受け入れてくれるだろうって分かっていたんだ。朝子は晶を取り巻く世界を恐れていても、晶自身を恐れることはなかった。自分の見たこと、感じたこと。晶が自分にとって、かけがえのない兄であるという事実だけが真実になる。それ以外の要素は、朝子にとっては重要じゃなかった。少なくとも、晶を恐れる要素にはならない。朝子の見ている世界は、そんなふうにできあがってる」
「だって、そんなの当たり前だよ。今まで知らなかった事情を知るたびに、その人が変わってしまうの?お兄ちゃんが夢を見たら、今までのお兄ちゃんが全て偽者になったりする?風巳を吹藤の人だと知ったら、その日から風巳が豹変するの?そんなことないよ」
「うん。でも、些細なわだかまりを作る要素にはなる。与えられる情報が非日常的で衝撃的であるほど、今までと同じに振る舞おうとしても、知らずに敬遠してしまう。もちろん、全ての人がそうじゃないよ。それに、危険から遠ざかろうとする本能みたいなものだと思うから、責めるようなことでもないし」
澄んだ琥珀を湛えた瞳が、まっすぐ朝子を捉えた。
「でもね。朝子は、そうじゃなかったから。だから、俺も自分のことをおかしいなんて考えないし、思わない」
朝子は安堵して、わずかに肩の力が抜ける。
「――よかった」
海面の照り返しが眩しいのか、風巳が目を細めた。浮き輪に捕まっている朝子の手をとると、そっと唇を寄せる。
「ただ、――俺が朝子の傍にいることは、……祝福されるのかな」
「え?」
彼は手をはなして、見たことのない笑みを浮かべる。朝子が問いかけようとすると、すうっと浮き輪から離れて、緩やかに辺りを旋回した。身を躍らせるように翻して、音もなく海中へ潜ってしまう。
朝子は彼がどこから姿を現すのかと辺りを眺めるが、一向に浮き上がってくる様子はない。
たゆたう波の中に独りで残された気がして、途端に心細くなった。同じ時間の流れであるはずなのに、彼を見失った一瞬は虚しい位に長い。
ほんのひとときを永遠のように持て余していると、朝子はだんだんと風巳の行方が心配になってくる。
海中で呼吸を奪われるには、長すぎる時が過ぎているように思えた。
波間には、依然として人の姿がない。
「――風巳」
呟くように口にすると、不安が打ち寄せてくる。海にさらわれて、彼の存在が幻になってしまうような恐れがあった。
風巳が、あんなふうに寂しげに笑うからだ。
まるで、自身を蔑むかのように。
朝子はもう一度彼の名を呼んだ。呼びかけに呼応するかのように、辺りの波が不規則な波紋を描く。微か
に、背後で水を弾く音がした。朝子が振り向くと、風巳が海面に現れるところだった。
彼は優雅な身のこなしでこちらへ寄ってくると、浮き輪に手をかけて大きく呼吸をする。髪から滴る水滴を拭いながら、朝子を仰いだ。
「どうしたの?朝子」
彼は一瞬で顔を曇らせて、浮き輪に捕まって上体を現した。朝子と同じ高さに、眼差しが迫る。
不安な顔をしていたに違いない。わかっているのに、朝子は取り繕う余裕もなく現れた彼に手を伸ばした。しがみつくように首から背中へ腕を回して抱きしめると、彼は不安定な海面で浮き輪とバランスをとりながら支えてくれる。
「風巳が消えたのかと思った」
「潜っていただけだよ」
「うん。だけど……、なかなか上がってこないから」
彼に触れていると、心細さが凪いでいく。落ち着きを取り戻しても、風巳の腕はしっかりと自分の体を抱きしめていてくれた。
「ごめんね、朝子」
「ううん。一瞬の事なのに、私が心細くなっただけだよ」
少しだけ背中に回している腕の力を緩めて、朝子は彼の顔を見た。琥珀を映すような、真摯な眼差しがあった。
「――ごめんね」
もう一度、彼が囁く。朝子はふと、彼が何か違うことについて詫びているのだと悟る。笑いかけようとして、それができなくなる自分を感じた。風巳は自嘲するように眼差しを伏せた。
「朝子を不安にさせるのが苦しいのに、――そんな顔をさせるのは、いつも俺だよね」
「そんなことないよ」
「ううん、ある」
伏せた視線をあげて、彼はふたたび視界に朝子をとらえた。
「でも、朝子がとても好きで、大切。それだけは偽りのない気持ち」
「――うん」
想いをためらわず言葉にされて、思わず頬が染まる。朝子は「信じてるよ」と呟くように答える。風巳はただ穏やかに笑った。たったそれだけなのに、大人びた仕草だった。揺ぎ無い宣誓のように、彼の微かな声が告げる。
「だからね。たとえ祝福されなくても、この気持ちは貫くつもり」
「え?」
誰に、と問うことは憚られた。はっきりしているのは、自分に向けられた言葉ではないということだけだ。
風巳の中を染めている闇の在処。
朝子は答える言葉を見失ってしまう。
「俺と朝子が一緒にいることを、許してくれるかな」
「風巳」
彼が許されたいと願う相手を察して、朝子は胸が詰まった。
もう、この世にはいない。彼の欲する答えは、永遠に得られない。
朝子は彼の背中に回している腕に、再び力をこめた。彼が葛藤しないなんて、そんなわけがなかったのだ。遠く離れて、逢うこともままならない日々。隔てられる想い。
もどかしい日々に忍び込む、暗い闇。
朝子の感じる苦痛に等しく、募った寂しさは彼も苛んでいる。
起爆剤のように、風巳の抱える深いわだかまりを刺激する。刺激して、責め立てるのだろう。彼が苛まれる理由など、どこにもない筈なのに。
風巳に与えられる罰など、在るはずがない。
「きっと、それは最後までわからないだろうけど。――でも、俺は朝子が大切だから。傍にいてほしいから。それだけは、覚えていてね」
胸が苦しくなるような囁きだった。朝子は答えるかわりに、強く彼を抱きしめる。
「――許してくれるよ」
考えるよりも先に、言葉が口をついて出た。たとえ気休めであったとしても。
「だって、私は風巳が誰よりも好き。……誰よりも、大切」
誰よりも。
失われた両親よりも。
今はもう、あの頃に手にしていた幸せよりも、彼に与えられた日々の方が輝いている。
「私は風巳といたいの」
朝子はひたすら、自分の想いを伝えたかった。そうしなければ、不安に呑まれてしまいそうだったのだ。
いつか、彼が自分と出会ったことを後悔する日が訪れるのかもしれない。殺められた両親の命の重みが、いつの日か風巳の想いを砕いてしまったのなら――。
そんな有り得ない未来を想像してしまう。
風巳の想いが深いほど、その想いが彼自身を傷つけて、追い詰めてしまうのかもしれない。兄が背負うように。それ以上に。
「風巳といたい。だから出会ったことを、後悔しないでね。私は風巳といられて、今が一番幸せだから」
強く訴えると、彼にも通じるものがあったのだろうか。
何かを振り切るように、風巳はいつもの屈託のない笑みを取り戻した。
「また、不安な顔をさせちゃったね」
「こ、これは、違うよ」
焦ったが、だからといって意味もなく笑うのもおかしい。朝子がうろたえていると、風巳は「やっぱり、朝子は可愛い」と呟いた。
「告白してもらえるなんて思わなかった。すごく幸せかも」
朝子は急に恥ずかしくなって、顔が真っ赤に染まる。風巳がふいに力をこめて、朝子の頭に頬を寄せた。
不安を拭い去る呪文は、いつでも彼だけが知っている。
「俺は後悔なんかしないよ。何があっても、これからもずっと、朝子と出会えたことを後悔したりしない。神様に反対されたって、自分の気持ちが間違えているとは思わない。だって、朝子を好きになった自分が誇りだから。それに、俺の幸せもここにあるからさ。朝子がいてくれたら、それだけで――」
「うん」
腕の力を抜いてから、風巳がこつんと額をあわせた。すぐそこに、彼の濁りのない瞳が迫っている。濡れた手が朝子の頬に触れた。
「朝子。キスしてもいい?」
「……こ、ここで?」
「誰もいないよ」
「――うん」
そっと彼の首筋に手を伸ばして、朝子は瞳を閉じた。ゆっくりと気配が近づいて、風巳の唇が触れる。一瞬だけ、重ねられた処から潮の味が伝い、すぐに甘い熱に呑まれて消えた。