1:漂う心1
慌しく海を満喫するための準備を整え、一向が現地に到着すると、時刻は既に二時を回っていた。それでも突然の決行を考えると、奇蹟的な速さではある。
朝子は兄の無謀な運転を思い出して、よく生きてここまで来られたものだと、神様に感謝したい気持ちになっていた。
「本当に、死ぬかと思った」
水着に着替えながら呟くと、隣の晴菜は「面白かったよ」と笑う。あれを楽しいと言える親友の神経が信じられない。高速を走っているときは、速度メーターの針がふりきれてしまいそうな位置にあったのだ。
けれど、助手席に乗っていた風巳もノリノリだったような気がする。
兄に不平を訴えると「おまえ達が買い物に時間をかけすぎたからだろ」と一蹴されてしまった。遅れた分を取り戻すという、兄なりの無茶苦茶な配慮だったらしい。
海に出られる仕度が整うと、朝子はふと傍らで暗い顔をしているまどかに気がつく。彼女の格好を見て、その憂鬱も仕方がないなと同情した。親友の晴菜はそんな物思いを吹き飛ばすように、元気の良い声を出した。
「まどかさん、暗いってば。せっかく、これからその抜群のスタイルで砂浜に立つのに。朝子も海に出る前から疲れている場合じゃないよ」
晴菜は、成り行きで同じように水着姿を披露することになってしまったまどかの前に歩み寄る。背中の傷跡を隠すために、ざっくりとパーカーを羽織って、まどかは気が進まないという顔をして俯いていた。親友は励ますように、そんな彼女のパーカーの裾をくいくいと引っ張る。
「本当だったら、これもいらない位ですよ。髪を下ろしていたら、傷跡なんて見えないし。せめてパーカーの前くらい開けておけば?まどかさん」
朝子も気を取り直して、まどかに笑いかける。
「そうだよ、まどかさん。上着があるから平気だって」
「それは、わかっているんだけど」
彼女は恥ずかしそうに顔をあげる。
「こんな格好で晶の前に出るのが、恥ずかしいのよ」
「え?」
朝子は晴菜と顔を見合わせた。結婚していて、今更恥ずかしいも何もないだろうというのが、素直な感想だった。
「まどかさん、ひょっとして今まで晶さんと海とかプールに行ったことないんですか?」
「あるけれど、泳ぐのが目的で一緒に来たことはなかったから」
親友は「もったいない」と目を丸くしていた。
「じゃあ、私達はまどかさんの初海に立ち会えるわけだ」
目を輝かせて浮かれている晴菜に、まどかは困ったように笑っている。
「とにかく、ここまで来たら潔く楽しまなきゃ損ですよ」
「そうね」
まどかは気持ちを切り替えるためか、深く吐息をついてから顔をあげた。晴菜が先頭で、続いてまどかが浜辺へ出る。朝子も砂浜に立つと、あまりの眩しさに手を翳した。時期的に少し早いかと思っていたが、浜辺はたいそうな人で賑わっている。
パラソルや露天が白っぽい砂浜に彩りを添えて、真夏の光景を作り出していた。日焼け止めの効力が疑わしいくらいに、照りつける陽光がじりじりと肌を焼く。
辺りを見回す必要もなく、風巳と晶はすぐに視界に飛び込んできた。二人は既に砂浜に立って、海を見ながら何かを話していた。ただそれだけの光景なのに、辺りの注目を集めているようだ。
声をかけようとして踏み出すと、風巳がこちらに気付いて笑顔を見せる。大きな浮き輪を右手に抱えたまま、駆け寄ってきた。兄もまどかと色違いの上着の裾を翻らせて、こちらへやってくる。
風巳は無邪気な様子で、嬉しそうに笑った。
「朝子、可愛い。やっぱり海って最高」
包み隠さずそんなことを言われると、さすがに恥ずかしい。顔を伏せようとすると、何も纏っていない風巳の上半身をまともに見ることになってしまい、目のやり場に困って、ますますうろたえてしまう。
細身の体格なのに、朝子にはないしなやかな筋肉が逞しく見える。大人の骨格ができあがっていた。朝子は照れていても仕方がないと思いなおし、悪戯心を起こしてみる。ふいに彼の胸元をぺたりと手で触ってみた。ふくよかさに欠けた手触りは、自分とは全く異なるもので、体温が熱い。
「わ、ちょっと。朝子」
「風巳って、やっぱり男の子だね」
見上げると、風巳は顔を真っ赤にしてうろたえている。朝子はからかうように笑ってから、傍らの兄を見た。彼の胸にある傷跡は、まどかの背中に残っている痕よりもずっと克明に刻まれている。
まどかへ向けられた、兄の揺ぎ無い想い。朝子には、それが傷跡を借りて形になっているように思えた。命を賭しても、守り抜きたいもの。傷跡はその証なのだ。
二人の恋愛は劇的で、朝子には理想をこえて既に奇蹟だった。
晶は傷跡を気にする様子もなく、隠す素振りもなく自然にふるまっている。目の前で恥ずかしそうに戸惑っているまどかに、彼は「悪くないな」と声をかけた。
兄が賞賛するように、パーカーの裾からのぞく彼女の足は長くしなやかで、陽光を浴びると肌はいっそう白く映える。
どこか楽しげに、晶は皮肉っぽく微笑むと何気なく彼女に手を伸ばした。
「悪くないけど。……おまえ、それじゃあ服を着ているのと変わらないだろ」
それは抗う隙を与えない一瞬の出来事で、彼の長い指先が彼女の襟元に触れた。金具に手をかけると、彼はためらわずに上着の前を開く。
「――っ」
まどかは悲鳴をあげて胸元を掻き合わせたが、兄は飄々と笑っていた。再びまどかに同情しながらも、朝子は兄の行動をこっそりと讃えてしまう。
背中の傷跡を隠したい彼女の気持ちはわかるが、同時にそのうっとりするほどの見事な輪郭を、全て隠してしまうのはもったいないと思えた。
長い手足に、ほっそりと引き締まった腰。開かれた胸元には美しい谷間がのぞいて、整った胸の輪郭が見え隠れしている。陽光に照らされて露になる白い肌は、透けそうでもあり、輝いているようにも見えた。朝子でも視界にとどめておきたくなるような、抜群の容姿。
朝子はいつか見た麒麟祭の舞台を思い出す。
天地を貫いて舞い降りた、神の化身。
麒麟の舞姫。
こんなふうに彼女の肢体を眺めていると、間違いなく彼女があの大きな舞台に立ったのだと思えた。
まどかは自分の類稀な容姿にはとことん無頓着で、頬を染めて晶を睨んでいる。
「ただでさえ恥ずかしいのに」
「恥ずかしいと思うから、恥ずかしいんだろ。俺としては、その方が圧倒的にいい眺めだけどね」
頬を膨らませて拗ねているまどかに、晶は自分の希望を語って笑っている。傍で二人のやりとりを眺めていた晴菜が、まどかの隣に立って晶を仰ぐ。
「晶さんって、奥さんの水着姿を周りの野郎共に見られても平気なんだ。よく他の男には見せたくないとかって人いるじゃないですか」
「俺はそんなに心が狭くないからな。それに、例え眺めることができても、他の奴らは触ることもできないわけだし。お預けをくらった犬状態で、いい気味だろ」
心が狭いと言うよりも、嫌な性分である。朝子は兄の捻じ曲がった性格の悪さに辟易するが、親友の晴菜は悪戯っぽく笑ってまどかの後ろに回る。
「触るのは晶さんの特権ってこと?じゃあ、私が侵害してみようっと」
晴菜は無邪気にまどかの背後から手を伸ばす。次の瞬間、まどかが「きゃあ」と声をあげた。晴菜はしっかりとまどかの豊かな胸に触って、抱きついている。
「もう、晴ちゃんまで。からかわないで」
「うわー、至福の感触」
晴菜は彼女から離れると、胸に触れていた掌を眺めて感動している。晶はそんな二人を見て大笑いしていた。
「室沢って、おかしいね」
「ほんとに」
朝子も風巳と一緒に笑いながら眺めていたが、何気なく彼に腕を引っ張られる。
「朝子、海で泳ごうよ。浮き輪もあるしさ」
「うん」
二人で砂浜を駆け出して、波打ち際まで走った。足先に触れた海水が、思っていたよりも冷たく、心地良い。二人でふざけながら水をかけあっていると、いつの間にか随分深いところまで来ていた。朝子が差し出された浮き輪を使うと、風巳が腕を伸ばして向かい合うように捕まっている。
濡れた髪から雫が滴って、風巳は無造作に髪をかきあげた。朝子は至近距離で眺める仕草に、思わず鼓動が高くなる。
しばらく浮き輪につかまったまま二人で漂流していると、随分浜辺が遠ざかっていた。
「砂浜の人が小さく見えるよ」
「うん。俺達、少しずつ沖へ流されてるね」
風巳はそれを恐れている様子もなく、浜辺を眺めていた。静かな波の上で、寄り添うくらい近くに彼の気配がある。それだけで、これほど沖に出ているにも関わらず、朝子は心細さを感じない。
中天を過ぎても、太陽は変わらず眩しい。輝きは褪せていないのに、海面に弾かれる照り返しが、少しずつおっとりとした光を生んだ。やがて訪れる夕刻を示唆するかのような、けだるげな色合いに呑まれて行く。
「誰もいないね。風巳と二人だけで遭難しているみたい」
さすがに浜辺からは遠いのか、近くで戯れる人影がなくなっていた。浜辺から視線を逸らすと、まるで広い海原に、二人だけで放り出されているような錯覚に陥る。
「あまり沖へ出るのは苦手?怖い?」
案じるような彼の眼差しに出会って、朝子は横に首を振った。
「怖くないよ。風巳がいるから平気」
素直に伝えると、彼はどこか大人びた微笑みを浮かべた。優しい眼差しのまま、「大丈夫」と囁く。
「これ位の距離なら、すぐに戻れるから」
「うん」
朝子は浜辺で戯れる小さな人影に目を向けた。
「これだけ遠いと、さすがに見分けがつかないね。お兄ちゃん達はどこにいるのかな」
「……なんとなくだけど、人気の少ない岩場とかにいそう」
「どうして?」
「あの二人が一緒にいると、かなり目立つし。晶はともかく、まどかさんは注目を浴びるのが嫌そうだったから」
風巳の推測を想像してみて、朝子はおかしくなる。
「結局、人目を避けて二人きりってこと?――なんだか、からかわれているまどかさんの姿が目に浮かぶような気がする」
心の中でまどかを気の毒に思っていると、風巳は声をたてて笑った。
「このさい、晶に嫉妬させるくらい大胆な行動に出ればいいのにね」
「本当だね。わざとナンパされてみるとか」
風巳は笑みを湛えたまま、浮き輪の上で頬杖をついた。
「だけど、あの二人が一緒にいる光景って、好きだな。……幸せそうで、ものすごく祝福されていると思うから」
浜辺に二人の面影を探しているのか、そんなふうに語る風巳の横顔は優しい。
「うん。私も見ていると嬉しくなるよ。――そういえば、風巳。お兄ちゃんに子どもの誕生を喜んでもらえないと思うまどかさんの気持ちって、どうして?なんとなくわかるって言っていたけど」
彼は腕を組むようにして浮き輪に捕まり、朝子を仰いだ。
「これは本当に憶測だけど、きっと血筋を気にしているんだと思う」
「血筋って?」
「晶は自分の血統を嫌悪しているところがあるよね。だから、彼がそれを受け継ぐ子どもをどう考えるのかってこと。まどかさんが気にしていたのは、そういうことじゃないかなって。単なる憶測だけどね」
「――そっか」
どんなふうに考えるといいのか、朝子にはまるでわからない。けれど、不思議と不安にはならなかった。二人は既に恐れを共有できる立場にあるのだ。手をとりあって乗り越えてゆくのだろうと信じていられる。
「朝子」
風巳が覗き込むように、こちらを見る。
「俺のことをどう思う?」
「え?」
「俺にも、そういう血が流れているけど」