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3:翳り

 ようやく前期最後の筆記試験が終わり、朝子あさこは親友である晴菜はるなと学食で解放感を味わっていた。晴菜はこれから訪れる自由な日々に思いを馳せている。


「あー、終わった。出来も悪くないし、良かった。この解放感がたまらない」


 いつものように学食に陣取って、晴菜は思い切り腕を振り上げて体を伸ばしている。朝子はそんな親友を眺めて笑いながら、手元のミルクティーの缶に口をつける。


「私もお茶買って来よう」

 晴菜が席を立って、入り口の自動販売機へ向かった。烏龍茶の缶を手にして、すぐに席に戻ってくると、椅子に掛けながら腕時計を見る。


「それにしても、吹藤ふとう君、遅いね」


 朝子も時計を見てから、「うん」と頷く。

 今日は彼が迎えに来るとはりきっていたので、朝子は試験が終わる時刻を伝えてから出てきたのだ。とっくに伝えた時刻は過ぎていたが、彼の到着を教えるはずの携帯は、まだ鳴らない。


「道が混んでるのかな」


 食堂の入り口に視線を向けながら呟くと、親友はあっさりと頷く。


「そうかもね。まぁ、おかげで友達と最終試験の答え合わせができたし、良かったよ」

「うん。それは言えてる」


 二人はさっきまで、同じ科目を受講していた友人達と試験の出来について熱く語り合っていた。最後の筆記試験は、学内でも担当教授が厳しいことで有名だった。毎年、半数以上の学生が、この教科の単位を落としているらしい。


 友人と学食で寄り集まって解答を模索したところ、二人ともそれほど出来が悪くないことが判明した。

 友人の中には「駄目だ」と肩を落とす者もいたが、すぐに終わったことは仕方がないと開き直る。しばらく夏休みの予定などを語って盛り上がってから、解散になった。

 迎えが来るまでの時間つぶしを兼ねて、朝子と晴菜は学食に残ったまま、夏休みの過ごし方を考えていた。


「晴菜はバイトをするって言ってたよね」

「うん。なんか、吉川よしかわ君を見ていたら、そういうのも面白いのかなって。運送屋は無理だけどさ。朝子はもちろん吹藤ふとう君と一緒に過ごしまくるんでしょ」

「過ごしまくるって……。でも、せっかく帰ってきているし。――そういえば」


 朝子は三日後に催されるオーケストラの公演を、晴菜に話す。高校時代の同級生との繋がりには、彼女も驚いたようで「すごい」と声をあげた。


「さっすが、一条いちじょう君だね。じゃあ幼馴染の女の子は、もう元気なんだ」

「うん。手紙に元気だって書いてあった。だけど、今回のピアノはまだ一条君の一人舞台みたいだよ」

「そうなんだ。まぁ、ともかく病気を克服しただけでも良かったよね。彼女はこれからだ」

「うん。でね、そのオーケストラの公演には、吉川君も彼女と行くんだって」

「ええ?吉川君が?」


 晴菜は「似合わないな」と失礼な発言をするが、たしかに彼とクラシックの取り合わせを意外に感じるのは否めない。朝子は笑いながら付け加える。


「吉川君の彼女が、音楽を齧っているとか言ってた」

「あ、そういえば携帯に映ってた彼女が、バイオリンみたいなのを持ってたかも」


 親友に言われて、朝子も携帯に映し出された小さな画像を思い出した。そういえば、バイオリンの弦が一緒に映っていたのだ。二人で「なるほど」と納得していると、ちょうど吉川透よしかわ とおるが学食へ姿を現した。


「あれ?」


 ひときわ焼けた肌と、明るい髪色で彼に気がつくのはたやすい。けれど、朝子が目に止めたのは、見慣れない包帯の白さだった。頭の半分を覆うように、きっちりと巻かれている。晴菜もすぐに気がついて、「吉川君」と呼びかけた。


「どうしたの?それ」


 透は二人の前までやってくると、包帯の上を撫でるようにさすった。


「ちょっとね」

「怪我したの?……バイトで荷物が落ちてきたとか?」

「いや。違うけど――」


 晴菜の推理を否定するが、彼は何かに戸惑っているのか、いつもと違い答える声が小さかった。


「その、自分の不注意で、打ちつけただけ」

「それで包帯を巻くほどの打撲?気をつけないと」

「うん。まぁ、こけたと言うか。……血が出てたし」

「痛そう」


 いつもより透の様子が不自然な気がしたが、会話をしている晴菜は気にならないようだ。話題が怪我のことから逸れて試験のことになっても、朝子はやはり透の様子に違和感が残った。


 何かが違う。


 朝子は彼と他愛ないことを話しながら、そのはがゆさの原因を考える。話の成り行きで彼が笑ったとき、その答えを見つけたような気がした。

 眼差しが暗い。笑っているのに、彼は笑っていないのだ。


 いつも白い歯を見せて笑う顔が印象的なのに、溌剌とした笑みが宿ることはなかった。

 浅い微笑みで、低く笑う。

 その翳りの原因を聞いてもいいのか迷っていると、晴菜もようやく違いに気がついたようだった。それでも、親友は深く考えずに単刀直入に言葉にする。


「吉川君、なんだか元気ないよ。怪我のせい?もしかして疼いたり、痛んだりするとか?」

「え?いや、怪我は包帯が鬱陶しいけど、それだけで」


 彼はまるで自分が沈んでいることに気がついていなかったのか、あるいは、言い当てられて狼狽したのか。聞き取れるか取れないかの、微かな声で呟く。


「……そうかな、俺、元気ないかな」

「どうしちゃったの、吉川君」


 あれこれと配慮して言葉を探している朝子を置き去りにして、晴菜はずばっと口を開く。


「彼女と喧嘩でもしたとか?」


 透は気を悪くした様子はなかったが、また暗い微笑みを浮かべる。


「そういうことだったら、良かったのかも」

「え?」


 朝子が思わず聞き返すと、彼はごまかすように「なんでもないよ」と笑う。

 その時、食堂のざわめきが一瞬だけ静まり、次の瞬間にワッと蘇る。三人が何事かと振り向くと、晴菜が入ってきた人影を見つけて、すぐに反応した。


あきさんっ」


 目元を彩っていたサングラスを外しながら、見慣れた人影が歩み寄ってくる。朝子は呆然と、そんな兄を見守ってしまった。どうやら風巳と連れ立ってやって来たらしい。

 二人の背後には、「懐かしい」と食堂を見回しているまどかの姿もあった。

 風巳は朝子の前に来ると、「遅れてごめんね」と両手を合わせて謝る。理由は聞かなくても、既にあきらかだった。


「いいよ、風巳。どうせ、お兄ちゃんのせいでしょう」

 朝子が兄に冷たい視線を送ると、彼は「おまえな」と吐息をつく。

「せっかく日常から連れ出してやろうとしているのに」

「どういう意味?」

「今から海に行くぞ」


 朝子はあまりの突拍子のなさに、反応が遅れた。何を考えているのか問いただそうとすると、後ろではしゃいでいるまどかと晴菜の声が聞こえてくる。

 そんな楽しげな二人を裏切って、行かないとは言えない。朝子は気を取り直して、まどかと向かい合う。


「まどかさん、体の調子はもういいの?」

 彼女はまるで樺桜のようなあでやかな微笑みで頷いた。

「夏バテのこと?もうすっかり元気よ。それに、あたしは海に入らないから、泳いだりはしないし。このまま海岸を散策するだけだから」


 朝子はそれが背中に刻まれた傷跡のせいだと察しがついたが、晴菜は「えー?」と大袈裟に声をあげる。


「まどかさん。それって、海に行くのにもったいない」

「いいのよ、晴ちゃん。あたしはそれで充分楽しいから」


「もったいない」と言い募る親友の気持ちは、朝子もわからないでもない。彼女の傷跡は何度か見たことがあるが、本人が気にするほど醜い痕でもないし、まどかの場合はそんなことを差し引いても、水着で浜辺に立っていたら大そう注目を浴びる気がした。


 けれど、彼女はきっとその視線の意味を、つねに傷跡と結びつけて考えてしまうのだろう。抜群の容姿を隠すのはもったいないが、たしかに傷跡を気にしてしまうまどかの乙女心も判るので、朝子は強引に海に入ろうとも言えない。

 兄も朝子と同じことを考えているのか、その件については沈黙を守っている。


「だけど、お兄ちゃん。私も晴菜も何も用意していないよ」

「現地で調達できるだろ。なんなら、寄り道してもかまわない。連れて行くんだから、それくらいの責任は負うけど」


 どうしてこの人はこんなに突拍子のない性格なのだろうか、と溜息をつく朝子の隣では風巳も嬉しそうに笑っていた。


「朝子と海に行くなんて、はじめてだね」

「う、うん」


 こんな笑顔を見せられたら、朝子も楽しまないわけにはいかないだろう。風巳が笑っていると、朝子も自然と楽しくなってくる。結局、彼が傍にいてくれれば、どんな誘いでも嬉しいのだ。朝子は自分でも単純だなと笑ってしまった。


 気持ちが盛り上がってきたところで、朝子ははたと透の存在に気付く。彼は呆然とした顔で、兄である晶を見つめていた。


「吉川君」

「え?……あ、ごめん。ぼーっとしてたよ。あれが、――結城の兄貴か」


 透の視線は真っ直ぐに晶を捕らえている。朝子は彼が兄から感じる色合いを想像して、不安になった。もしかすると、言葉を忘れるくらい、途轍もない恐ろしげな色合いだったのかもしれない。


「それで、あの人が奥さんだろ。この前に紹介してくれた」


 彼がまどかを示すので、朝子は頷いた。


「……なんか、結城の周りって、すげーのな」


 一人で感嘆している透に、朝子はもはや兄やまどかの色合いを聞く気にはなれなかった。透のような感覚を持たなくても、彼らが人並みはずれているのだろうという予想はついてしまう。


 朝子が透と話をしていると、まどかもそれがこの前の配達の青年だと気がついたらしい。近くにやって来て丁寧に礼を述べてから、彼の包帯を巻かれた頭を見て心配そうに様子をうかがっている。透は照れたように、包帯を撫でていた。


 朝子はふと学食を見渡して、こちらに好奇心の眼差しが集まっていることを意識する。途端に、ここに兄やまどかのような目立つ人達といることが恥ずかしくなる。完全に浮いているに違いない。

 居たたまれなくなって、朝子は兄達を追い立てるようにして学食の出口へ向かった。透が右手をあげて「楽しんで来いよ」と見送ってくれる。


「吉川君もバイト頑張ってね。無理しないで」

「おう」


 食堂を出てから、朝子はさっき聞いたばかりの透の呟きの意味を考えていた。彼女との喧嘩であれば良かったと言う彼の真意は、どんなに考えてもわからない。

 引っ掛かりを覚えながらも、朝子は兄達に誘われるまま、その場を後にした。

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