2:蜜月
何となく成り行きで、風巳は空になったコーヒーカップを片付けている。対面キッチンで流しを使っていると、いつもまどかの眺めている光景が想像できて、和やかな気持ちになった。二ヶ月ぶりに帰宅を果たした晶は、変わらずぐったりとソファに身を預けたままで、動く気配がない。
ぼんやりとテレビを眺めながら、国内の近況を仕入れているようにも見える。
あるいは久しぶりの自宅で、彼なりに寛いでいるのかもしれない。
風巳がキッチンから出ると、家の前に伸びる道を走ってくる車の音が響く。通り過ぎていくのだろうと聞き流していると、どうやら車は家のすぐ間近で止まったようだった。
風巳はすぐに庭先へと続く窓際へ寄るが、門扉の向こう側の様子はうかがえない。晶も興味をひかれたように、こちらを見ていた。
「……なんだろう、何かの配達かな。あ、ひょっとして晶の荷物とか?」
「多分、違うだろ」
二人で予想を立てていると、車の主は何の催促をすることもなく再び発進したようだ。
「なんだ、うちじゃなかったんだ」
吐息をついて、風巳は庭先から室内へ視線を戻す。そのままリビングのソファへ歩み寄ると、玄関先の方から賑やかな気配がした。
「あれ?朝子とまどかさんの声がする。二人で一緒に戻ってきたのかな」
風巳が出迎えようと廊下へ向かうと、扉の向こう側で小走りに駆けて来る足音がした。こちらから向かう前に、勢い良く扉が開かれる。
「おかえりなさい、まどかさん」
「あ、ただいま」
彼女は慌てたような素振りで、すぐにリビングで寛いでいる晶を見つけた。「やっぱり」と大きく息をつく。玄関先に並んでいた靴でわかったのか、邸宅内に漂う空気の変化を感じ取ったのか、まどかは戻ってくるなり彼の帰宅に気がついたようだ。
朝子も傍らで「やっと帰ってきた」と笑っている。
「おかえりなさい、晶。……連絡を入れてくれたら良かったのに」
「そうだな。俺もそうすれば良かったと思っていたところだよ。――とにかく、おいで。まどか」
「え?」
彼は照れもせず、まるで当たり前のように、立ち尽くすまどかに手を伸ばした。風巳ですら、この後の展開は予想がついたが、まどかは「どうしたの?」と心配そうな面持ちで傍らまで歩み寄ってしまう。
(ああ、まどかさん。そんな無防備に……)
晶は予想通り、簡単に彼女を抱き寄せて、しっかりと腕の中に捕えた。
「――っ。あ、晶」
さすがにまどかは風巳達の目が気になるらしく、頬を染めてじたばたしている。抱きあっている二人は相当に絵になるのだが、風巳には恥ずかしがっているまどかが年上とは思えないくらいに可愛らしい。
ふと妹である朝子はどんな思いで見ているのかと、風巳はちらりと隣を見る。
どうやらその状況が微笑ましく見えるのは同じらしい。見守っている朝子は、どこか嬉しそうな顔をしていた。
「晶。もう、本当に離して」
抗うまどかの力は弱々しい。晶は眼差しを伏せたまま、深く息をついた。この強引な抱擁も彼なりの疲労回復なのかもしれない。血統のもたらす因果を別にして、相手に触れる瞬間にもたらされる至福は風巳にもわかる。たしかに手っ取り早く、かつこれ以上はない位に満たされる方法だった。
彼は至福のひとときを取り戻してから、ようやくわずかに腕の力を抜いた。
精彩を取り戻した瞳で、戸惑うまどかを見る。
どこか悪戯めいた、見慣れた微笑みが浮かんだ。
「おまえは。ようやく会えたのに、その反応はないだろう」
「それは、――だから、時と場合によると思うの」
小さな声で訴えるまどかは、やはり微笑ましい。風巳がもう一度隣の朝子を見ると、なぜかうって変わって見慣れない不穏な顔をしている。
何かを案じるように、眉を潜めていた。風巳が声をかけようとすると、彼女は「お兄ちゃん」と呼びかけた。
ほぼ同時に、まどかと向かい合っている晶も何かに気付いたのか、口を開く。
「まどか」
風巳が晶と朝子を見比べていると、彼は真っ直ぐにまどかを見つめたまま続ける。
「もしかして、――おまえ、子どもが出来たとか?」
「ええっ?」
風巳は朝子と同時に声をあげた。まどかの反応を待たずに、朝子がものすごい勢いで二人の前へ飛び出した。
「本当に?まどかさんが最近おかしかったのも、そのせい?今日も青白い顔をしていたから、心配だったんだけど、おめでただったの?」
朝子の剣幕に圧倒されながら、まどかは慌てたように否定した。
「ち、違うわ。……だって、その、とにかく違うと思うの。ただの夏バテで、少し調子が悪いだけよ」
「本当に?まどかさん、本当に心当たりはないの?」
「……え、ええ」
蜜月のような夫婦を前に、心当たりも何もないと思うが、彼女がこれほどはっきりと否定するのなら違うのだろう。夫が二ヶ月も不在なら、本人には月の巡りで兆しがつかめるはずなのだ。朝子は「そっか」と、幾分肩を落としている。
「残念。だけど、まどかさんの赤ちゃんだったら、すっごく可愛いだろうな」
完璧に兄の存在をどこかへ置き去りにしたまま、朝子はうっとりと想像を巡らせているようだ。
「おいおい、朝子。お兄ちゃんのことは無視か」
「えー、だってお兄ちゃんに似ていたら、そりゃ見た目は麗しいかもしれないけど、性格がものすごくひねくれていそうだもん」
朝子の辛辣な言葉に、晶は深い溜息をついた。それから気を取り直したのか、もう一度傍らのまどかを見る。
「おまえ、本当に心当たりはないのか」
「ないわ」
まどかはきっぱりと答えるが、晶は「本当に?」ともう一度確認する。一部始終を眺めていた風巳も、どこか腑に落ちない。帰国してからの彼女の様子は、ずっと引っ掛かっていたのだ。
「まどかさん、最近ものすごくぼんやりしていたけどさ。何か気になることでもあるとか?」
風巳が話をふってみると、彼女は困ったように視線を伏せた。朝子は状況が把握できないのか、兄とまどかを交互に見つめる。
「お兄ちゃんが、愛人を作っていないかとか、浮気していないかとか。そういう心配?」
「違うの。ぼんやりしていたのは、本当に暑さのせいだと思うし。……ただ」
まどかは伏せていた眼差しをあげて、晶を見た。
「晶は、あたしに子どもができたら、本当に嬉しい?――本当に、喜んでくれる?」
彼女の抱えている憂慮の理由が、風巳の中に一瞬にして一つの筋道を作った。二人にとって、血統を乗り越えるということは、他人が考えるほど簡単なことではないのかもしれない。同じ一族に生まれても、風巳の血は消えてゆく定めの上にある。けれど、晶の作りかえられた血は、密やかに、永遠に続いていくのだ。
血統のもたらす作用。それが微弱な風巳ですら、発現の強い時期には強烈な嫌悪感があった。たとえ晶を苛む感覚が、まどかによって中和されるのだとしても、今までの嫌悪や苦痛は胸に刻まれているだろう。
二人の出会いよって、血に秘められた悪夢が止むのだとしても。
そんな未来が約束されていても。
不安が完全に払拭されるのはたやすくない。気持ちの整理は、また別の次元にあるのだ。
風巳は一族の確執を乗り越えた彼の強さを思う。彼ならば、きっと血統への恐れも乗り越えてくれるにちがいない。
晶はまるで不安を拭うような優しい仕草で、まどかの髪に触れた。
「もちろん嬉しいよ。おまえに俺の子どもができたら」
「本当に?本当に喜んでくれるの?」
「ああ」
彼が笑うと、まどかはしがみつくように腕を伸ばす。風巳も安堵して、思わず吐息がもれた。朝子には二人の抱えていた恐れが理解できないらしい。小さな声で、風巳に問いかける。
「まどかさんは、どうしてお兄ちゃんが喜ばないなんて考えちゃうのかな」
「うーん。まぁ、いろいろあるんだよ、きっと」
「風巳はそういう気持ち、わかるの」
「……なんとなく、だけど」
ひそひそと小声で朝子とやりとりしながら、風巳は結論が気になって、再びソファの二人を眺めた。
晶はしがみついてきたまどかを抱きとめて、慰めるようにぽんぽんと背中を叩く。
「おまえがそんなふうに思うのは、俺のせいだな。……だけど、今はもう何も恐れていない。おまえが、いつか言ってくれただろう。俺に家族を作ってあげたい、それができる自分が嬉しいってね。――あの時に、それも悪くないって思えた」
彼は迷わずに、思い描いた未来へ向かう。いつでもまどかの助けを力に変えて、乗り越えて、たどりつく。風巳には眩しいくらいに、美しい軌跡だった。
誰もが目指している境地。それが、ここにはあるように思う。
「それで……」
彼はからかうように、まどかに問いかけた。
「本当に心当たりはないのか」
彼女は少し彼から離れると、もう一度迷わずに頷く。
「それは本当にないと思うの。ただの夏バテに、余計なことを考えてぐるぐるしていただけよ。体がだるくて、はじめは自分でも、もしかしてと思ったけれど。でも、そう考えると、晶はそれでいいのかしらって。喜んでくれるかしらって、そんなことを考えて気持ちが暗くなっちゃったのね。だって、晶の子どもができるなんて、とても喜ばしいことなのに、それを不安に思う自分が哀しかったの。――結局、ただの夏バテだったけれど、ごめんなさい」
「残念だけど、謝ることじゃないだろ」
「……そうね。それに、残念だと思ってくれるのね」
まどかはわだかまりが晴れるように、嬉しそうに微笑んだ。
「だけど、あたしも早くあなたの子どもに出会ってみたい」
きっとまどかは素直で、何気なく言ったにちがいない。けれど、風巳はまどかがたまらなく気の毒になってしまう。晶を相手にここまで純真だと、それはもう狼の檻に放たれた羊のようなものだ。
「おまえ、それがどういう意味を含んでいるかわかっているのか」
晶は彼女の無防備さをからかうよりも、可笑しさが上回ったらしく低く笑っている。まどかはそれですぐに晶の意図にたどり着いたようだったが、珍しく反応が開き直っていた。
「もちろんわかっているわよ。子どもを作るには順序があるって言いたいんでしょ」
彼女は気合を入れるように、両手で軽く拳を作ると、意気込みを表明した。
「あたし、頑張るわ」
珍しい展開だと思ったのは朝子も同じようだ。すぐに強気に挑むまどかを、無邪気に加勢する。
「格好いい、まどかさん。お兄ちゃんが哭をあげるくらい頑張ってね」
「ええ。もちろんよ」
微笑ましいやりとりだが、風巳は晶の追撃を思って苦笑が浮かぶ。可愛らしく気合をいれるまどかに、晶は見事なくらい美しい微笑みを向けた。
「それはそれは。可愛い奥さんがやっとやる気を出してくれて嬉しいよ」
悪魔の微笑みを間近に見て、風巳は心の中で「うわー」と呟いてしまう。背筋にぞくりと悪寒を感じるくらいに、艶やかな笑い方だった。
「俺もタイミング良くしばらくはこっちにいることだし。思い切り頑張ってもらおうか、――そうだな、俺が哭をあげるまで」
既に失言だったと、まどかは彼に射抜かれたまま固まっている。返す言葉がないのだろう。彼女の後悔が、思い切り風巳にも伝わってきた。
晶の長い指先が、ゆっくりとまどかの頬に触れる。
「だけど、その前に夏バテを克服してもらわないとな。……そんな顔色のままで誘われても困るし」
大切なものに触れるように、彼はまどかの長い髪を指先で梳いた。言葉でどんなふうにからかってみても、彼の所作は優しい。慈しむというのは、こういう振る舞いなのかもしれない。風巳は隣に立っている朝子の上着の裾を、つんつんと引っ張った。
これ以上リビングにいても、再会した二人の邪魔をするだけだと思えたのだ。「出よう」と合図すると、朝子は頷いてからゆっくりと扉へ向かう。風巳も後に続いて、そっと部屋を出た。