3:邸宅の主
成り行きで結城邸の留守番を任された風巳は、これと言ってすることもなく新聞を手に取った。目を通していると、日本で起きた最近の事件に興味が沸いて、いつのまにか随分遡った日付まで熱心に読みふけってしまった。
目ぼしい事件を一通り追いかけてから、風巳は再び今日の新聞を見る。
ガサガサと捲っていると、音楽に関わる特集ページがあった。
「あ、間宮祥吾の記事が載ってる」
風巳は空港で見た光景を思い出して、記事に目を通した。
彼の音楽に対するコメントが、長く綴られている。どうやら一年ぶりに彼の新曲が発表されるらしい。その楽曲のお披露目を兼ねて、国内の著名な楽団の指揮者として各地を回ると書かれている。
興味をもって記事を読み進めていると、風巳はそれが一条司に招かれたコンサートであることに気付く。司の手紙には、一切間宮のことは書かれていなかったが、日程や楽団の名前を確かめる限り、間違いなさそうだった。
「じゃあ、彼の新曲も聴けるんだ」
改めて「すごい」と声に出しながら、風巳はふと玄関の物音に気付いた。
まどかは昼食の後、風巳に留守番を頼んで買い物に出掛けた。戻ってくるとしては早すぎるし、朝子からも親友と昼食を食べてから戻ると連絡があった。
時刻はもうすぐ二時に差し掛かかろうとしているが、朝子の帰宅と考えるには、幾分早すぎる気がする。
ちらりと、邸宅の主である晶が戻ってきたのかと考えたが、まどかが彼の帰宅を知らないはずはないだろう。全てが噛みあわず、風巳は廊下を渡ってくる足音に耳を澄ました。
リビングの扉が開かれるのを見守っていると、久しぶりに見る人影が現れる。
風巳は思わず目を丸くした。
「わ、晶。え? 今日戻ってくるって決まってたの?」
「まぁ、それなりには」
上着を脱いで吐息をつく彼に、風巳は改めて「おかえり、お疲れ様」と声をかけた。晶は向かいのソファに掛けて、ネクタイを引き抜く。
「ただいま。で、どうしておまえがここにいるわけ?」
「夏休みだから、里帰り」
「ここはおまえの里じゃないだろ」
突っ込みながら笑う彼は英国からの飛行に疲れたのか、いつもより精彩を欠いている。放り出された上着とネクタイを見て、風巳が疑問を口にした。
「えらくきっちりした格好で帰ってきたんだね」
「寸前まで、人と会っていたからな。今年の暮れには、大きな計画が始動するかもしれない。……けど、さすがに一息つかないと限界」
「いろいろと大変そうだね」
彼は風巳を見て意味ありげに笑ったが、それ以上は語らなかった。
「帰ってくるのは、二ヶ月ぶり?」
「そうだな」
答えてから、やはり彼は疲れているのか、深く息をつく。風巳は疲労している晶に戸惑うが、どうすればいいのか判らない。
「まどかさんは買い物に出てるけど。――晶が今日戻ってくるって、知らないの?」
「だいたいの日程は予告してあったけど、詳しく知らないだろうな」
「だろうね。戻ってくるなら、まどかさんは絶対に待ってるだろうし。……何か飲む?」
風巳がソファを立つと、彼は「コーヒー」と呟いた。
対面キッチンに立ってコーヒーを淹れながら、風巳はリビングのソファに埋もれるように体を預けている晶を見る。
疲れきっていても、彼の仕草は無様には見えない。久しぶりに見ると、その整った容姿はやはり鮮烈だった。こんな男を旦那に持つと、色々と心配になるのも無理はないかなと、風巳はまどかに同情してしまう。
「それにしても晶が二ヶ月不在で、さすがにまどかさんも寂しそうだったけど」
彼は興味を惹かれたように、ソファに掛けたまま風巳を振り返った。
「まどかが?」
「彼女の場合、寂しいとか言わないけどさ。でも、あきらかに変なんだよね」
「変って、どんなふうに?」
「うーん。気持ちが散漫になっているというか。ぼんやりしてるかな。暑さで食が細くなっているらしいから、単に夏バテの可能性もあるけど」
「――なるほど。でも二ヶ月会えなくて酷なのは、俺の方だけどね」
臆面もなく語る彼が、風巳にはどこか羨ましい。コーヒーを淹れたカップを片手にソファに戻ると、彼はますますぐったりしている。
「晶、大丈夫?」
「なんとかね」
「ひょっとして、まどかさんと同じで、夫婦揃って夏バテ?」
「いや。……とにかく、早く癒されたい」
風巳はようやく状況を把握した。彼は血統のもたらす不調を克服する術を与えられながら、未だにそれを受け入れていない。結果、全ての安定は、一人の女性からしか得られないのだ。最愛の伴侶である、まどかから。彼女だけから与えられる。
「そんなに多忙なんだから、いい加減、博士が考案した改良版の血清を使ってみたら?」
「……そのうちね」
「晶って、実はマゾなんじゃないの?」
彼は受け取ったコーヒーを口に含んで、皮肉っぽく笑う。
「そういうのも、悪くないだろ」
「……勝手にすれば」
風巳は半ば呆れて、大袈裟に吐息をついて見せた。
彼を相手にこれからの覚悟を語るのは、一筋縄ではいかないのかもしれない。
それでも、彼は朝子にとってかけがえのない、ただ一人の兄。
風巳がいずれ、きちんと想いを語らなければならない相手だ。
その時、彼がどんな反応をするのかは、予想もつかない。
一抹の不安を抱えながら、風巳はもう一度はぁっと溜息をついた。