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2:不安の在処(ありか)

 朝子あさこは再び、親友の晴菜はるなと待ち合わせて大学を訪れていた。風巳かざみが戻ってきてから、既に二日が経っている。大学の前期試験の日程はようやく半分を消化したところで、構内は変わらず多くの学生が行き来している。


 二人は一階の事務所に課題を提出してから、まるで当たり前のように図書館を訪れていた。課題の提出物で片のつく科目は、残すところ一つだけである。

 これからの日程には、一般教養をはじめとした筆記試験が控えている。おかげで明日からは連日のように、大学まで登校しなければならない。


「明日は一般教養の考古学と、晴菜はドイツ語だよね」

「そう。朝子は英語?考古学はノートの持ち込みオッケーだから、楽勝だし。やっぱ面倒なのは、最終日に提出の論文だよ。原稿用紙十枚分を埋めるネタを探さなきゃね」


 親友の台詞に大きく頷きながら、朝子は既に見慣れた書架の間をさまよう。目ぼしい書籍を手にとっては目を通し、期待はずれの文献は元に戻す。


「それにしてもさ、せっかく吹藤ふとう君が戻ってきてるんだから、連れて来たら良かったのに」


 分厚い本を片手に、晴菜が何気なく朝子を見る。朝子は文献に視線を向けたまま、館内の静寂を守るように、声を潜めて答えた。


「誘ってみたんだけど、私達の気が散るからやめとくって」

「そんなの、前みたいにひっそりと傍らにいるだけなら平気なのに」

「うん。だけど、前に来たときに、部外者が出入りしてるって目で見られたみたい。だから気がひけるんだって」

「部外者って、誰に?何千人もいる学生を、克明に記憶してる人間がいるの?」


 朝子が親友を見ると、腑に落ちないという顔をしている。他の学部や学科にも知り合いのいる晴菜は、友好関係が広い。そんな彼女でも知らない学生の方が多いのだから、不思議に感じるのも無理はない。朝子も「さぁ」と首を傾げる。


「通りすがりに、風巳を珍しそうに眺めて行く人がたくさんいたって聞いたよ」

「ああ、なるほどね」


 晴菜はそれで納得したようだ。朝子には経緯がよめない。


「なるほどって?」

「それは吹藤君が単に目立っていたって話だよ。――まぁ、たしかに彼が在学生だったら、名前が知れ渡るくらいの存在感はあるかも。高校の時もそうだったし。ただ、本人は全く自覚がないけどね」


 朝子は咄嗟に風巳を思い描くが、晴菜が語るほどには思えない。そんな朝子の胸中を見抜いたのか、晴菜は吐息をついた。


「朝子はあきさんを見て育ったから、感覚が麻痺してるよ。私は昨日も大学に来たけど、友達に会うたびに思いきり吹藤君のこと聞かれたもん」


 朝子は大学で親しくしている友人を思い出す。互いに彼氏がいたりすると、携帯の小さな画面で見せ合って、時には不満を語ったり、時には惚気たりしている。


「風巳がここに来てるのが、不思議だったから?」

 晴菜は肩を竦めて、ただ横に首を振った。

「朝子のそういう鈍さ、私は好きだよ」

「え?何それ、どういう意味?」


 思わず声を高くすると、晴菜が「声が大きいよ、朝子」と口元に人差し指を立てた。


「あ、ごめん」

「うん。……朝子は誰に対しても、きちんと中身を見てるんだよね」

「え?」


 晴菜は意味を解説せずに、悪戯っぽく笑う。


「だから、晶さんの見た目に惑わされず辛辣な妹でいられるんだろうなって。吹藤君は本当に真っ直ぐで天真爛漫だから。あれが朝子のタイプなんだろうね」

「それって、どういう話のつながり方なの?」


 朝子の問いかけにただ可笑しそうに笑いながら、晴菜は書架の間を歩き出した。いつの間にか、手には三冊の書籍を抱えている。


「とりあえず論文のネタは見つけたから、フランス語関連の本棚に行ってくる」

「あ、うん。じゃあ、資料が揃ったら一階の端の席に行ってるね」

「わかった」


 晴菜は迷いのない足取りで、書架を抜けて階段を上がっていった。朝子はしばらく論文の参考になる文献を漁り、それなりに資料が揃うと一階へおりた。

 晴菜と約束した端の席について、朝子は抱えてきた本をどさりと机に乗せる。


「これを全部持って帰るのは、しんどいかな」


 朝子は出入り口付近に置かれているコピー機に目を向ける。五台並んでいる機械は、向こう側の二台が空いていた。選んだ五冊の資料には、必要な箇所だけをコピーすれば事足りるものもある。朝子は二冊だけ手にして、鞄から財布を抜き取ると、後の荷物は置いたままで席を立った。


 図書館の出入り口に続くフロアは、学生達の会話で静寂が破られている。壁側にあるコピー機の反対側で、試験について語り合う学生が小さな輪を作っていた。

 この一角だけが、館内ではいつでも喧騒に満ちている。司書も多めに見ているのか、そのフロアでの会話を注意することはない。


 朝子がコピーを始めると、ふいにトンと肩を叩かれた。晴菜が下りて来たのかと振り返ると、視界に飛び込んできたのは、いかつい金髪と日焼けした肌。


吉川よしかわ君」

「よぉ、結城ゆうき。また資料漁りか?」


 相変わらず愛嬌のある笑みを浮かべて、吉川透よしかわ とおるが館内を見回す。


「相棒の室沢は?一緒じゃないの」

「晴菜は明日フランス語の試験だから、そっち関係の本棚を回ってるみたい」

「あいつ、フランス語なんか選択してるのか」

 「信じられない」と呟きながら、彼は何かを探しているように館内に目を向けている。

「誰かと待ち合わせしてるの?」

 思わず朝子が問いかけると、彼の視線がこちらに戻ってきた。


「いや、そうじゃなくて」

 ためらった後で、透は頭をかきながら答えた。

「えーと、結城の彼氏は一緒じゃないのかなと思って……」

「え、風巳?一緒じゃないよ。在校生じゃないし。本人も気がひけるんだって」

 なぜか一瞬きょとんとしてから、透がぽんと手を打つ。

「ああ、わかる気がする。学生に紛れてても、彼氏の場合ちょっと目立つかもね」

「そうかな。……ところで、吉川君に聞きたかったんだけど、どんな色だった?」

「ん?結城の彼氏?」


 朝子が頷くと、透は不敵な笑みを浮かべた。


「やっぱり彼氏のことには興味がわくんだな」

「そ、それは、それなりに気になるよ」

 不覚にも朝子は顔が赤くなってしまう。透はまた優しい眼差しをして、声をたてて笑った。

「なんかいいな、そういう反応」

「人のことをオモチャみたいに」

「違うよ。素直に可愛いなって意味だったのに」

 あっさりとそんなことを言われて、朝子はますます恥ずかしくなる。両手で頬を押さえていると、ようやく透が教えてくれる。


「結城の彼氏は、太陽の色かな」

「え?」

「黄金色」


 黄金色こがねいろ。それは、太陽の輝き。

 出会ったときから、朝子が感じていた彼の雰囲気にぴったりと当てはまる色彩。

 色彩というよりも、光。

 再会するたびに彼のことを眩しく感じるのは、それ故だろうか。


「黄金色か。それなら、きっと暗さも翳りもないんだね」

「――それは、どうかな。そういうことと、取り巻く色はまた別だから」

「へぇ、そうなんだ」

 透はどう説明していいのか判らないようで、ただ曖昧に頷いた。


「じゃあ、風巳もただ明るく光っているだけの色じゃないんだ」

「多分ね。悩んだり、笑ったりするのと一緒じゃないかな」

 彼はどこか遠くを見るような目で続ける。

「どんなに綺麗な色でも、哀しいと感じることもあるし、暗いと感じることもあるから」

 どこか切ない呟きだった。


 朝子はふと、先日、透が語った大切な彼女の色彩を思い出した。


―――例えば俺の彼女の色は、暗くてとても切ない色合いをしているし。


 あの時の透の表情が、心なしか哀しげだったのは、気のせいだろうか。


―――だけど、綺麗なんだ。


 ここにはいない、彼女への想いが垣間見える言葉。

 透の目に映る、一様ではない色合い。

 それは人の心が移ろうようなものなのだろうか。


「吉川君の彼女も綺麗な色合いなんだよね」

「うん。綺麗で切ないよ」

「切ないって、……どうしてだろうね」

 何気なく聞いただけなのに、透は目を伏せて深く息をついた。

「理由は判っているんだ。だから、俺は彼女に償いをしなきゃいけない」

「じゃあ、それは吉川君のせいってこと?」

「そうなるのかな。……彼女と出会ったのも、色んなことを償って、わだかまりを少しでも拭いたかったからだし」


 彼の言葉が、何かに触れる。なぜか朝子は動悸がした。

 響く鼓動とは裏腹に、胸はつかまれたように苦しい。

 錘のように何かが詰まって、底に沈んでいた闇が浮かび上がってくる。

 不安の在処ありかが、明らかになってしまう。

 透の語る関係は、どこか自分達の境遇と似ている部分がある。


 罪の意識を拭うために、誰かを想う。

 朝子が抱える不安は、全てがそこに根ざしているのかもしれない。

 風巳が抱えているのだろう、罪の意識。

 彼の生まれた一族は、たしかに朝子から多くの物を奪った。

 彼が惜しみなく自分に向けてくれる想い。それが呵責に縛られて生まれ出た錯覚ではないと、言い切れるのだろうか。

 そんな巡り会わせがなくても、彼は自分に想いを向けてくれただろうか。

 俯いた朝子の様子をどう受け取ったのか、透がおどけたように、明るい声で続けた。


「それがさ、こんなに心を奪われるなんて。今となっては、全部が彼女と出会うためのきっかけだったのかなと思える。自分でもびっくりだよ」

 彼の迷いのない告白が、少しだけ朝子のわだかまりを拭ってくれた。


「吉川君、思いきりのろけてるよ」

「……大目に見てくれよ、結城」

 自分の告白が恥ずかしくなったのか、透はまた頭をかいた。

 朝子は声をたてて笑う。

「夏休みには、彼女と会ったりするの?」

 自身の中にある闇を退けるように、朝子はわざと明るく振る舞う。透はいつも通りの、屈託のない笑顔を見せた。


「おう、もちろん夏休みは会うよ。ちょうどさ、彼女がこっちにいる間に市営のホールにオーケストラが来るとかで、一緒に観にいったりする予定。俺の彼女、音楽を齧っているから、そういうのに興味があるんだ」


 朝子はすぐに、一昨日送られてきた招待券を思い出した。


「それって、プラチナホールのこと?」

「あ、それ。そうそう、結城は知ってるんだ」

「知っているって言うか、私も彼氏と観にいくよ」

「え、マジで。……すごい偶然だな」


 二人で楽団について盛り上がっていると、ようやく晴菜が同じように本を抱えてやって来た。彼女も文献をコピーしながら、会話に参加する。三人でひとしきり雑談をしてから、透はまたしてもバイトの時間だと慌てて立ち去った。

 時刻はいつのまにか正午を回り、朝子が晴菜と図書館を出る頃には、館内に一時を知らせる音が響いていた。

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