其の拾
時は少し遡り。
ルイーズ達一行が、遠征から帰還した翌日の事である。
この日、王城の一室で密談が行われていた。
顔ぶれは、言わずと知れた『氷の宰相』ことアベル・ハウンド、『賢王』フレデリック・ヨークシャー、『捕らわれの吸血姫』ことイルミラ、『元主は嫁、現主は王太子』ことルフィーノという面々だ。
ふかふかのソファに腰かけ、茶を啜った賢王フレデリックは、魔眼を無効化する指輪型魔道具とイルミラの瞳を見遣りつつ、口を開いた。
「噂によると、おぬし達が探しているという双子は、『ホエール連邦国』の北東にある小さな漁村『アルガ村』に流れ着いているそうだが、如何する? 」
「陛下! その様な極秘情報をサラリと暴露してどうなさるのです。物事には駆け引きというものが御座いましょう。まずは、我々と敵対する意思の有無を確認し、『息子の命が惜しければ、我々と協力して双子捜索に加わるんだな』くらい仰って下さい」
「……アベルよ。何故その様な極悪非道な物言いをするんだ? 」
「陛下? 目の前にある小冊子、我々が生涯言わぬであろう『台詞一覧集』に目を通していらっしゃらないのですか? これは、愛娘ルイーズが徹夜で完成させてくれた読み物なんですよっ」
アベル・ハウンド侯爵の目が見開く。その瞳は驚愕に彩られていた。
同時に、手に持つ『台詞一覧集』をパラパラッと捲り、この展開に最適な台詞を探す。
「おっ! これがいい。こほん、『お前の物は俺のもの。俺の物は俺のものだ』━━この場合、生かすも殺すも私の一存でどうにでもなる。ならば、抵抗などせず、協力するんだなって事になりますね」
侯爵の台詞に触発され、フレデリック、イルミラ、ルフィーノはテーブルに置かれた小冊子を開き、軽く目を通し始めた。
そして、これだと思う台詞に目星をつけたフレデリックが口を開く。
「…………では、我からいこう。『事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ』━━この台詞は、会議であれこれ論ずるより、現地に赴き、対策を取れというものだな」
「次は私ですね」といいイルミラが手を挙げた。
「……『信じて下さいよぉ、旦那。私は、心を入れ替えたんだ』━━これは、かつては悪の染まっていた人間が改心した時の台詞の様です。敵対するも何も、私はすでに捕らわれておりますし。リーヌスの健康上、この地で過ごす事が最適だと判断しておりますので、協力は惜しみません。それに……」
そう呟き、イルミラはルフィーノを見つめてこう続けた。
「ルフィーノが殿下に忠誠を誓っておりますので、妻である私が、それに異を唱える事も、裏切る事もございません」
妻という言葉を聞き、頬を赤らめたルフィーノは、コホンと咳ばらいをした後、オタオタと小冊子に目を落とした。
「さ、最後は、わ、私が申し上げます。では、『前の馬車を追ってくれ』…………こっ、これはっ、追跡中に発する台詞っ?! も、もも、申し訳ございませんっ」
動揺するあまり、ただ単に目に留まった台詞を読み上げてしまうルフィーノ。
その様子を見て、アベルはふわりと微笑んだ。
「いや、急がなくとも、構わない。愛娘ルイーズが作ってくれた小冊子ゆえ、じーーっくり! と読み、最適だと思いものを読み上げてくれればよい」
「こ、侯爵様、お心遣い感謝いたします。━━あ、最適な物が見つかりましたので、申し上げます。『いい知らせと悪い知らせがある』━━この台詞を解説いたしますと、いい知らせの方は、協力は致します。ですが、悪い知らせの方は、イルミラも私も満足に料理が出来ません。私達、2人だけでしたら、適当に摘んだ果実や干し肉などの保存食で事足りるのですが。同行なされるのは、侯爵様でございますよね? その侯爵様に満足いただける食事をとなると……専属の料理人を手配して頂くのが最善かと存じます」
ルフィーノはエルフといえど、肉なども食べる。
だが、猟で獲った獲物を焼いただけのシンプルな物をたまに食べるだけであった。
基本的な食事といえば、摘んだ木の実や果実をそのままをつまむ程度。
そんな粗食に慣れたエルフが、ヨークシャー王国で出される美食の数々を作り出せる訳もなく。
専属の料理人を同行させる以外、手立てがないのだ。
ちなみに、過去のイルミラに至っては、血を啜るか、生肉を齧るかの二択であった。
この2人が何人集まろうが、どうしようもないのだ。
「ふむ……食事に関しては気にせずとも良い。愛娘に懇願し、手配してもらうからな」
「アベル。おぬし、ルイーズ嬢に訳を申すのか? 」
「はい、陛下。訳を申さねば、私の分だけでなく、同行する2人の食事を用意してくれる訳がありませんでしょう」
「いや、しかし。訳を知ってしまえば、同行すると言い出すのではないか? 」
「きっと、同行すると言い出すでしょう。それが何か? 」
コテンと首を傾げそう問い返すアベル。
子供や女性なら、この仕草も愛らしいものだが、三十路の男性がして良いものではない。
言わずもがな、イラッとしたフレデリックは眉間に皺をよせて、反論した。
「学業を疎かにする訳にもいくまい。2~3日ならともかく、ホエール連邦国まで赴き、捜索するとなると半月は優に掛かろう。その間の学業の遅れを取り戻すのに、幾日掛かるか……ん? というかルイーズ嬢に学園での学問は必要なのか? 」
ふと、疑問に感じた事をフレデリックはアベルに問うてみた。
その問いに、アベルは組んでいた腕を膝に置き直し、神妙な面持ちでこう答えた。
「全くもって、必要はありません。我が子ルイーズが学園に通っているのは、友達作りの為だけです」
「ん、まぁ、そうであろうなとは薄々感じてはいたが、清々しいまでに断言されると何も言えぬな……して、そういう事なら、同行を許可しても良いのか? 」
「いいえ、陛下。すぐに許可を出せば、友人達も連れて行けと言い出すでしょう。ですから、一旦は突っ撥ねます。とても、とても心が痛みますが、涙を呑み、こう告げるのです。『長期間、学業を疎かにすると長期休みの折に、講習を受けねばならなくなるんだぞ』とね。それだけ告げれば、聡いルイーズの事です。後は、こちらの思惑通りに動いてくれるでしょう」
一人納得し、一人で頷くアベル。
アベルの言う思惑に心当たりのないフレデリックは、コテンと首を傾げこう問い返した。
「アベルよ。おぬしの思惑とはなんだ? 」
何度も言うがこの仕草は三十路の男がして良いものではない。
案の定、イラっとしたアベルは、怒鳴りそうになった。
しかし、相手は我が国の王。
不敬罪うんちゃらと言い出したら面倒くさい。
アベルは、ふぅ~と深呼吸をして、心を落ち着かせた。
そして、気付いた。
先ほど、自分も同じ仕草をしていた事に……。
「陛下……先ほどは、お見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ございません」
「うん? なにゆえ謝るのだ? 」
「人の振り見て、我が振り直せと先人は申しました。正確には、愛娘より聞いた『ことわざ』なるものですが……ことわざの説明は、長くなるので省略いたします。されど、思惑についてはご説明いたしましょう。まず、私の言葉を聞いたルイーズは、日程が半月も掛かるという点に着目するでしょう。次に仲間を連れて行くか否かを模索します━━」
説明途中にもかかわらず、ピンときたフレデリックは、嬉しそうに立ち上がって叫んだ。
「そうかっ! ルイーズ嬢なら『ホエール連邦国』まで、一瞬で行き来できる魔道具を開発しようとするな! さすれば、私も行けるではないか! 」
「いえ、陛下は来ないで下さい。迷惑です。それに、これ以上執務が溜まると、本当に何処へにも行けなくなりますよ」
「ぐっ! ぐぬぬ……」
「悔しがるのは後にしてください。陛下には、開発に必要な一番大きな無属性魔石を魔法省から、融通してきて欲しいのです」
「一番大きなものだな? 」
「はい、お願いします」
「了解した! 」
そう言って、部屋を出て行こうとするフレデリックに。
「お待ちください! 」
と、アベルは引き留め捕獲した。
嬉し恥ずかしお姫様抱っこでである。
「あ、アベル。これは、いくら何でも、恥ずかしい………」
頬を赤らめるフレデリックを一瞥し、アベルは小さく溜息を吐いた。
「まだ、話し合いは終わっておりません。大人しくお座り下さい」
「むぅ……仕方ないの」
「何が、仕方ないのですか。ちなみに、今しがた陛下を抱えてしまったのは、事故で御座いますよ」
「なぬ? 事故なのか? 」
「当たり前でございましょう。腕を掴んだ拍子に陛下が体勢を崩された。咄嗟にお支えしたら、ああいう格好になってしまった。それだけでございます! 私とて、陛下に『お姫様抱っこ』というものをする趣味は御座いません」
「お姫様抱っこ? 」
「おや、お姫様抱っこについてお知りになりたいようですね。宜しいでしょう。お説明いたします━━」
お姫様抱っことは━━男性が女性を横抱きする時に用いる名称である。
まず第一に、男性はお姫様抱っこを行う際、女性に気を使わしてはならない。
呼吸を乱さず、爽やかな笑顔で行うべし。
これは、女性の体重が如何なる場合でもである。
第二に、時と場所を考察するべし。
女性が疲れた、足を傷めたなどの折は、最高のシチュエーションとなる。
この機会を見逃す者に、恋の女神は微笑まない。
足場が悪ければ、お姫様抱っこ。泥濘があればお姫様抱っこ。
お目当ての女性の心を射止めたいのであれば、この事を念頭に置くべし。
ちなみに、爽やかにお姫様抱っこを行うには、背筋、上腕二頭筋、大腿二頭筋を鍛える事が重要となる。
愛娘から聞いたそのままを、アベルはフレデリックに話し聞かせた。
「ふむ、『お姫様抱っこ』というものそういう折に行うものなのだな? 」
「そうです。愛娘がそう言っておりましたので、間違いないでしょう」
「そうか……そうか……うむ、了解した。お姫様抱っこの効き目は、我が后ブリジットで試すとして……で、話し合いの続きとはなんだ? 」
何やら、1人呟いた後、話を戻すフレデリック。
「イルミラの子、リーヌスについてでございます」
「リーヌスか……何があるか分からぬゆえ、同行させるのは拙いな。其方達はどうしたい? 」
フレデリックはイルミラとルフィーノに視線を向け、訊ねた。
イルミラは、暫し目線を上げ思考に耽る。
この地に辿り着いたばかりの時は、小さな赤子だったリーヌス。
しかし、何がどうなっているのか、スクスク成長し、今は年齢に見合う大きさとなった。
赤子でないのなら、同行しても問題ないのではないかと、結論付けそうになったが、頭を振り考え直す。
万が一の事がある。
双子と同行している者が、こちらを攻撃してこないとも限らないのだ。
遊びたい盛りのリーヌスをずっと抱きかかえたまま移動し、守る事はイルミラにとってもリーヌスにとっても、最善とは言えない。
「……安心して預けられる人が見つかりましたら、置いていこうかと思います」
「そうよの……最近、暇を持て余しているレイナルドの侍女に預けるか」
フレデリックの言葉にルフィーノが興奮して立ち上がった。
「殿下の侍女でございますか?! 」
「何を興奮しているの? ルフィーノ落ち着いて! 」
「いえ、これが落ち着いてなど居られますか! 神々しくも、素晴らしい為人をされていらっしゃる殿下を陰ながらお支えする侍女に、我が子となったリーヌスを預けるのですよ。我が子となったリーヌスに、殿下の様に凛々しくもありながら、神々しく、人を思いやれる素晴らしい人物となる機会が巡って来たのです。これが喜ばずにいられましょうか……」
我が子レイナルドに対する賛辞なのは確かなのだが、よく分からない言い回しをされ、戸惑うフレデリックを余所に、イルミラは感動の声をあげた。
「そうなの? リーヌスは素晴らしい人物となる機会を得たの? 」
「ええ、その通りです。イルミラ、私達は幸せ者ですね」
「ええ」
手を取り合い、見つめ合う2人。
その様子を横目にフレデリックとアベルは、肘で突き合う。
互いがこの2人の世界を何とかしてほしいと願い、押し付け合っているだけなのだが。
両者、一歩も譲らない。
それどころか、悪化の一途を辿っている。
静寂に包まれていたはずの室内は、今や小さな戦場。
小さな打撃音だけが鳴り響く修羅場と化したのである。
……手に汗握る白熱した戦いの末、勝利を得たのはアベル。
良い仕事をしたと言わんばかりに、爽やかな笑顔を振りまきつつ汗を拭っている。
押し負けたフレデリックは、苦々しい表情を浮かべつつも、敗者の務め。
この空気を払拭すべく口を開いた。
「っ、うぅ…………次は負けぬからの…………コホン。良いか? イルミラとルフィーノよ」
「はい。なんでも仰って下さい」
煌めく様な視線を受け、一瞬怯んだフレデリックだったが、視線を逸らしこう続ける。
「レイナルドの侍女ナディアだが……一癖も二癖もあるが良いか? 」
確かにナディアは、癖が強い。
基本、ナディアは陰に潜んでいる。
そして、隙を見つけては様々な攻撃を仕掛けてくる。
時には、椅子が降ってきたり。
時には、食べようとした菓子が忽然と消えたり。
時には、顔に薄化粧を施されていたり………と。
されど、攻撃を仕掛けてはくるものの、決して怪我はさせない。
レイナルドが怪我をしそうになったら、徹底して身を守ってくれるのだ。
ゆえに、解雇できない。
レイナルドが心を傷つけられたと訴え出て来ても、我が子を守ってくれるナディアをフレデリックは解雇できないのである。
「その一癖や二癖によって、リーヌスはどのような子になるのですか? 」
「ん、そうだの……強い子にはなるな……」
心も体もなとは言わず、フレデリックは言葉を濁して場を凌いだ。
「強い子……では、お願いいたします。我が子を侍女の方に託します」
イルミラは、未来を見据えてリーヌスを託すことに決めた。
魔族が、裏切者であるイルミラを狙い、この地にやって来る可能性がある以上。
リーヌスにも強くなってもらう必要があると考えたのだ。
万が一の時の為に。
「うむ、了解した。ならば、リーヌスはナディアに任せよう。後はルイーズ嬢に食料を頼み、早々に出立してくれ」
「「「はっ! 承知いたしました」」」
アベル、イルミラ、ルフィーノの3人は、フレデリックに礼を執り、退出する。
そして、それぞれは早足で歩きだした。
イルミラとルフィーノは荷造りの為、与えられた客室へ。
アベルは、食料調達の為、愛娘の元へと。
◇ ◇ ◇
次の日。厳重に管理された王城の一室より、宝珠を使い『サクラ公国』まで転移したアベル、イルミラ、ルフィーノの3人は、現当主サクラと屋敷の庭で談笑をしていた。
「結局、ルイーズはサクラ公国に来ぬのか? 」
「サクラ公国に立ち寄るかどうかは不明ですが、私達を追って来るは確かでしょう」
「左様か……少し、寂しいが我慢するかの」
当主の寂しそうな表情を見たアベルは、元気付けようとある約束を口にした。
「もし、私達を追って来たのなら、帰りは共に立ち寄らせていただきます。手配して頂いた馬車もお返しせねばなりませんしね」
すると、当主は顔を綻ばせて、アベルの手を掴んだ。
「そうか! 連れて来てくれるのじゃな! 約束じゃぞ! 」
幼子の様に手をブンブン振りながら、歓喜する当主に。
「はい。必ず」
と告げ、アベルは微笑み返した。
「それでじゃ。一つ相談なのじゃが、ナギを連れて行ってくれぬかのぅ」
「ナギをですか? それは構いませんが、ナギは当主様の護衛では? 」
「正式な護衛という訳ではない。ただ、わしを守ろうと傍に付き従っているだけなのじゃ」
当主を守る者は、隠密部隊へ入隊しなければならない。
だが、ナギは正式に任命された隊員ではない。
ただ単に、ナギ自身が初めて心を開いた人間━━それが現当主ゆえ、そばを離れず付き従っているだけなのだ。
「冒険者としての活動もしていると聞いておりますが、その時はどうしているのです? 」
「ナギは日帰りで完遂できる依頼しか受けぬ」
「…………そろそろ、親離れをして欲しいという訳ですか」
「まぁ、親離れをして欲しいというよりはのぅ、もっと若者らしく人生を楽しんで欲しいと願っておるのじゃよ」
ナギの世界は、とても狭い。遠出したとしても、数時間で戻ってこれる場所へしか赴かない。
後は、当主の世話を焼くか、隠密部隊の者と庭で鍛錬しているかのどちらかなのだ。
「承知いたしました。ですが、ナギに話は通してあるのですか? 」
アベルがいくら誘おうが、きっとナギは首を縦に振らないだろう。
それ以前に話を聞いてくれる可能性の方が低い。
ナギが素直に耳を傾ける相手は、現当主か、愛娘ルイーズの2人だけなのだ。
「それは大丈夫じゃ。今朝、おぬし達が来る前に話をしたからの。ほれ、ナギ。こっちに来るんじゃ」
当主の呼びかけに答えて、ナギが屋敷から出て来た。
何処か不貞腐れた顔をしているものの、愛娘から受け取ったアイテムバッグを下げ、武器を装備しているので、行く気はあるのだろうと、アベルは受け取った。
「ほれ、ナギ。挨拶をせぬか」
「侯爵様と誰? 」
アベルと当主の会話に口を挿めず、ジッと傍に立っていたルフィーノとイルミラがナギの問い掛けに答えるべく、口を開いた。
「初めまして。私はエルフ族で名は『ルフィーノ』と申します。こちらは、私の妻━━」
「初めまして。妻の『イルミラ』でございます」
「ふ~ん……イルミラさん? 瘴気が凄いね。魔族? 」
ナギの冷たい視線がイルミラを射貫く。
その視線から、庇う様に前に躍り出たルフィーノ。
しかし、イルミラは震えながらもナギに尋ねた。
「え、ええ。一目見ただけでわかるの? 」
誰もが、看破してしまうのであれば、様々な危険性を考慮しなければならない。
そう考えての質問だったのだが、ナギはすでに興味を失い、投げやりに答えた。
「わかるよ。それだけ瘴気を纏っていたらね。まぁ、いいや。悪い事はしなさそうだし」
「待って! 瘴気を纏っているって、誰にでもわかるものなの? 」
「う~ん。おばあさんは分かっていたと思うけど……他の人はどうだろう?! 」
ナギが当主に視線を向け、首を傾げた。
「そうじゃのぅ。わし以外に、ナギとルイーズ……」
「いや、ルイーズは気が付かないと思うよ。人の気配に鈍感だし」
「そうなのか? 」
「うんうん。最近、やっと殺気を感じられるようになったみたいだしね。強いのに、いや、強いからかな? 気配を感じられなくても、攻撃するとごく自然に躱すんだよね」
愛娘の事を悪しきように言っている訳ではないものの、何やら腑に落ちないアベルは、眉間に皺を寄せている。
イルミラは、魔族であることを看破できる人間が、この2人だけであるのなら、一先ずは安心だと胸を撫で下ろした。
ルフィーノは、ナギがイルミラに向けた視線が気になったものの、悪意がない事を知って傍観している。
「まぁ、安心せい。悪さをしないのであれば、なんの危険もないからの」
ナギが頷く。
当主は脅しで言った訳ではない。
悪さを始め、瘴気が暴走するのであれば。
ナギの中に潜む者がそれを喰らいに出てくるだろう。
それを警戒しての助言なのだ。
「ご安心ください。悪さなど微塵も考えておりませんので」
そう断言するイルミラの瞳は、力強く。そして真剣であった。
「そう。じゃあ、出発しようか。行ってくるね、おばあさん」
イルミラに素っ気なく返答した後、そそくさと馬車に乗りこんだナギは、満面の笑みを浮かべ当主に別れの挨拶をした。
「おお、気を付けて行って来るのじゃぞ。侯爵よ、ナギをよろしく頼むの」
「はい。お任せください。では、行って参ります」
別れを告げたアベルが御者台に座ると、イルミラとルフィーノも当主に頭を下げ、後方に乗りこんだ。
いよいよ出発である。
馬車がアベルの魔法で、空に浮かぶ。
その傍らで、ナギが楽しそうに声を出して笑っている。
空を見上げ、その様子を見た当主が、手を振り、大きな声を張り上げて言った。
「皆、気を付けて行って来るのじゃぞーーーー! 」
・
・
・
当主に見送られ、サクラ公国を出発した一行。
若干、人見知りなナギは、後方には行かず、アベルの横━━御者台に並んで座っていた。
「侯爵様、ルイーズはいつ頃合流するの? 」
「私の計算によれば、3日。遅くとも4日あれば、合流すると踏んでいる」
「そうかぁ。それまで退屈だし、剣術の稽古つけてよ」
「うむ、いいぞ」
ナギはアベルに対し、余所余所しい態度をとっていた。
それは5年前の出来事が切っ掛けではあるものの、改善しないまま今日に至るまで続いていた。
それがどうだろう。
ナギが甘えとも取れる発言をしてきたのだ。
胸に温かいものを感じたアベルは、ナギを微笑み見つめる。
そして、ナギの頭をわしゃわしゃと撫で、小さくこう呟いた。
「ルイーズはやらんぞ」
と……。
その呟きがナギに届いたか否かは、確かめようがない。
だが、御者台に座る2人は、仲良くひざ掛けを共有して、空の旅を楽しんでいるのは確かであった。