温帯低気圧
転生する前、現役航海士時代の頃、航平は気象図を見て温帯性低気圧があると思わずニヤリと笑った。
温帯性低気圧の南側、温暖前線と寒冷前線の間の空間は西風が吹きやすく、帆船で西から東へ向かうのに絶好の位置だ。
この位置で最高の風の元、帆船を航行させたい。
航平はいつも天気図を見て思っていた。この位置なら最高の風を受けつつ航行できる。
あっという間に西から東へ、最高の速力で帆船を飛ばすことが出来る。
転生してからその機会を待ち望んでいたが、それが今大規模船団で実現出来る。
ただ残念なことに二一世紀のような気象図や作成データとなる気象観測網は現在のアルビオンにはない。
そのため、空模様を推測して低気圧のどの位置にいるかを把握するしか無い。
幸いにも巻雲を発見し、東南東へ向かうように命じることが出来た。巻雲は温暖前線の先触れであり、海面の寒気と上空の暖気が接触したとき出来る雲で、前線接近の証だ。
あとは船団を最適位置――温帯性低気圧の中心より南側へ連れて行く事だ。
北側だと逆に東風が吹き逆風となるので中心より南側に位置しないとダメだ。
出来ればずっと南側に行きたいがそれでは風が弱すぎる。
近代的な気象観測装置は無いが、雲の様子や風の向きで低気圧の位置は大体わかる。それにカイルはエルフである。妖精の動きとかを見れば風向きや雲の様子などを聞くことが出来る。
ただ妖精の知能が非常に低いため遠くになると精度が悪くなるが無いよりマシだ。
妖精から空気が温かいか冷たいか聞き出し、そこから温帯低気圧の位置を推測して中心に近すぎず、遠すぎずない位置を確保したかった。
だが、絶好の位置を逃すまいと恐れすぎて温暖前線の前に出てしまい、船団を雨に濡らしてしまった。
だがこれは想定内。
雨が晴れれば、西風が吹く。
やがて後方から徐々に雨が晴れて行く。温暖前線が通過して晴れたのだ。
そして温かな西風が吹いてきた。
「総帆展帆!」
全ての桁に帆を張る総帆。後方からの良い風を受けつつ全速を出せる。
船団全てが帆を広げ風を全て受け止めて動き出した。
「よし、やはり低気圧に向かって少し南風が吹いている。全ての帆に風を受ける事が出来るぞ」
あまり知られていないことだが、帆船は真後ろから受けても帆船は最大速力を出せない。
マストが首尾線上に配置されているため一番後の帆が最初に風を受けてしまい、前に行くに従い風の勢いが無くなるからだ。
そのため、全ての帆に風が届きやすい斜め後ろから風を受けるのが最も速い。
時代が下るに従って帆に揚力が生まれることを利用する事で斜め前から受けると最大速力を出せるようになる。実際、日本丸や海洋丸は斜め前方から風を受けたときが最も効率良く進む事が出来る。
ただこの世界では帆装技術が未熟なため効率的に風を受ける事が出来ない。
特に積み荷を満載している商船では斜め後方からの風が必要だ。
なので低気圧と本国の位置を計算して良好な地点に船団を連れて行く必要があり、一旦北上させてから西南西に向かわせた。
最も遅い商船に速力を合わせる必要があり神経を使う。一番遅い船に合わせて帆を緩めたり時に回頭して位置を修正する必要があるが仕事だから仕方ない。
寧ろどうやって速力を上げるか考えることが楽しみになっている。
天候は今のところ異常なし。
通常、アルビオン近くだと温帯低気圧は衰退期に入り、寒気と暖気が入り乱れ猫の目のように天候が変わる。
だがここ最近は異常気象なのか本土近くでも低気圧の威力が強く安定して前線もハッキリとしており風が安定している。
お陰で速力が高く順調に航海が出来ているが、少し心配になる。
カイルの心配は的中し、翌日の午後あたりから船団の後方に積雲が出始め、やがて積乱雲が見え始めた。
温帯低気圧は中心部から東に温暖前線と西側に寒冷前線を伸ばす。はじめはほぼ直線上に並んでいるが、徐々に寒冷前線が南側に進んで行く。
寒冷前線の方が早く進むので船団はいつか追いつかれる。
前線は海面近くに寒気が伸びて行くので温かく湿った暖気とぶつかり上空に向かって雲を連続して起こし下から乱れるように積み上げ積乱雲となる。
寒冷前線は積乱雲を発生させるのだ。
雲の高さがあるため雨は激しい。更に雲が大きく高度差も大きいので落雷を発生させやすい。
この時も例外では無く、嵐に巻き込まれたように船団は激しい雨に打たれ、風に煽られ、頻繁に響く雷鳴と閃光に精神をいたぶられる。
激しい動揺に艦の乗組員達も憔悴する。
その中でカイルは外套を着込んで甲板に上がり風速と風向きを確認していた。
南西から南寄りの風に変わろうとしていた。北半球の温帯低気圧は反時計回りに風を吸い込むので低気圧の中心から南側に居ることが分かる。危険な位置からは逃れつつある。
それでも風力は強い。
縮帆――帆の一部を畳み縮めて航行していても十分な速力が出る。全ての帆を広げてしまうとマストに負担が掛かってへし折れてしまうので行っていない。何より他の船と船足を揃えないと不味い。
「ログ・ラインはどうだ」
速力を計らせていたウィルとマイルズ達に尋ねる。
「八ノットです」
速力としては十分だ。寧ろ碌に帆を張れない状態で出せる速力としては十分過ぎる。
嵐の中で操帆が難しいので縮めているが、それだけ速力が出せれば十分だ。
鈍間な商船を含む船団としては上出来な速力だ。
海流の影響もあるから実際の速力は更に上がるだろう。
マイルズに艦内に戻るように命令すると、カイルも舵輪と艦長室の間にある部屋、と言うより仕切りで作られた海図室に入り込んだ。
ずぶ濡れになった外套を脱ぎ布で顔を拭い腕を拭いてから海図に取り付き、定規を当てて船団のコースを書き込む。
「カイル。大丈夫なのか」
カイルに続いて入って来たウィリアムが尋ねてきた。ここのところ不安そうにしているが無理も無い。皇太子として祖国を案じておりこの船団の物資がアルビオンを助けるのだから気になる。しかし、候補生になったばかりのウィリアムには技量が、航海技術が全くない。そのため見ていることしか出来ず、気持ちばかり先走る状態だ。
だからカイルは務めて優しく答えた。
「ああ、嵐になる事は想定済みだ」
カイルはウィリアムに落ち着いた声で説明した。
中緯度の海域は偏西風の影響で西風が吹くことが多いのでアルビオンに向かって一直線に航行しても問題はない。
だが、ガリア船団より早く入港するため、ガリア大蒼洋艦隊の攻撃を躱すため、北への迂回針路をとるためだ。
また温帯低気圧の発生させる風を利用し船団全体の速力を上げたかった。
船団を構成する商船は最大限に積み荷を積み込んでいるために遅いのだ。
速力を上げるためには風の強い海域を通る必要があり、低気圧に接近する必要があった。それは必然的に前線の近くを通ることになる。積乱雲の中に船団を突入させてしまう恐れもあった。
だが、他に手が無いのも確かだ。
ガリア大蒼洋艦隊とガリア船団を本国艦隊が牽制してくれているだろう。だが、その作戦が成功するという完全な保証は無い。
多少の危険を冒しても素早く、最短時間でアルビオン船団を帰国させる。
そのために、低気圧近くを通すことにした。
そのため船団各船には荒天用意を命じており備えは出来ているはず。嵐に遭うのは航海では普通の事であり各商船は対応できるはずだ。
「本当か」
「ああ」
カイルは幼馴染みのウィリアムに笑って答えた。少しでも安心出来るようにと思ったからだが、彼の顔は引きつっていた。
カイルの顔は控えめに言っても狂喜で彩られていた。
西風を受けられる絶好の位置で帆に風を受けて航行できる航海士、いや船乗りの喜びが溢れんばかりに出ていただけなのだが、ウィリアムには嵐を喜ぶ狂人に見えてしまった。
同年の一一歳とはいえ異常なほどの航海技術を持つ幼馴染みだが、彼に帝国の命運を預けてしまったことを少し後悔してしまった。
だがそれは杞憂であり、別の大問題が発生した。




