『獣化症候群』
羊たちと同じ方向に目を向けて、僕も思わず言葉を失った。
逆光を背に、大きな影がヌッと現れる、まさにその瞬間だった。
「ホブゴブリンだ! みんな逃げろ!!」
ホブゴブリン。ゴブリンの上位種。
人間よりふた回りは大きな身長に、三回りは広い肩幅を持つ、人型の魔物だ。人や家畜を好んで食べるあの魔物と出くわしたなら、一般人や低レベルの冒険者では死を覚悟するしかないだろう。取り巻きのゴブリンを持たない『はぐれ』のようだが、それでも僕にとっては十分な脅威だ。
こんな大物、この草原で出会うようなことはなかったはずだ。なぜ急に現れたのか。
「もしかして、魔王が復活しかけているせいで……?」
魔物の王、魔王。数百年に一度復活しては、人間世界に大きな傷跡を残す存在。フィナが『賢者』に任命されたのは魔王の復活が近いからだと神官様は言っていたけれど、その影響がまさかこんなところに現れるとは。
だが、そんなことを考えるのは生き延びた後でいい。
「くっ、みんなもっと走って! ここままじゃ逃げ切れない!」
仮にも女神の託宣を受けた僕と、【教練の賜物】で強化した羊たちの足だ。決して遅くはないはずなのに、ホブゴブリンはのしのしと距離を詰めてくる。これでは遠からず追いつかれてしまう。
いっそ、羊を何匹か囮にして逃げるべきか。
そんなことを考えだした、その時。左手方向から声がした。
「こっちだ、化物!」
数本のナイフがホブゴブリンに飛び、分厚い筋肉に跳ね返される。ダメージはほとんど無いがホブゴブリンの注意がそちらに向いた。
その先には、革鎧に身を包み、その上からローブを羽織った人間がひとり。フードを被っていて顔は見えないが、体格と声からして女性、いや、少女だ。
「そこの羊飼いの方、大丈夫ですか!?」
「今のところは! 君は!?」
「通りすがりの『斥候』です! 私が奴の相手をしますから、その間に安全な場所まで避難してください!」
『斥候』。
女神から与えられる職業のひとつだ。短剣の扱いに長け、隠密行動に向いた職能を持つことが多い。任される仕事も、それらを活かした偵察や暗殺が主だという。
つまり。
「危険すぎる! 君も逃げないとダメだ!」
戦闘への適性を示す等級は、下から二番目の第四級。巨大な魔物と正面きって戦える職業ではない。
レベルが高いなら別だが、投げナイフの威力から見ても彼女のレベルはそれほど高くない。このままひとりで戦えば、間違いなく彼女は死ぬ。
「いいえ、私は女神から力を授かった者。身を挺して民を守るのは使命です。さあ、早く避難を!」
それだけ言って、果敢にホブゴブリンへ向かってゆく。だが彼女自身も手に握った短剣も、見上げるほどの魔物に比べるとあまりに貧弱で頼りない。
見殺しには、できない。
「ああもう、みんなごめん! 【猛獣調教】を以って命ずる! 突撃!!」
「メエエエエエエエエ!」
羊たちを反転させ、ホブゴブリンへと一斉に突撃させる。
「【教練の賜物】!」
そして、強化。
いくら強化しようが羊の突撃で倒せる相手ではないが、彼女の助けにはなるはずだ。せめて、ホブゴブリンの戦意を削ぐくらいのダメージを与えられれば……!
「……え?」
そんな僕の願望は、斜め上の方向に裏切られた。
職能を発動したと同時に、少女の身体が宙を駆けた。
まるで翼が生えたかのように軽快な動きで、世界が止まって見えるほどの速度で、ホブゴブリンの首筋へと迫る。
瞬きひとつする間に、少女の短剣は魔物の首を切り裂いた。筋肉の塊のような体が思わず膝をつく。
「メエエエエエエエエ!!」
そこに羊の群れが殺到し、ホブゴブリンはあっさりと息絶え、灰となって消えていった。
「な、なんですか、今のは……」
彼女の職能かと思ったが、戸惑いようからして違うだろう。
それに、速すぎる動きで脱げたフードの中を見て、僕には原因がなんとなく理解できた。
「君、その耳は……?」
フードの中から溢れ出した、黒の長髪。風になびくその髪の上には、髪と同色の黒い耳がぴこぴこと動いていた。
あの形はおそらく、狐の耳だ。
「見られてしまいましたか……。ええ、その通りです。私の名はスズ。『獣化症候群』の罹患者です」
真剣な面持ちで、彼女は、僕の聞いたこともない病名を告白した。
羊というのは知能が低く、代わりに人間にとても従順で素直な生き物です。キリスト教圏ではよく狡猾な蛇や狐と対比して描かれます。
ただし群れで突進すると車くらいは破壊できるので、けして怒らせてはいけません。