4-1 好きとか嫌いの定義とか。そして祭りの当日
結局俺達は、一時間目の授業をさぼってしまった。
食堂でブリックパックを買って、ピアノ室の床に座り込み、ぼんやりと斜め上に視線を飛ばし、天井や窓の向こうの空を眺めていた。
「あれはね、俺のことが好きなの」
「あれって、サエナ会長?」
「他に誰が居るよ?」
「あの会計の子」
「ばーか。あれはサエナが好きなの。お姉様っ! て感じ」
奴は肩をすくめる。俺はそらをあおぐ。まあ一般的な反応だと思う。
「はあ、なるほど。まあそんなものだね」
「大体俺は、ああいうのはタイプじゃない」
「へえ。お前でもタイプってあんの?」
お前ねえ、と奴は片目を細める。そして本当にいい性格してやがる、と付け加えた。
「こういうのがタイプじゃない、ってのは判るよ。だけどこれがタイプってのは、あいにく判んね」
「ふーん」
「お前はどうなのよマキノ、お前は」
「俺?」
「笑ってごまかすんじゃねーぞ?」
「驚かない?」
「驚かない」
「BELL-FIRSTのトモさん」
奴は五秒ほど動きを止めた。
そしてやや真面目な顔になって、冗談はよせ、と俺を軽くこづいた。俺はさすがにそれには笑って答えなかった。でも事実は事実だ。
「だってカナイ、お前もRINGERのギタリストさんが凄いとか言ってなかったっけ?」
「馬鹿やろ」
それとこれとは別だ、と言いたげに吐き捨てる。
「別にからかってなんかいないよ」
「あのなあ。俺は単純に憧れてんの。そりゃ俺はギター弾きじゃあないから、ギターだけじゃないなあ。楽器弾きじゃないから、歌うことしかできないけれど、俺はね、あの人と対等に話せるようになりたいんだよ」
「対等」
「そうだよ、対等。俺いつも思うもの。あのさ、ライヴハウスに来る女どもって居るだろ?」
「うん」
「あれってさ、結局、別の次元に居るって感じ、しねえ?」
「別の次元?」
「うん。そりゃさ、例えばファンでもコアなファンでさ、追っかけって類?…打ち上げとかついてきて、結局寝てしまうこともあるってのあるじゃん」
あるね、と俺は答えた。
「でもそれって結局、スターとファンの関係に過ぎないだろ?」
「スターってお前その言い方…」
「うるせーっ! どうせ俺はボキャブラリィが少ないよっ! とーにーかーくー、バンドの奴は相手をファンとしか見ないし、ファンは相手をバンドの人とか見ないだろ?もし寝たとしてもだよ? 俺、そういうのは嫌だから」
「でもファンから本当に深い仲になる場合だってあるだろ?」
「あることはあるさ。だけど俺は、嫌なの。俺はね」
「カナイは、嫌なんだ」
「お前はいいの?」
「俺は――― 別に。双方結局好きならいいんじゃない? 終わり良ければ全てよし」
カナイの言うことも判るが、そんなこと言われたら、俺は自分の身の置きどころがなくなってしまうではないか。
「あのさあ、カナイは、誰かを好きになったこと、ない?」
「え?」
「憧れじゃなくて、欲望つきの奴」
「……」
「無いんだろ」
決めつけてやる。
「お前はあるのかよ」
「あるよ。今年初めてだけど。俺はあるよ。欲しくて、欲しがって」
「あ、そう……」
「そういう時にまで、そんな建て前守っていられる?」
「判んね」
一拍置いたが、カナイは答えた。素直だな、と俺は思う。
「でもその時は、その時だ」
俺はくくく、と笑った。何だよ、とカナイはやや怒った顔になった。
「で、どうなの?カナイ」
「何が」
「サエナ会長。彼女、お前のこと好きなんでしょ?」
「あのなあ、マキノ」
奴はやや困った顔になる。
「さっきのその、お前の話の流れで行こうか。俺は、サエナは嫌いじゃない。だけど、欲しいとは思えね。お前と同じ。お友達だよ」
「ああ―――」
それは分かりやすい。
「いい人なのにね」
「いい人だよ。いい人なのは判る。それこそ姉貴づらしてとか俺、言ったけど、本当に姉貴だったら良かったんだ。例えば俺の友人とか、先輩とかに彼女として紹介するとかだったら、喜んでそうしてやるよ。頭いいし、見た目も悪くないし、真面目で真剣で、人の面倒見もいい。だから俺じゃない誰かにだったら、喜んで取り持ってやりたいよ。だけど、それは俺じゃないんだ」
「どうして?」
「お前、誰か好きな奴いるんだろ? じゃ何で好きなんだ?」
「判らない。ただ好きなんだ」
「そうだろ? 同じだ。サエナはいい奴だ。だけど、そういう意味では、好きになれない。どうしようもない。いい加減俺なんか放っておけばいいと思って俺がどれだけ突っぱなしてもあのザマだ」
「大変だな、お前も」
「そう言ってくれる?」
ははは、と奴は力無い笑いを俺に向けた。
そうこうしているうちに、文化祭の日はやってきた。
その間にも、俺は時々練習スタジオにつきあっていた。さすがにその都度その都度スタジオ代をたかられはしなかったが、「見学料」程度は参加していた。
それにしても。
見るたびに俺は驚かされていた。
それはこのバンドが上手くなっていったからではない。下手は下手だ。そうそう上手くなる訳がない。俺が驚いていたのは、カナイの歌だった。
今原も木園も、別に驚いた様子はない。当たり前のような顔して聞いている。
慣れているのだ、と俺は思った。
彼らはおそらく小学校からカナイと一緒なのだ。小学生の音楽の時間から彼の声を聞き慣れていたなら、そりゃ、何とも思わないだろう。
慣れとは恐ろしいものだ、と思わずにはいられない。
校内は活気づいていた。旧校舎と言わず新校舎と言わず、建物という建物がデコレーションされている。放送室は占拠され、普段は流さない音楽も流されている。
三日間の辛抱だ、とでも言うのだろうか、職員室は沈黙を守っている。
「それにしても遅いなあ……」
アンプに腰を下ろして、高い天井を見上げながら、カナイはぼやいた。
「何?」
「木園の奴。もう集合時間は過ぎてるし」
「ああ」
そう言えば、いなかったな、と俺は今更のように思い出す。このにわかごしらえバンドのベーシストが、まだやって来ないのだ。
大食堂がその日の講堂での発表会の出場者の楽屋兼練習場所になっていた。祭りの間中食堂本来の業務は休みになっている。ブリックパックの自動販売機だけが、平常営業している状態だ。
いろんな出場者が大食堂には集まっていた。バンドはもちろん、弾き語りアコーステイックデュオや、アカペラ、オペラまがいに、ノイズ・パフォーマンスまで千差万別。共通項と言えば、「真面目な音楽ではない」その一点だけだった。
もちろんその場合、その参加者の姿勢が真面目であるかないかなど問われはしない。「真面目じゃない」音楽を殆ど聞いたことのないような上つ方が決めたリストにのっとって決めているだけだ。
「ちょっと俺見てくるわ」
西条がさすがにしびれを切らせて立ち上がった。
あちこちで、チューニングだの発声練習だのの混じった音が耳に飛び込んでくる。こんな活気はそう悪いものではない。あのライヴハウスの、出番前の活気。緊張と期待と興奮。
悪くはない。
と。
そこへ血相を変えて西条が飛び込んできた。はあはあと息を切らせている。おそらくは俺達のクラスまで行って帰ってきたのだから、大した距離ではないはずなのだが―――
「おい、どうした?」
「カナイ~い~ま~は~ら~」
頼りなげな声がうめいた。何だ何だ、と俺も奴の方に向き直った。
「駄目だよ~出場できねえ!」
「でき……? 何、お前、木園を呼びに行ったんじゃないの? 何かやらかしたのか?」
「違う違う!」
ぶるんぶるん、と西条は手を大きく振る。
「木園の奴、うちのクラスの展示、手伝ってて、机積んだ上から落ちたんだ」
「げっ」
思わず俺までがそう声を立てていた。
「落ちた…… って」
「いやケガはないの、ただ、ちょっと打ちどころが悪くて、気ぃ失って、保健室にいるって言うから」
「そりゃあまずいわ」
今原も何やら顔色が変わっている。なかなか度胸座った連中かな、と俺はこれまでの練習を見てきて思っていたが、さすがにこういう緊急事態には。
「やっべ―――! どーすんだよ! どーしよう…」
カナイが声を張り上げた。
「ここまで来て出られないのかよ!」
「代役は!」
「……なんて居るか? だいたいウチのクラスでバンドやろうなんて酔狂な奴、俺達くらいだぜえ?」
「マキノ! お前何かできないの?」
西条がぱっと振り向き、いきなり俺にふった。え、と俺は目を大きく広げた。
「そうだよ、お前、ウチに付き合ってたくらいの酔狂な奴じゃねえか!」
今原も言う。だがそういう問題ではないと思う。
「駄目だよ、こいつができるのはピアノだし」
「じゃあいっそベースラインをピアノで弾いてもらう…」
「ピアノじゃ駄目なんだよ! あの音じゃなくっちゃ! ベースじゃなくちゃ」
カナイは声を張り上げて主張する。俺はどうしようかな、と思った。
「ベースね」
ため息を一つ。俺は近くに置かれたままの、木園のらしい深みのある赤のベースを取り上げた。コードをアンプにつなぐ。
ここなら音を出しても良いのだろう。実際、辺りには同類項がごろごろしている。コーラスも同じ部屋に居るのが何だが。
「おいマキノ、何を」
「これ、こないだの練習の音源だろ?」
端末に音源を入れる。音を上げる。
「何するつもりだよ」
「黙ってろ」
カウントを取るドラムの奴の声。俺はラジカセのヴォリュームを思いきり上げたから、部屋中に割れたその声が響きわたった。
あちゃあ、と西条は、自分の声に、片手で顔を覆った。
ピック貸せ、と今原に言うと、はい、と何やら驚いた顔で慌てて手渡した。そんなに珍しいのだろうか、俺がそういう口調すると。
指先に、力がこもる。少なくとも何もやっていなかった時よりは上手くなっているはずだ。
俺は、そう言われたはずなんだ。