3-2 見えないものへの感情
「クラセ君のことについて知ってること?」
夏休みに入った頃、BELL-FIRSTが出ない日の開店前に、俺はこっそり店に行き、ナナさんに訊ねた。
彼女はその日、長いたっぷりしたウエーヴの髪を後ろできゅっと止めていて、それがよく似合っていた。
「ねえ猫ちゃん、それはあんたが気にするべきことじゃあないのよ?」
「うん、それは判ってるんだけど。でも俺、気になって気になって仕方ないから」
ふう、と彼女はカウンターに両腕をつく。組み合わせた指には、細いプラチナ色のリングが光っている。綺麗な細い指だ。
「猫ちゃんはトモ君のこと、好き?」
「うん。いい人だし、俺もともとファンだって言ったでしょ?」
「そういう意味じゃあないわよ」
彼女はやや大げさに首を横に振る。
「?」
「それ以上か、と聞いてるの。例えばノセの奴があたしを好きなように、あたしがあいつを好きなように、猫ちゃんはトモ君のことが好きか、と聞いてるのよ」
そういう質問が出せるあたりが、彼女は偉大だと思う。だが俺の答は、そんな彼女の偉大さには遠く及ばないものだった。
「判らない」
「判らない?」
彼女はあからさまに怒った顔になる。
「俺にはそういう所は。たぶんそうなんだろうと思うんだけど、はっきりそうとも言いきれない」
「はっきりしない子ね」
くす、と彼女は笑う。
だろうな、と俺は思う。だって今まで彼との間にあったことは、全てが成りゆきなのだ。俺はそれに流されてきたに過ぎない。少なくとも理性の俺にとっては。
感情の俺に流されて、流されて、ずっとやってきたようなものだ。
「まあいいわ。じゃちょっとだけね。あたしの知っていることだけよ」
うん、と俺はうなづいた。
「クラセ君ってのは、まず、中学高校でトモ君の先輩だったの。一年先輩」
「もしかして、その人ってブラバンだった?」
「あら知ってるじゃない。高校に入ってからは、バンド組んで、同じ大学も行ってたって聞いたわ。もっともクラセ君は一浪したって聞いたけどね」
コントラバスを勧めた先輩。
「バンドの方は、高校の最初の文化祭で、何でも、クラセ君の方が、ウッドベースを弾ける彼をバンドのベースに引き込んだらしいの」
ああ、と俺はうなづく。断片的に彼の口から出た話が次々に思い出される。
「ところがそれに味を締めて、二人はずっとそれから高校二年間とクラセ君の浪人時代と、大学に入ってからも組んでいたの。そうね、今のベルファのメンバーがあの子達と出会ったのは、あの子達が大学に入ったばかりの頃」
「五年前?」
「そんなところかしら。あの子達のバンドも、ギターとドラムは点々と変えつつ、結構順調に転がってきたのよ。ところが三年の時かしらね、クラセ君が亡くなったの」
俺は息を呑む。予想していた台詞にせよ、そう口に出されるとやはり重い。
「自殺だったらしいの」
すっ、と背中一面に悪寒が広がった。…考えられないことではなかったはずなのに。ナナさんの表情もさすがに曇る。
「でも本当の理由は、さっぱり判らないの。だってクラセ君は何も残さなかった。遺書とか、日記とか――― 状況一つずれていたら、他殺として捜査されても全然不思議じゃなかったって。だってあの子は、亡くなったその日に、一ダースのビールを買い込んでたのよ?」
「何で」
「知る訳ないじゃない。冷蔵庫の中には、バドが一杯入ってたって」
吐き捨てるようにナナさんは言った。
「それにあたし達は…… そりゃあの子もその頃友達の一人だったからね、ショックはショックだったけど…… それよりトモ君の方が心配だったわよ」
「ひどかったんですか?」
いいえ、と彼女は首を横に振る。
「トモ君は、全然顔に出なかったわ。だからあたし達は心配だったのよ」
胸がぎゅっと締め付けられた。胸の真ん中を誰かが、思いっきり握力の強い手で心臓を掴んだのではないか、と、そんな感じがした。
「そんな感じは――― しないけど―――」
「そんな感じはしないわ。だから怖かった。すごくあたし達怖かったわよ。ちょうどその頃、前のベルファのベースが実家へ帰るって抜けたから…… ノセはあの子を入れたけれど」
心配は、抜けていないんだ、と彼女は付け加えた。
「ナナさん、そのクラセさんって、明るい人だった?」
「明るかったわよ」
彼女はカウンターの中、俺に背を向けている。声がひずんでいる。
「だから誰もあの子が自殺だなんて、信じなかったのよ。だけどトモ君は言ったわよ。『そうかもしれない』って。あの平気な顔で」
「言ったんですか?」
ええ、と彼女は大きく首を縦に振った。
「もしかして、誕生日に、プレゼント交換とかしてた?」
「そんな女の子みたいなものじゃなかったけどね。どっちかと言えば、化かしあいとか、そんな感じよね」
そうですか、と俺は言うしかできなかった。
気がついてはいた。彼は、いつも俺に、たった一人のことしか喋っていないのだ。いろんな面を切りとっていたので、たくさんの友人のことを喋っていたようだったけれど。
「だからね、猫ちゃん、あたしはトモ君があなたに関心持ったこと自体嬉しいのよ。そんなことずっと無かったのよ?」
「そうなんですか?」
ええ全く、と彼女は再び俺と向き合うと、断言した。
「だからあたしは猫ちゃんに、あの子のこと好きでいて欲しいな」
「俺は」
俺は、ひどく困っていた。俺自身、彼に対する感情については整理がついていなかったのだ。好きは好きなのだ。だけど。
「ナナさん…… 俺は、たぶん、その亡くなったひとが、何か――― ひどく、憎らしいと思う」
そんな言葉が、するり、と俺の口から出た。
「猫ちゃん?」
「今、ナナさんの話聞いてて、いきなり、そう思った。だって、その人ずるいじゃないか」
「ずるい?」
そうだ。俺は言ってから気付いた。クラセさんは、死んでしまったから、もう絶対彼の心から消えることはないのだ。
「死んで、その人は、トモさんの何か、持っていったんだ」
「そうかもね。猫ちゃん悔しい?」
「悔しい」
「だったらあたしは猫ちゃんに賛成」
彼女は二杯の紛い物のオレンジジュースを出して、乾杯、と言った。
そして俺は自分にとって初めての感情の正体を知った。
これは嫉妬だ。
*
ひどく明るい陽射しに、目がくらみそうになる。
だが確かに季節は変わりつつあった。初夏のあの頃と気温は大して変わらないのに、秋の陽射しは目に優しい。
ただそれでも、睡眠不足の朝には、時々容赦なく感じられることがある。
いや、睡眠不足と言うのだろうか。
夏にはもっと眠らなかった気がする。いろんなことをやって、殆ど眠らないような夜も少なくなかった。今はそういうこともないのに、どうして俺はこうも目覚めると気怠さばかりが残っているのだろう?
「そいつは夏の疲れが出たんだよ」
とカナイは言う。
「そうかな?」
「そうだよ」
奴は明快に断言する。そういうところが奴は気持ちいいところだった。
ここのところ、俺は頭の半分にぼんやりと霧がかかっているような気分だった。何か、大切なことを忘れているような気がするのだ。
十月。衣替えになって、ダークグリーンの上着を着込むようになると、急激に季節が変わったように見える。
女子も、白いブラウスにダークグリーンのリボンだったものが、急に三つぞろえに変わってしまう。
時々視界に入ってくるサエナ会長は、夏服よりも確実にその方が似合っている。そしてカナイにちょくちょく口出ししては、そのたびに逃げられていた。
それ以外の部分では、本当に才色兼備という言葉がよく似合っているのに。
俺は何となし、クラスの女子に訊いてみた。
「サエナ会長って誰かとつきあってるのかな」
「会長? ないでしょー?」
語尾を上げて答えた女子は、ねえ、と別の一人に同意を求めた。
「うん、ないわよねえ。だってねえ。あのひとねえ、一部の女子には人気あるけどさあ」
「女子に? ああ、それって凄いなあ」
「と言うか。ほら」
一人はくすくす、と意地の悪い笑いを浮かべる。
「そーよね。だって会長さんって、絶対男には受けない人だと思うもん」
「そうなの?」
俺は思わず問い返していた。
「だってさあ、マキノ君、そう思わない?」
「そうそう、だって男子みんな言ってるわよ?あんな出来すぎの女は彼女にしたくないって」
「それともマキノ君は会長さん好きなの? マキノ君の方が可愛いとあたし思うけどなあ」
くくく、と二人は含み笑いをする。何やらひどく嫌な感じがした。
俺は気力を少しばかりふるって、満面の笑顔を作った。ふっと二人が引く気配がする。俺はゆっくりとこう言った。
「それはありがとう。よく言われるよ」
な、何? と二人が気味悪そうに言う声を背にしながら、俺はそこから立ち去った。あいにく俺は性格まで可愛い訳ではないのだ。
別の女子には、カナイと彼女のことをほのめかしてみた。今度の彼女は、前の二人よりは穏やかで嫌みのない意見を述べたが、それでもサエナ会長はあくまで姉さん的だ、ということしか口にはしなかった。それほどあの会長は恋愛沙汰とは無縁に見えるのだろうか。
時々視界に入る彼女を見ながら、どうも俺は既視感を覚えて仕方がなかった。そして、それが何に対する既視感なのかはさっぱり思い出せないのだ。
そんなことを考えながら歩いていたら、カナイにいきなり腕を掴まれた。
慌てて何だ何だ、と目を丸くしたら、奴はいきなり怒鳴りつけた。俺の目の前には側構があった。
「お前ねえ、絶対睡眠不足か栄養不足だよ。ちゃんと寝て食ってる?」
「食ってるだろ?だいたい最近お前と何回メシ食った?」
まあそれはそうだがな、と奴はぶつぶつと口の中で何やらつぶやく。だが実際、それは真面目に取らなくてはならないことだったかもしれない。俺はずいぶん怠惰になっていた。
と、カナイの足が急に止まった。
「あらお早う」
あの書記だか会計だかの女子を連れたサエナ会長が目の前に居た。確かにこの人はこのスーツ姿がよく似合う。
「お早うございます、先輩」
そう返したのは俺の方だった。カナイはと言えば、ひどく気難しそうな顔になっている。
「ああこの間の。もしかしてあなた、こないだ私に嘘ついた?」
「ええ、すみません。緊急事態に見えましたので」
俺はさらさら、とそう答える。これは嘘ではないのだ。
「いいのよもう。でも、仲がいいのね」
「同じクラスですから。それに、最近はバンド」
ふっと彼女の視線がきつくなった。バンドという言葉を聞いた瞬間。
「の練習を見学するのも楽しいかな、と」
「メンバーじゃあない訳ね」
「ええ」
「忠告しておくわね。バンドはやらない方がいいわよ」
「どうしてですか?」
「どうしてもこうしても。ここはそういう学校でしょ?」
俺はくくく、と思わず笑っていた。
「何がおかしいの」
「そういうこと言うのは、会長らしくないな、と思いまして」
会長と、カナイと、会計少女の視線が一度に俺に集まる。
「私らしくない?」
「だってそうでしょう? あなたは外部入学の人で、この学校にはこれまで女子の生徒会長はいないって聞いても立候補して、当選した人じゃあないですか。伝統を伝統としてそのまま認める人ではないと思っていたんだけど」
「あなた」
「マキノです」
その時の俺は、相当人が悪くなっていたに違いない。だが嘘は言っていない。
伝統打破の傾向がある辺り、俺はサエナ会長をなかなか尊敬していたのだ。だからカナイのバンド活動を止めようとしたことについては、それは彼女らしくない行動だ、と常々感じていたのだ。
「マキノ君ね。覚えておくわ」
「ありがとうございます」
俺はとびきりの笑顔を彼女に返した。さて教室へ、と思ったら、ぼん、となかなか強い調子でカナイが肩を掴んだ。
「何?」
「マキノさあ、お前って、もしかして、実は結構性格悪くない?」
「悪いよ。知らなかった?」
俺は軽く返して、掴まれた手を外した。奴はふう、とため息をついた。
「ごめんな」
「何、お前があやまることがあるよ」
「サエナ会長に意地悪言った」
「あいつはさあ、時々あのくらい言われた方がいいんだよ。ただでさえここの生徒のこと、実は知らないんだから」
「ふーん?」
ふと俺の頭に、会長のことを訊ねた時のクラスの女子の姿がよぎった。
「ここの連中は誰も、サエナが大好きな変革とかそういうことを望んじゃいないんだ。面倒だし」
「だろうね」
「お前は気付いてたの?」
カナイは意外そうな顔になる。俺はうなづいた。
「何となく」
ああ。
どうしてもクラスメートの顔と名前が一致しない。その理由を考えているうちに、さすがの俺でも気がついた。
印象が皆似ているのだ。それも、あの俺の田舎の、あの狭い世界と。
俺はあの世界に居心地の悪さを感じて出てきた。そのせいか、無意識的に、それと同じ雰囲気を持つものを記憶しなかった――― しようとしなかったのだろう。
カナイもサエナ会長も、その中では浮いていた。だから一度認識したら、ちゃんと覚えられた。
「悪い人じゃないのは判る。俺から見たら、恋愛対象にはならないけど、結構好きなタイプだよ。でも彼女、結構空回りしてるよね」
「まあな。でも待て、恋愛対象にはならない?」
「うん。で、たぶんお前も――― 君もそうだろ?」
「今更『君』はよせ! 気味悪い…」
奴はぶるっと身体を震わせる。
「はいはい。うん。確かに恋愛対象にはならないよ。どちらかというと、女子でも、いいお友達になりたいタイプだよね」
「お前もそう思うか」
「うん。ということは、カナイもそうなんだ」
まーね、と奴は苦い顔でうなづいた。
「だからまずいんだよ」