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3-1 マイクロフォン越しの声

 練習するんだ、見ていかない?とある放課後、カナイはカバンを抱えてピアノ室に行こうとする俺を誘った。


「練習?何処で?」

「駅近くの『サウンドマニア』って楽器屋知ってる?」


 俺は即座にうなづいた。登下校の道だ。そのくらいは知っている。


「あんまり大きくはないところだよね」

「うん。入り口にポスター張りまくりの店」

「あああそこね」

「そこの二階にさ、狭いんだけど一応防音効いてるスタジオがあんの。俺は知らんかったけどさ、 今原がそこの楽器屋の会員でさ」

「へえ……」


 俺は気のないあいづちを打った。

 どういうつもりなんだろう、と俺は奴がピアノ室にやってくるたび思う。

 ここのところ、毎日のように奴は俺をバンドに誘って、そして毎度断られている。まるでそれは 最近のあいさつか、会話に入る前の枕詞のようだった。


「どーせ暇なんだろ? お前文化祭、何も参加する予定はないっていうし」

「調べたの?」

「調べたも何も。最近うちのクラスの連中の中で、掃除が終わったらさっさと教室からカバン持って出てくのってお前くらいなもん」

「そうだっけ?」


 そらとぼけて見せる。でも、ま、実際、暇は暇だったのだ。


「そういう君は、最近はライヴハウス行ってんの?」

「んにゃ」


 カナイは両手を上げて目を閉じる。


「行ってる暇というか、資金がございません。俺は別に楽器新調しなかったけれどさ、その代わり、とか言ってスタジオ代が大きくのしかかって……」


 そこで俺はピン、ときた。眉を寄せる。


「もしかしてさ、君、俺にもその一端担わせようって思ってない?」

「あ、ばれた?」


 やれやれ。カナイは露骨に照れくさそうな顔になった。


「一体一時間いくらな訳よ」


 はあ、とため息をつく。結局俺は成りゆきという奴に弱いのだ。


 スタジオの中は、むっとした空気が漂っていた。ピアノ室のあのただっ広い、乾いた空気とはまるで逆だ。

 果たしてそこに常備してある楽器に対してこの環境はいいのか! と熱弁を震いたくなるような場所に、野郎五人も集まったのだ。むさ苦しいったらありゃしない。


「ほんじゃ、やろっか~」


 気の抜けたような、ここの会員になっているという今原の声で、練習が始まった。

 俺は「場所のスポンサーの一人だからねっ」とカナイに言われて、スタジオの隅に陣取っていた。広さは六畳か八畳か――― その中に、むさ苦しい男子五人。備え付けのドラムスに、ギター用ベース用のアンプが各一台。

 ギターを握っていたのが、さっきの俺との会話の中にも出てきた今原。ベースは木園、ドラムは西条という奴が演っている。

 どれもクラスメートなのだが、情けないことに、顔と名前が一致したのは今日が初めてだ。

 それにしても。

 この間から奴が言った通りだった。確かにひどい。雑音騒音というものはどうものか説明せよ、と問われれば、今の俺は迷わず、この連中の出す音だ、と答えるだろう。

 だが成りゆきとは恐ろしいもので、俺は結局この日、連中の練習に二時間、延々付き合っていたのだ。

 曲数は三つ。古典的なUKパンクと、日本のその系統のバンドの名曲が一曲ずつ。もう一つは最近人気のある轟音バンド。

 どう見てもパンクとは縁のなさそうな奴ばかりが揃っているのだが、先の二曲を選んだ理由だけはさすがの俺でも露骨に判る。コード数少なく、単調で、カッティングもそう難しくはない。

 楽譜も、使っているのは、音楽雑誌の中に採譜されているもので、わざわざ「スコア譜」として買ったものではなさそうだ。おそらくは本当のスコアよりはずっと単純化されたものだろうと思われた。

 それでいて、全くもってスローでスローでスローなテンポから始まることしかできない。パンクロックであるにも関わらず!

 楽器隊は実にゆっくりゆっくりとスピードを上げていった。なかなか真面目な姿勢だった。そういう所が結局あの学校の生徒なのだ。練習というものの基本は掴んでいるらしい。

 その甲斐あってか、三十分も同じことを繰り返していれば、ある程度形になってきた。合わせるのは初めてだと言っていたが。


「それじゃ、合わせよーぜ、仮名井よぉ」


 今原が奴に目線と声を送った。ああ、と奴も簡単に答えた。


「んじゃ、行くよ」

「どれ?」


 今更のように訊ねる奴に、これこれ、と今原は譜面のコピーをびらびらと振る。英語曲かよ、とカナイはやや情けない顔になる。

 西条が間延びした声で、ワン、ツー、とステイックを合わせる。さてどうなることやら。

 だが次の瞬間、俺は本気でびっくりした。

 四小節のイントロの後、ヴォーカルが入る。


 その声、が。


 何って言ったらいいんだろう?

 天災のような声、だった。

 天才ではない、天災だ。地震・雷と同じ類のものだった。

 俺は思わず目を見開いていた。


 こんな声、してたんだ。


 普通に喋っている分だったら、普通よりはやや通る、という程度のものに過ぎない。

 なのに、マイクロフォンを通すと。

 急にその声は力を放った。


 そういう声が時々居ると聞いたことがある。



「変わった声だったよ」


 彼は、高校・大学と通してバンド仲間だった相手のことをそう評した。

 過去形だった。

 彼がそう意識しているかどうかは判らなかったが、彼がその友達のことを話す時には、必ず過去形だった。


「どういう声? ノセさんみたいの?」


 BELL-FIRSTのヴォーカリストの名を出す。すると彼は首を横に振った。


「あれとは別」

「じゃあ、どういう感じ?」

「格別いい声って言う訳じゃないんだ」


 だからどういう声なのか、と俺はその時珍しく彼に詰め寄った。

 六月。初夏から、次第に夏の色が濃くなってきた頃だった。陽射しが目にきつい。


 その頃彼は、時々バイクでライヴハウスに通うようになっていた。

 バイク――― バイクと言うべきだろうか? だが原チャリと言ってしまうには、それはややスタイリッシュな感じがしたが。

 淡い緑のパステルトーンのベスパ。50CCではないので、二人乗りもOKだというが、彼は断固として後ろに誰かを乗せることはしなかった。

 人間は乗せなかったが、楽器は構わないらしい。よくベースをかついで乗っていた。

 暑くなってきていても、彼は長袖シャツにゴーグルをかぶってそれに乗ってきていた。照りつける陽射しの下で長袖、雨が降れば合羽を着て。

 梅雨の合間の晴れた日には、目に痛い程の陽射しが照りつけ、夜になっても温度は下がらない。

 昼間に比べれば下がっているのだろう。

 だがむっとするというか、ねっとりしているというか、体中に絡み付く大気は、部屋の中ではむき出しにした腕に容赦なくまとわりついていた。


「何て言えばいいんだろうな―――」


 きんきんに冷やしたバドワイザーを呑んでいた彼はこの時、夜の底から言葉を探しているようだった。


「理屈じゃあないんだ。お前のやってるクラシック的に『いい声』なんかじゃ絶対ない。実際そう上手いという訳じゃあない。歌い出すと、時々音程も飛び上がってしまうことも多かった」

「それって下手って言わない?」


 ぽん、と彼は俺の頭を軽くはたいた。


「下手ね。そう、下手だったんだろうな。実際下手だったよ。そういう意味だったらな。だけど、そういうものでもないだろ? バンドのヴォーカルってのは」

「うん」


 さすがに三ヶ月、その大半の夜をライヴハウスと関わってくれば、それまでの狭かった見方も変わってもくる。


「そういうところじゃない、魅力があった声だったんだ」

「へえ」

「だけど俺も不思議だったことがあってね」

「何?」


 彼は少し考え込むと、クロゼットの中から何かを取り出し、聴いてみな、と俺の前に放り出した。データ音源だった。

 俺はそれを自分の端末に入れる。

 ひどく雑音だらけのそれは、室内で録音したものらしい。何やらごそごそと人が動く音が聞こえた。そしてこんこん、と音がすると、生ギターをかきならす音が聞こえた。

 明るい、でも少し切ないメロディが、でたらめ英語で歌われている。


「もう一個も聴いてみな。ライヴの奴」


 俺はデータを切り替える。と。

 声が、強く真っ直ぐ、耳に飛び込んできた。


「トモさんこれ、同じ人?」


 彼はそう、とうなづいた。


「そういう奴だったんだよ。マイクロフォンを通すと変わるんだ」

「そういうことってあるの?」

「あるの。と言うか、マイクを通ることで、まあ物理的に変わるという訳じゃないかもしれないけど、何かか変わるんだ」

「へえ……」


 確かに、その「マイクを通した声」は彼が魅力的、と言うのにふさわしかった。

 下手は下手なのだ。俺の知るテクニック的には。

 だが、確かに、何か引っかかるものがある。


「こういう声が好きだった?」

「好きだったよ」


 今でも好きなのか、と俺は聞きそうになって、やめた。

 ノセさんの声は、こういう声ではない。

 音源の中の人の声は、時々切れてしまいそうな程不安定な部分を残していた。一方の、ノセさんの声はもっと安定していた。周囲のテンションを急激に上げるとか、熱狂乱舞とか言う言葉とは全く無縁だが、安心できる声だった。

 だが音源の中のヴォーカルは。

 時々居る。そういう人は。

 耳に飛び込んだ瞬間、体温がコンマ1℃くらい上昇し、頭の中をかき回し、身体を勝手に動かしてしまうような。

 とても目の前の彼を見ていると、そんな声が好き、とは思えなかった。

 それでは昔と現在の声の趣味は違うのか、と問えばいいのだが――― 俺はそれを問うことはできなかった。

 もどかしかった。彼の態度もだが、そんな風にためらってしまう自分自身にも。


 ところで、ライヴハウスACID-JAMは、夏が近付くと冷房のグレードを強烈に上げていた。客からは冷凍庫と呼ばれるくらい上げた。

 何ですかこれは、と俺はその大クーラーに最初に遭遇した日、彼やノセさんに訊ねた。すると彼らはしゃあしゃあとこう言っただけだった。


「いや、大は小を兼ねるって言うだろ?」


 よっぽど面の皮及びその他の部位の皮が厚いに違いない。俺はそれに対して苦虫を噛みつぶしたような顔と、うなり声を返した。


 そして温度差の激しさに、あっさりと風邪を引き込んでしまった。

 夏風邪だ。一度ひくと、これがなかなか身体から引いてくれない類の。

 とある日。

 その日は何やら蒸し暑いと思ったら、天気予報が台風の接近を告げていた。おかげで冷房は除湿も兼ね、いつもにも増してきつかった。

 彼らに拉致されたはいいが、全身がぞくぞくして仕方がなかったので、部屋が小さい分、エアコンも小さい楽屋に俺は逃げ込んだ。

 そしてそこでも勢い良くくしゃみをしていると、店のカウンターにいつも居るナナさんが、可愛い顔が台無しよ、とティッシュと風邪薬を差し入れしてくれた。

 最初に来た時には判らなかったのだが、この人はノセさんの彼女なのだという。

 ノセさんだけではない。BELL-FIRSTのメンバーは、だいたい彼女というものが居るらしい。まあもっともだ、と俺も思う。彼を除いては。

 では彼には、そういう相手が居る(もしくは居た)のだろうか。

 少なくともその時、彼の廻りにはそういう「誰か」の気配はなかった。


「はい猫ちゃん、オレンジジュース。風邪ひいたらビタミンCを取らなくちゃね。あ、言っておくけど、これは本物よ本物! いつものタンクから出す紛い物じゃあないからね!」


 一気にそれだけ言って、彼女は俺に大きなコップを差し出した。確かに紛い物とは違う香りだった。生のオレンジのこく。ありがとう、と俺はしみじみと言った。


「ううん気にしないで。あたしが好きでやってんの。トモ君から猫ちゃんのことも頼まれてもいるし」


 彼女は俺のことを猫ちゃんと呼んでいた。

 猫に似ていると言い出したのは彼だが、それを定着させてしまったののは彼女だった。


「そうなんですか?」

「そうよ。だってね、珍しいんだもの。トモ君が誰かに関心を持つのって、ホントに、すんごい久しぶりだし」

「久しぶり、なんですか?」


 オレンジジュースを一口呑むと、問い返す。


「うん。もう結構なるかな。ほらあの子、普段ああいう調子だから、みんな平気だと思っているだろうけどさ」


 あの子呼ばわりだ。

 考えてみればそうだろう。ナナさんは、トモさんより五つ年上のノセさんと、かつて専門学校で同級生だったというくらいだ。

 俺なんぞ「あの子」どころか赤ん坊みたいなものじゃなかろうか、と時々彼女の態度を見ると思う。だが別にそれは悪い気はしない。

 そしてそういう人だからこそ――― 俺はその時ふっと魔がさした。


「もしかして、前のヴォーカルの人が」


 かまをかけた。語尾をぼかした。

 あら、とナナさんはあからさまに表情を変えた。


「クラセ君のこと、知ってるの?」

「ちょっとだけ」


 嘘ではない。

 ただもちろん名も知らなければ、顔も、知らない。

 知っているのは、その(おそらく)クラセという人が、マイクロフォンを通すと力を持つという変わった声を持っていたということだけだ。

 だけどゼロではない。


「まあね。詳しくは知らないけど、クラセ君が亡くなってからかなあ…… やっぱり」

「亡くなった?」


 あ、と彼女は口を押さえた。そしてその手を俺の頭に持っていくと、やや目を伏せて、まぶしそうな顔で俺を見つめた。


「いい子だから、それ、あたしが言ったって黙っててね」

「止められてるんですか?」

「そうじゃない」


 彼女は首を横に小さく振る。


「―――そうじゃないけど、あまりいい思い出じゃあないでしょ?」


 そして目を伏せると、彼女はそのまま手を俺の額にまで下ろした。


「熱がちょっとあるわね。少し眠りなさいな」

「クーラーは切って下さいね」


 もちろんよ、と彼女は笑った。


 俺はふう、と深呼吸すると、楽屋の壁にもたれた。そしてうとうととしながらも、彼女のもたらしてくれた情報をとりとめもなくこねくり回していた。

 結構不毛な努力とも言えなくとなかった。熱っぽい頭は、まるで酔っている時のように、思考に明確な方向性を与えない。ふらふらふらふら、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、感情に振り回されてしまう。

 もう居ないのか、と改めて俺は思う。亡くなった人なのか。それは妙に俺を納得させた。

 しばらくして本格的に俺は寝入ってしまった。


「あれ?」


 目が覚めた時、俺はACID-JAMの楽屋ではなく、見覚えのある部屋の中に居るのに気付いた。

 換気扇が普段より大きな音を立てている。風がずいぶん強いらしい。


「よぉ、起きたか。ずいぶんよく寝てたな」


 雑誌を眺めていたトモさんと、バドワイザーの缶が目に入った。

 そしてその時、そこが彼の部屋だということに、俺はようやく気付いた。

 灰皿には煙草の吸いがらがない。この人はそうだ。だいたい人が寝入っていたり、体調が悪い時には煙草を吸わない。

 俺はぱっと身体を起こした。


「え? 何で俺ここに居んの?」

「ああ、天気予報が」


 天気予報? いきなり出てきた単語に俺は眉を寄せた。


「何か台風が東京を直撃するとかどうとかで、ACID-JAMも今日は終わると早々閉めたんだよ。で、お前はよく寝てるから」


 そう言えばそうだった。


「―――すみません」


 俺は起き上がりながら言った。すると彼の乾いた大きな手が、すっと伸びてきて俺の額に触れた。


「まだ熱いな」

「あ、大丈夫。俺もともとそんな体温低くないし……」


 だがその言葉に説得力はなかった。彼の手を外すと、俺は寝かされていたベッドから降りようとした。


「電車、止まらないうちに帰るから」

「お前今、何時だと思ってんの?」


 呆れた顔で彼は壁の時計を指した。時計の針はとうに終電の時間を過ぎていた。

 ぺん、と俺は自分の額をはたく。

 立ち上がろうとした俺は案の定、ふらり、とよろけた。慌てて彼の手がそれを支えた。


「熱がまだ高いんだから、寝てろ。それとも俺に遠慮でもしてるのか? やめろよ似合わない」

「遠慮なんかしてない」


 遠慮じゃない。習慣だ。たいていの風邪は高熱が出ても、一人で下げて治した。

 人に心配をかけるのが嫌だった。心苦しいのだ。

 それが親兄弟であってもそうだ。人が自分のために何かをしてくれるというのは、ひどく慣れないものであり、居心地の悪いものだった。

 だったら、ここで無理にでも平気な顔をして帰ればいいのだ。


「本当に大丈夫。いつも―――」

「何が、いつも?」


 珍しいな、と俺は思う。彼の顔は何となく怒っているように見えたのだ。


「熱なんて、だいたいぐっすり寝込めば、勝手に下がるから――― 別に誰かの手を煩わせることなんかないんだ」

「お前、いつもそうしてきたの?」


 え? と思わず俺は問い返していた。

 怒っていたはずのトモさんは、何かひどく悲しそうに俺の髪に手を突っ込んだ。

 頭がぼんやりしていたから、なかなか彼の言っていることの意味が取れない。


「そうしてくれる人がいなかったのか?」


 ああ、そういう意味か。


「違う、そういう人は居たよ。家にはいつも誰かしら居たから…」


 そうだ。それはいつも俺が勝手にそうしていただけなのだ。

 だってそうだ。母親も父親も、祖母も、歳の離れた兄貴も俺に関してはいつもこう言った。手の掛からない奴だ、と。

 そうだろうか、と時々俺は考えた。

 そしてそうかもしれない、と思うことにした。家族に心配をかけるのは嫌だった。

 ただでさえ旧家という奴は、周囲の目がうるさいのだ。親戚だって多い。

 それだけで、親は何かと気を張っているのは子供心にも判った。

 だとしたら、子供としては多少なりとも親の負担を軽くしてやりたいと。

 そういうふうに理屈づけはしなかったにせよ、思うのではなかろうか。それに。


「それに姉貴が熱出した時や、兄貴が家出した時の大騒ぎ見てたら、俺はそういうの、嫌だな、と思ったし――― 人の振り見て我が振り直せ―――」

「どういうこと?」


 彼は俺を再びベッドの上に座らせた。

 立っているのがしんどかったのだから、肩をちょっと押されただけで、どすん、と尻餅をついた恰好になってしまった。


「うちの姉貴は、頭とか結構いいし、優しいひとなんだけど、身体あんまり強くない人だったから――― 何かそういう時って、お袋さんって、すごいがんばって看病すんだよね。夜中にトイレとかに、子供の頃起きたりするじゃない。そうすると、そんな時間に起きてられたりすると――― 見てて辛くなっちゃって」


 彼の眉根がほんの少し、苦しそうに寄せられたように見えた。


「俺はだから、―――もし目を覚ました時に、お袋さんが俺のそばに居たりしたら、辛くなるだろうな、と思って」


「でもマキノ、それは当然だぞ? そういうもんなんだぞ? 子供は親に甘える権利があるんだ」


 彼は俺の横に腰を下ろした。


「うん、俺もそうは思うんだけど――― でも、嫌なんだ。俺のためにそうされるのって、俺には重いの。疲れるの」

「それじゃお前、俺にそうされたりすると、やっぱり心苦しい?」


 俺はうなづいた。うなづいていた。


「何かね。嬉しいって思う自分も確かに居るんだけど」


 肩をすくめてみせる。

 ああ何でそんなこと喋っているんだろう。これは熱のせいだ。酔っている。言うつもりはなかったのだ。

 だが事実だった。田

 舎から東京へ出てきたのも、どんな理由がくっついていようが、結局は家から出たかったからに他ならない。家から、遠くへ遠くへ。

 決して悪い環境ではないのに、どうしても、家とかその周りとかは、何かしら居心地が悪くて。

 そしてその理由を自分以外の誰かに求めてしまいそうで。

 そんな自分が嫌で。

 ふう、とため息をつく。自分でもびっくりするほどそれは大きなものだった。

 すると彼はその大きな手で俺の肩を引き寄せた。


「でもなマキノ、とりあえず今帰るなんて言っても俺は承知しないぞ」


 彼はきっぱりと言った。

 俺はうなづく。それは判っている。さすがに台風が来そうで、なおかつ終電も行ってしまった時間で、さすがにわざわざ帰ろうとは思わない。


「うん判ってる。けどトモさんは俺のこと気にせず、眠る時は眠ってよ。でないと、俺は心苦しい」

「それはそうだな」


 そして彼は手を伸ばして、灯を消した。

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