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2-3 ベースを手にとれば

「それにしても上手いなあ。ねえマキノ、今度の文化祭の時に、うちのバンド手伝ってくんない?」


 放課後になると、たびたびカナイはピアノ室にやってくるようになった。

 苦笑いしながら俺が、バンドの練習はいいのか、と訊ねると、まだその段階じゃあない、と奴はそのたび言った。一体いつそういう段階になるやら。

 そんな調子で文化祭に出られるのだろうか、と思った矢先の奴の言葉だった。


「君のバンドのやる曲には鍵盤が入るの?」

「んにゃ。まだそうとも限らないんだけど」


 グランドピアノにもたれながら、奴はふらふらと手を振る。


「基本的にはお祭りバンドだしね。俺達結局、まだ初心者も初心者の集団だもの。だから、少しでも上手い要素が入ったら恩の字でしょ?」

「だめだめ」


 俺は奴の真似をしてふわふわと手を振った。


「あまり俺はそういうの、好きじゃあないの」

「バンドが? それとも文化祭のステージって奴が?」


「んー……」


 俺は言いよどんだ。



「ああ、やっぱりすじがいい」


 彼はあの日、そう言った。

 最初に彼がベースを教えてくれたのは、「あの」次の日だった。

 太陽はもう高かった。朝と言ったら殴られそうな時間帯に、のそのそと起き出した俺は、適当に羽織ったシャツのまま、ぼぉっとして昨夜の続きで、そこいらの雑誌を繰っていた。

 別に内容全てが理解できるという訳ではないけれど、彼と自分が共通して好きである情報というものに目を通しているという事実だけでも、結構楽しかった。

 単純だ。好きな人と同じ趣味があるというだけで嬉しいのだ。

 彼はそんな俺を見て、くすくすとあの穏やかな笑いを浮かべながら言った。


「猫みたいだな、本当に」


 そう? と俺は問い返した。

 彼はテーブルの上に大きなマグカップを置いて、自分のためにはブラックを、俺にはカフェオレを入れた。


「ねえトモさん、俺そんなに子供に見える?」

「充分子供だよ。俺に比べればね」

「じき大きくなるよ」


 そうだね、と彼は笑った。だけど入れてくれたカフェオレは俺の好きな甘み入りだった。

 彼は前日ライヴで使ったベースを取り出すと、チューニングを始めた。黒地に、虹色? 玉虫色と言うのだろうか? それとも貝殻を使っているのだろうか。そんなきらきらした不思議な色の細い曲線で、彼の黒いベースは飾られていた。

 これが彼のメインベースらしい。ステージで、よっぽと変わった曲でない限り、彼はこのベースで通している。

 俺はカフェオレをすすりながら訊ねた。


「何でベースなの?」

「何でって?」

「ギターとかじゃなくて。ベース選んだ理由」

「ああそういう意味か。もともとね、低音楽器って好きなんだ」

「低音楽器」

「小学校の鼓笛隊では小型のスーザフォンかついでたしね、中学校もすんなりチューバとかに行って。だけどそこでコントラバス弾いてしまったのが悪かったな」

「ああ」


 確かにそれはあり得る、と俺は思った。

 コントラバス。ウッドベースと言った方が早いかもしれない。ロカビリーのバンドなぞ、これをつかうことも多いのだ。

 ブラスバンドでも、何故かコントラバスだけは弦楽器なのに入っていることもある。


「ちょうど俺の年には、入部者が多くて人が余っててね。なのにあれを志望する奴がいなくて。で当時は先輩だった人の一人が、『お前ならできる』なんておだてるからついつい」


 俺は笑った。


「ま、今となっては感謝してるけどね。チューバじゃ応用は効かないけど、コントラバスは俺にこの指をくれたし」


 彼は左手を開いて見せる。大きな手だ。指先が固くなったごつい手だ。俺はその手を取ると、自分と見比べた。指の太さなんて、俺の1.5倍はある。


「やっぱりこういう手じゃないと、ベースって弾けないかなあ」


 思わずぼそっとつぶやいた。


「そんなことはないさ。だってブラスの女の子なんてお前よりずっと小さくって細い手だって居たし。それでもかなりぼんぼんいい音出してたしね」

「ふーん…… じゃあトモさん、中学がブラスで、高校でバンド?」

「まあね」

「そんな時期に始めても、そんな上手くなれるんだよね…」

「やってみたい?」


 彼はチューニングを既に終えてある別のベースを指した。深い赤のベースは、確か彼の三番目ぐらいのものだった。まずステージで使うことはない。


「いいの?」


 彼はうなづいた。

 正直言えば、俺はベース自体に興味がある訳ではなかった。

 何だろう、と後になっても考えたのだが、はっきり言ってそれは、「成りゆき」だった。

 強いて言えば、彼がやっていた楽器だから、自分もできたらいいな、と考えたのかもしれないが。

 そう、今まで生きてきて、俺の選択は、どんなことにおいても、大体において「成りゆき」だった。

 ピアノを始めたのも、それが好きになったのも、高校がこちらになったのも、BELL-FIRSTのメンバーと仲良くなったのも。

 そして彼とそうなったのも。


 ……言っておくが、俺にはその趣味はない。

 いや違う。趣味が無い以前に、考えたことすらなかった。

 思考の範疇外、というか、アウトオブ眼中、というか、そのあたりは適当だが、とにかくそれが良い悪い珍しい珍しくない正常だ異常だ、ということを考える以前に、俺の世界の中には無かったのだ。

 そして、無いからこそ、そこには禁忌というものが存在していなかった。


 彼のことを好きなのか、と訊かれれば、俺はそうだと答えるだろう。

 ただ何故と言われても困る。好きは好きで、理由はない。

 理由は結局、後でつくものだ。好きという感情自体には理由なぞない。

 ただそこに欲望があったかと言うと、果たしてどうだか。

 自分から誘っておいて何だが、そもそも俺は、これまで女の子にすらそういう感情と言うか欲望と言うか…を持ったことがないのだ。要は未熟なのだと思う。

 だから自分でも自分の行動が不思議だった。

 ただ、これまでが、そういった欲望を押さえつけてきたのではないか、という感じはしなくはない。

 それでも人の噂は、気にしない振りをする程度には気にする方だったのだ。

 小さな小さな村社会の中で、どうしても見られがちになる生活は、知らず知らずにうちにそういう傾向を与えていたのかもしれない。

 こちらへ出てきてから、俺はひどく背中が軽くなった様な気がしたものだ。つまりこれが「羽根を伸ばした」という感じなのか、とも思ったりした。


 そして彼に関しては。


 何がどう好き、と訊かれると、非常に困る。本当に、「何となく」好きなのだ。


 無理矢理理由づけをしてみれば、俺よりはずいぶん高い背とか、ベースを弾くごつい手だとか、穏やかな声とか視線とか――― そんなものが何となく心地よいのだ、ぐらいしか言いようがない。

 だけどそれは、結局現在持っているこの感情の説明にはならないのだ。


 俺はそんな揺れている感情は出さずに彼に訊ねる。


「今から始めて、ステージに立てるようになるかな?」

「努力次第ってところかな」


 ほんのさわりの部分を教えてもらうと、やっぱり左手の指がすぐに悲鳴を上げた。

 ピアノはピアノで手だの指だの手首だのに力は要るのだが、弦を押さえる時のように一点集中的に力がかかることはない。


「努力次第?」

「そりゃそうだろ。だけどお前、譜面読めるし、手の力強いだろ? それは大きいよ」

「さっき女の子でもって言ったくせに」

「それはそれ。できるということと有利ということは別だろ?」


 確かに、と俺はうなづいた。


「マキノはステージに立ってみたいの?」

「うーん…… 判らない」

「お前の学校って、結構文化祭とか盛んだった気がするけど? そういう時に演るって手もあるよな」

「知ってんの? うちの学校」


 そう言われるとは思わなかった。彼は俺の制服をつついてその種明かしをする。


「ダークグリーンの制服は有名どころだからね。俺も昔、高校生の頃、遊びにいったことがある」

「へえ」

「秋だったよな」

「だと思うけど。でも俺、別に文化祭はどうでもいいんだけど」


 へえ、と今度は彼の方がやや驚いた。


「何で? 結構楽しいじゃない」

「楽しいのかもしれないけれど」


 何って言うんだろう。俺は言葉を捜した。嫌いじゃあないのだ、お祭り騒ぎという奴も。ただそこに向かう熱いエネルギーという奴が、俺にはどうにも何かしら欠けているのだ。


「トモさんはどうだったの?」

「俺? 俺は最初のステージが学園祭。まあお前の所ほど有名どころじゃあないけど、それなりに、楽しいものだったし」

「高校の時?」

「高校の時。まあ正直言って、そのせいで電気なしのベースから電気ありのベースに心変わりしてしまった」


 ありがちなパターンだろ、と彼は笑った。


「じゃあそれからずっと」

「うん。そん時バンド組んだ奴が、どういう訳か、同じ大学行く羽目になってね。まあ二人とも最寄りの学校選んだってこともあるんだけど」

「近いの?」

「実家? 大学と近かったよ」

「そうじゃなくて、その人と」

「ああ」


 穏やかな笑みが、彼の顔を覆った。


「近かったよ。だから高校の時も大学入ってからも、どっちがどっちの家か判らないくらいにお互いの家に入り浸っていたな」


 でもそんな家を出たんだ。


 その問いは俺の口からは出てこなかった。

 BELL-FIRSTの他のメンバーから聞いたことがある。彼の実家は都内だと。

 だからそれを聞いた時、俺は思った。

 別にわざわざ一人暮らしをすることもないのに。何かと費用もかかるだろうに。


「それじゃ、トモさん、その人とは今でも仲良し?」

「そうだね」


 そしてまた彼の顔を穏やかな笑みが覆った。


 嘘だ、と俺は直感的に思った。


 ベースの方は、それから加速度的に上達していった。

 実際始めてみると面白かったし、ピアノをやっているから、ベース音というものが何なのか、理解するのが早かったらしい。

 彼は彼で、俺が目に見えて上達するのは楽しいらしかった。

 昔使っていたという教則本を引っ張り出してくれたり、判らないフレーズがあると、それこそ手取り足取り教えてくれた。

 ライヴのある日でもない日でも、俺は彼の所へ出かけていった。私服の時もあるが、制服の時がほとんどだ。

 いつ行っても彼は文句の一つも言わなかった。誰かが来ている様子もなかった。

 そして、そういう時の何回かに一回は彼は俺と寝てくれた。だけど彼が自分から手を出すことはなかった。


 決して。

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