表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/16

1-3 マキノと最初のベル

 今でも時々ふっとその情景が浮かび上がる。

 ライヴハウスだ。「ACID-JAM」。


 天井の低い、空気も良くない、地下室のライヴハウス。煙草のけむりだらけの店内。焼き板で作られたような重い木の扉を開くと、そこにはそれまでの俺にとっては縁の無かった世界があった。

 大人しく待ってろよ、と彼の大きな手が俺をフロアの隅に押しやる。

 そんな光景が、初夏の時分に繰り返された。


 彼に最初に出会ったのは、春先だった。

 郷里に居た頃、俺はそんな所に出入りしたことはなかった。出入りしたことない程真面目、というのではない。出入りしたくとも、無茶苦茶な田舎というのは、そういう所が無かったのだ。

 顔なじみの女性の店員が、飲物でもどぉ? と、押すとぺこっと音がするような、メーカーの名が白く入った使い捨てのコップ一杯になみなみとオレンジジュースを渡してくれる。

 そんなたび俺は、ありがと、と受け取って、カウンターの一つの椅子を陣取っては遠目にステージを眺めていた。

 そのバンドの客は多くも少なくもなかった。決して満員ということはないのだが、聴いて踊るにはちょうどいい程度の人数をいつもキープしていた。


 最初に来た時も、そんな感じだった。

 東京へ出てきたばかりの俺は、所詮ただの好奇心旺盛なガキだった。目に映るもの全てが不思議で目移りしていた。そして昼間だけでは足らず、ピアノの練習もそっちのけに、夜の街を散策することが多かった。

 もともと田舎に居た頃から、夜出歩くことは好きだった。ただ、昔のそれが、星を見るとか、仲間達と秘密の場所で待ち合わせとか、そういうものであったのに対し、都会に出てきたばかりのお上りさんのすることと言えば。

 星ではなくネオンの瞬く街。ものすごく陳腐な表現だけど、俺にはそう見えた。

 俺の郷里では夜はとても暗いものだった。月の無い夜には「闇」が確実にあった。そしてそんな夜に、坂道をブレーキをかけずに自転車で疾走する時の恐怖と快感は、とうていこちらの人間には判るまい。

 だがこちらはこちらでまた別の恐怖と快感が待っていたという訳だ。


 ACID-JAMに最初に足を踏み入れたのは四月の終わり頃だった。

 俺は別に何もそこがライヴハウスと知っていた訳じゃない。ただ、人がずいぶん集まっているな、と思ったから興味を持っただけ。

 そして当日券を買って入ったら、そこは既に大音響だった。

 水しぶきが頭の上から勢いよく降ってきたような気がした。

 夏の暑い日に、近くの川に飛び込んで遊んだ時の水しぶきだ。あれにも似た感触で、音は、俺に降りかかってきた。降ってきた音は、俺の頭の芯を一気に揺さぶっていた。

 情けないことに、全ての演奏が終わった後にも、なかなかフロアから動けずに居た。

 どのくらいそうしていただろう?

 もう閉めるわよ、と店のカウンターの女性が声をかけた時にはもう誰もいなかった。

 出てからもしばらくは、頭の芯がくらくらしていた。足どりもおぼつかなく、ふらふらふらふらしていたらしい。店の名にふさわしく、何かに酔っているかのようだった。


 だから、そんな時に不意に取られた手に、即座に反撃できるはずもない。


 出てきたライヴハウスの前の道を歩いていたら、急に手を掴まれた。

 慌てて振り向くと、にやにやと顔一杯に笑いを浮かべた野郎が三人でつるんでいた。色を抜きまくった短い髪、眉毛は何処へ行ったんだ?だらんとしたサスペンダパンツは、そんな短足がやるもんじゃない!ピアスも付けすぎで、お前はバインダーか!と言いたくなるような耳だった。

 明らかに流行をはき違えたように身につけている、頭悪そうな(!)男達は、それでも身体は大きかった。俺はやや怖くなったが、それでも負けん気もなくはなかった。


「何か用?」


 なるべくきつい声でそう言うと、手を掴んでいた男は、驚いて目を広げた。あいにく声は、きっちり変わり時を過ぎているのだ。


「何でえ、野郎じゃねえの。どぉする?」


 どうやら俺は女の子と間違われたらしい。

 何となくかっとなって、手を振り払う。無視して早く帰ろうと思った。

 だが、三人というのはなかなか厄介な数だ。前へ進もうと思うと前に居て、振り返れば振り返ったでまたそこに一人居る。取り囲まれた、という方が正しい。


「野郎でもいーじゃん。綺麗さんだしさ。ちょっとそこまで付き合ってくんない?」

「やだ!」


 俺は即座に答えていた。無論そんなこと言ったらどうなるか、など目に見えてたけど。


「何ぃ? もう一度言ってみろ!」

「いやだ、と言ったんだよ!」


 その後はと言えば、もういきなり殴られ蹴られ…そういう時のことはいちいち細かく記憶したくないものだ。

 そして、そこが一応、往来だったことに俺は感謝した。

 俺はどうすることもできずに、ずっと目をつぶったままじっとしていた。

 と、いきなりその攻撃が止まった。

 何だろう、とゆっくりと目を開き、顔を上げると、四人連れの男達が三人組相手にすごんでいた。

 おぼえていろ、と逃げる時の常套文句を投げ捨てると、彼らは走り去って行った。


「大丈夫か?」


 穏やかな声が耳元で響いた。

 ふっと目を開くと、大きな手が視界に入った。顔を上げると、さっきステージで釘付けになってしまった姿があった。


「あ」


 BELL-FIRSTのメンバーだった。そのくらい判る。まだ目に焼き付いていた。

 それが、彼だった。

 確か左側で黙々と弾いていた堅そうな髪が短いベーシスト。春も終わりだと言うのに、黒のハイネックに黒のジャケットなんか着ていて、しかも汗一つかいていない。大きな手はさらさらしていた。


「大丈夫です」


 そう言って、俺は彼の手を借りて立ち上がった。楽器をかついだ彼は、俺より頭一つくらい背が高かった。


「あー、ここすりむいてる」


 やっぱり楽器をかついでいた長い金髪の人がつん、と俺の頬をつついた。痛、と俺は自分がいくつかのすり傷をこしらえていることに気付いた。


「ねえトモ君、この子、ケガしてるよ」

「そうだな、ちょっと戻ろうか」


 そんなことを言って、彼は俺の手を引っ張った。引っ張られて、結局俺は、出てきたライヴハウスにまた戻る羽目となってしまった。


「あらあんた、どうしたの!」


 裏口から中へ入ると、さっき俺を外へ出したカウンターの女性が高い声を出した。


「何、ナナさん、この子知ってんの?」


「ううん、別に。ただ、この子、さっき、閉店まで何かぼけーっとして居残ってたから…あらあら大変。ケガしてるじゃなあい。綺麗な顔なのに!」


 彼女は早口でそれだけ言うと、あたふたと救急箱を捜してくるから、と立ち上がり駆け出した。そして残された俺は、メンバー達の質問責めにあってしまった。


「何、今日のステージ見てくれたんだ」

「あ、あの」

「どぉだった?」


 俺はステージの配置を思い出す。確かこの金髪の人は右側に居たギターの…


「良かったです、あの、俺、こういうの見たの初めてで……」

「初めて!」


 ギターの人は、へええ、と珍しい物を見た、というような顔になる。


「でも! その初めて見たのが、えーと……ベルファストで良かったと思います!」

「ベルファスト違う。それじゃ地名じゃないの。BELL-FIRSTよ」


 チチチ、と年齢不詳ファニイ・フェイスのヴォーカルの人は人差し指を立てて振る。はあ、と俺はうなづくしかなかった。そして俺はその時、彼の名前も知った。

 彼はヨシエトモノリという名だったから、「トモ」とか「ヨシエさん」と呼ばれていた。後者だとまるで女の子の名前のようだから、と彼は俺には前者を呼ばせた。

 そしてそれ以来俺は、地名のベルファストならぬ、BELL-FIRSTのメンバーとお知り合いというものになってしまった。


 何故かこのメンバー四人が四人とも、俺のことを気に入ってしまったらしく(おそらくは今日び珍しい純粋培養少年とでも思ったのだろう)、その結果として、俺は本格的にライヴハウスに通うようになってしまったのだ。

 ACID-JAMは、基本的にドリンク券さえ買えば、そこのステージを何でも見られるタイプの気楽なライヴハウスだった。、BELL-FIRSTのメンバーは俺を外で見つけると、ほとんど人さらいの要領で楽屋へ連れ込んだ。


 このバンドを簡単に言い表すと、「同業は実によくウケるバンド」だった。

 とにかく上手い。テクニックはある。曲も悪くない。そして何か埋没してしまわないだけのセンスやプラスαもある。

 だが、このバンドのメンバーは全員が全員、基本的に「音楽さえできれば人生楽し」という態度の人だった。そのために、「売れる」もしくは「知名度を上げる」という部分が大きく欠けていた。


 皆その腕のせいか、バンド以外の副業を音楽で持っていたようだった。

 ギターのナサキさんは、楽器屋でギターの講師をしていたし、ヴォーカルのノセさんは時々レコーディングなどのコーラス隊でレコード会社から呼ばれる。ドラムのハリーさんもそうだった。いいドラマーというのは人口が少ない。サポート・ドラマーの時もあるし、結構カラオケとかのドラムは量できるからいい収入になるのだとも言う。

 そしてベースのトモさんは。

 俺をあの時助け起こしてくれたあの人は。

 結構落ち着いて見えるので、二十代も半ばかと思ったら、まだ二十三だった。去年大学を卒業したばかりなのだと言う。

 だがそう見えてしまうのも不思議でない程、彼は落ち着いた、穏やかな人で、笑うと、二重なのだがあまり大きくはない目が更に半分になってしまった。

 そんな彼らは、ライヴ前の人さらいだけでなく、よくライヴ後の打ち上げ、というか食事に連れて行ってくれた。


 新しい発見と新しい出会い。春の終わりは、楽しい日々の始まりのような気がしていた。

 そのはずだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ