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6-3 たぶんそしてまた明日

 開店前の、店には裏口から入る。身体が知っているこの店の、カウンターへ通じる道を俺はすりぬけた。

 きゅ、とガラスをこする音がした。俺は肩で息をしながら、彼女の視界へと入っていった。口の中がからからだった。声がかすれる。だけどこれだけは。


「ナナさん…」


 彼女はつ、と糸を引っ張られた人形のように、自分の名を呼ぶ方へと顔を向けた。二ヶ月近く、耳に入れなかった声が、俺の中に響いた。


「猫ちゃん!」

「…ナナさん…」


 俺は、かついでいたベースを指すと、彼女の居るカウンターの方にふらふら、と近付いていった。

 たどりつくと、急に力が抜けた。俺はせっかく綺麗に拭いたカウンターに手をつくと、そのまま脱力してしまいそうな自分を感じた。だがそのまま崩れ落ちたりはしなかった。後ろから、カナイが支えていたのだ。


「俺は…」


 それ以上の声は出なかった。ナナさんの手が、濡れた俺の頭に触れた瞬間、俺はそれまでずっと押さえ込んでいたものがあふれ出ていくのを感じた。

 熱いものが、だらだらと顔を流れていく。雨じゃない。

 声が出ない。息が苦しい。走ってきたせいじゃない。

 俺は。


「よく来てくれたわ猫ちゃん…」


 ぽんぽん、とナナさんが優しく俺の背を叩く。

 俺は自分の中からこんなにひっきりなしに湧き出てくるものがあるなんて、生まれてこの方、知らなかった。止まらない。止めることができない。

 ナナさんはぽんぽんといつまでも俺の背を叩いていてくれた。


「猫ちゃんがもう、ここには来ないんじゃないかって、あたし達ずっと心配してたのよ…」

「ナナさんやっぱり、こいつ、今の今まで忘れてましたよ」


 カナイの声が背中から聞こえる。いつもの奴よりトーンが落ちている。深刻な声だ。


「そうね、そうじゃないかって思ってたわ。カナイ君ありがとう。君が教えてくれなかったら、またあたし達はトモ君の二の舞をするところだったのね。同じ間違いを繰り返すところだったのね」


 二の舞? 繰り返し?

 ああそうだ。俺は以前ナナさんに聞いたことを思い出した。クラセさんが亡くなった時にも、平気な顔をしていたトモさん。絶対にその中身は平気じゃなかったのに、平気な顔を決して崩さなかった…

 でも違う。俺は知っている。

 彼はずっと押さえ込んでいたんだ。自分自身までもごまかして。あの夏の、あの時まで、ずっと。

 自分にとって一番大切だったのが誰だったのか、思い出して。

 そして、連れていかれた。

 カナイは俺をカウンターの席に座らせた。俺は座ってもそのまま、ずるずると顔を伏せたまま、ずっと顔を上げなかった。

 ナナさんは(見えなかったが)俺とカナイにまがいものオレンジジュースを渡すと、そのまま開店の準備を始めた。

 やがて空調が――― 夏のあの強烈なものではないけれど、入ってしまい、俺は身体に染み渡る寒さで、ようやく正気に戻った。

 客が入りだしていた。そういう時間だったのだ。

 見計らったように、カナイは氷がすっかりなくなった、紛い物のオレンジジュースを俺に突き出した。俺は黙ってそれを受け取って、口を軽くつけた。だがつけた瞬間、俺は自分がひどく喉が乾いていることに気付いて、一気に飲み干した。身体がひどくだるかった。空調のせいだけではない。


「…ごめんな」


 俺はカナイに言った。聞こえるかどうかも判らなかった。周囲の喧噪は激しくなっていた。ライヴがもうじき始まるのだ。どのバンドがやるのかもさっぱり俺には判らない。だが俺は言わずにはいられなかった。

 カナイはふっと笑うと、俺の頭をくしゃ、とかき回した。カナイの手は彼よりずっと小さいから、その感覚は全然違う。だけど、妙にそれは心地よいものだった。


「彼のことが、好きだったんだ」

「知ってたよ」

「カナイお前、そういう顔、全然しなかったくせに」

「お前には見えなかっただけだよ。見ようとしてないものが見える訳ないだろ?」


 確かにそうだ。俺はずっと目を塞いでいた。あのニュースにしてもそうだ。あれが彼のことを言っているものだと、あの事故現場がその場所だと、俺は知っていたはずなのに。


「何で好きだったの?」


 繰り返される、問い。彼もそう訊ねた。どうして俺が好き?


「…判らない」


 そして同じ答を返す。カナイはうなづく。


「そうだよな。好きなことに理屈なんていらないよな」


 歓声が、聞こえる。この日のバンドが出てきたのだ。


「…あれ、お前このバンド…」

「うん、RINGERだ」

「…フロアの方、行ってこいよ」

「いーや。俺はあそこににたむろしてる女どもと同じ所に居る気はないから」

「カナイ…」

「いつか、あの人と、肩を並べてやる」


 びり、と背筋に電流のようなものが走ったような気がした。

 何杯目か判らないドリンクのコップを掴んで、奴は、ステージのギタリストに向かってそれを掲げた。


「絶対」


 断言する。…俺はその時、気付いた。

 扇動者の声、だ。

 決していい声とか歌が上手いとかそういうのじゃないけれど。

 だけど。

  奴は俺の方に向きなおると、掲げていたコップの中身を一気にあおった。そして、俺の肩を掴むと、真っ向から見据えた。


「引きずり込まれるなよ」


 あの強い声で、はっきりと言った。


「お前は、やっと見つけたメンバーなんだからな」


 雨の音のような歓声の中で。



 あの八月の夜、暑い部屋の中。夜明けも近い時間に、膝を抱え込んで、俺は彼に聞いていたのだ。


「『LAUGHIN' RAIN』?」


 そう、と俺は答えた。


「なかなかできないよ、あの課題曲」

「そりゃあそうだろ」


 彼は当然だ、と言いたげに笑った。笑ったような気がした。表情は見えない。まだ明けてはいなかった。

 実際、あの曲は、なかなかコピーができなかった。さすがに初心者に毛の生えた程度の俺には、その曲は難しかった。

 しかもそれは彼が作った曲だけに。

 ほとんど自虐的なほどに、ややこしいフレーズとリズムが入り乱れたインスト曲。


「そもそも何で、笑う雨なの? 俺聞いたとき、リフレインの間違いかと思った」

「ああ、確かに似た音かもな。…特に考えたことはないけど」


 それはずっと考えていた。歌詞が入っていないだけに、その意味をくみ取るのは難しい。


「雨の音がね、その時の俺にはそう聞こえたんだ」


と彼は言った。そう聞こえたことはない? と重ねて訊ねられたので、俺は無い、と答えた。その時には、それは本当だった。


「奴の――― 知らせを聞いた時、雨が降ってた」


 その夜の話の中心は、その今はもう居ない人にあった。だから俺もいちいち確認はしなかった。


「俺は電話を切ると、取るものも取りあえず、家を飛び出した。その時はまだ、歩いて行ける距離に俺達は住んでいたからね。とにかく、行かなくちゃならない、と思った。だけど、走っている途中から、俺はどうして自分が走っているのか、判らなくなった」

「何で?」

「だって俺が行って何になる?」

「友達でしょ」

「その時の俺に、そう言い切れるものはなかったよ」


 首を横に振る気配。


「立ち止まって、行っていいものかどうなのか、立ち止まったまま、ずっと考えていた。そうこうしているうちに、小降りだった雨が、だんだんひどくなってきたんだ。そこで行くなり引き返すなりすれば良かったんだけど、どうにも俺は動けなくて、顔見知りのバンド仲間が俺を見つけるまで、そこに居た」


 情けないね、と彼は付け足した。


「あの時の雨が、ひどく、俺を笑っているような気がしたんだ」

「それで、笑う雨?」

「そ」

「それであんなに自虐的な曲なんだ」


 俺はあえてそこで言葉の調子を変えてみた。少し怒ったような声を立てる。


「ベーシストにとっても自虐的だと思うよ」

「そうか?」

「そうだよ。トモさんは上手いからできるけれど、俺じゃ難しいもん」

「でも受けたのはお前だよ」


 言葉の調子が明るくなる。


「お前ならできるさ。そしたら、お前が欲しがっているものを間違えずにあげるよ」

「そんな、俺の心読めるの?」


 くくく、と俺は笑ってみせた。


「お前は俺と似てるからね」


 そういう言い方って、と俺は彼をこづいた。


 でもそれは間違っていなかった。彼と俺はよく似ていた。

 俺は同じことを繰り返そうとしていた。無意識に。

 そして結局、彼は俺の欲しいものをよく知っていたのだ。



 ライヴの客の出るのに押しつぶされないように、と俺達はナナさんに礼を言うと、外に出た。

 雨は止んでいた。空にはうっすらと星が出ていた。


「あ、星が見える」


 見上げたら、何かそれが妙に目新しいことのように感じて、俺は口に出してしまった。


「珍しい?」

「ここでも、こんなに出ることがあるんだな」

「雨上がりでもあるしね。ほら、さっきのは夕立みたいなものだったろ? 寒冷前線…」

「理科は不得意だって言うの!」


 そう言えば、夜、空を見上げることもなかった。忘れていた。


「マキノのとこはそうじゃなかったの?」

「実家の方?」

「そ」

「俺の田舎は、滅茶苦茶。星なんかもうぴかぴか。だいたい夜は暗いものだからね。満天の星って言葉あるだろ?あれだよ。夏なんかすげえよ。夜中に寝ころんでると、流星幾つも見えるもん」

「へえ…」


 奴は息を呑み込む。


「いいなあ。俺一度見てみたい」

「すげえ田舎だぞ? 本当っに僻地もいいとこ」

「別にいいじゃん?俺行ってみたい」

「そういうもんかなあ…… ま、冬だったらいいよ。うち、冬休みにでも来いや」

「冬じゃ凍えそうだけどなあ…… でもいいな」


 奴はほとんど乗り気になっている。どの位寒いのか、とか、うちには人を泊めるスペースはあるのか、とか―――


「で、お前、そん時俺をクラスメートって紹介する?それともバンド仲間って?」


 はて。


「音大志望なんでしょ、マキノ君」


 こいつは鈍いのか鋭いのか全く判らない。


「その時までに考えるさ」


 その時はその時だ。俺は成りゆきまかせの奴なのだ。

 俺は奴の背中に掛けた自分のベースを取り上げた。駅が目の前だったのだ。階段を降りる俺の背中に声が降りかかってくる。


「重くないか?!」


 平気、と俺は声を張り上げた。

この話はバンド「RINGER」をめぐる話の二番目でした。

最初の話が文中にもちょっと出ているギタリストさん視点でカナイ君とくっつくもの。

で、スピンオフとして、まだ影が薄かったカナイ君の相棒のマキノ君を書こう、と思ったものです。なのでスマホどころか、携帯を持たない主義のひともそれなりに居たのです。音楽にしてもカセットがまだデモで使われてたりしてましたから、さすがにその辺りは削ったり表現を変えました。十数年経つと現代ものの小道具はどうしたものか状態になります。

で、スピンオフという言葉が今程出回っていない頃、同じ時間を別のキャラから見たらどうか、とかその周辺はどうか、とか考えて書くのが好きでして。

まあそういうのを8作書いてますので、またちまちま出していければと。、

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