5-2 記憶の中の記憶
冷夏だ、と少し前の長期予報は言っていたはずだ。
冗談じゃない。
エアコンの壊れた部屋の中は、サウナのようだった。だったらそんなところにいなければいい。そう思ってもいいはずなのに、俺はその部屋から出ることができなかった。
八月の半ば。その日彼は、全ての予定を空白にしていたらしい。夕方訪ねていった時には、やや驚いた顔をされたので、俺の方がびっくりした。
「今日は一日休みって言ったはずだけど…」
「…あ、だったらごめん、帰る」
「いいよ、居たければ居な」
彼は扉を開けた。だがその瞬間、その部屋の空気の暑さに俺は驚いた。
クーラーが壊れているんだ、と彼は言った。
俺はだらん、と団扇片手に雑誌のページをめくっていた。
だけど大して内容なんて頭の中に入ってもこない。手と言わず額と言わず汗がじわじわとにじみでてきて、めくっている雑誌のページまでがよれてきていた。
無論、その部屋の主は、出て帰って涼しいクーラーの効いた部屋で寝たければそうすればいい、と無言の主張をしている。だが俺は、意地でもそこから出なかった。
ぱたん、と俺は雑誌を閉じた。
別に病気でも何でもなくても、こう暑いと頭がぼうっとしてくる。夜中なぞ、特にそうだ。いい加減眠ってしまえばいい。少なくとも夢の中まで暑さが襲ってはこないだろう。
だがこの部屋の主は、平気で本なんか読んでいる。寝る気配はない。
俺は何となくそんな彼に苛立っていたのかもしれない。時々本を読むのを邪魔したい衝動にかられた。だが結局はできない。あまりにもその様子が涼しげだったので、壊してはいけない、と思ってしまう。
と、不意に彼は顔を上げた。そして俺の方を見る。すると彼を見ていた俺は視線が急にあってしまい、慌ててそらした。
「暇だったのか、マキノ? 今日は」
俺は首を横に振った。そして何となく、と付け足した。
「今日は一日、学校の補習授業があったんだけど…」
「ふーん… 高校生も忙しいんだな」
何となくその口調は、いつもより辛辣なものに聞こえた。聞き覚えのない口振り。
「忙しくなんかないよ。所詮学校じゃない」
「学校は嫌いか?」
「学校自体は好きでも嫌いでもないよ。ただ、時々『ああここでもか』って感じはある…」
「『ああここでもか』?」
「似てるんだ。俺の学校は、俺の田舎と何か」
「似てる?」
「ここは東京で、向こうは田舎なのに、何か、同じ空気が漂ってるんだ」
「それはお前の学校が古いからじゃなくて?」
「伝統、はあると思うけどさ」
いかんな、と俺は思った。思考があまりよくまとまらない。暑さのせいだろう。
「何か、人が覚えにくいんだよ。個性的に一人一人見えるのに、結局同じように見える」
「個性的って仮面をかぶっているだけ?」
「うん、それ」
俺はうなづいた。だけどあの会長は別だ。彼女は異彩を放っている。だからこの俺が、すぐ覚えた。
「夏休み入ってから、ずっと忘れていたんだけどさ、何か、久しぶりに学校行ったら、やけに目について。で、帰ってベース鳴らしていたら、何となく会いたくなって」
「ああ、マキノは俺のこと、好きなんだっけ」
「うん」
俺は即座にそう答えていた。
「だってトモさん、俺、前にもそう言ったじゃない。最初から」
それは間違いない。どういう種類のものであるか俺自身に判別ができなかったしても、そのことだけは事実だ。
「それともトモさんは、俺が嘘ついたと思ってる?」
「いや。でもあの時はお前、酔ってたみたいなものだろ?」
だけど、その後については全然酔ってなんかいない。正気も正気だ。正気でこんな関係続けているなら、好き以外の何だと言うのだ。
「酔ってなんかいないよ」
「何で?」
「何でって」
思いがけない問い。俺は言葉に詰まった。
「どうして、俺が好きなんだ?」
団扇を放り出して、俺は彼に近付く。
「理由が居るの?」
体温が感じられる程に、近付く。彼は本を閉じた。俺は重ねて問う。
「理由が欲しいの?」
「そうではないけど」
「それとも」
ああまただ。これが酔っているということなのだろう。俺は自分の口が勝手に喋っている様を遠くから見ている気分になった。べらべらべらべら、実によく回る。
「クラセさんも、あんたにそんなこと言ったの?」
マキノ、と彼は驚いたように強く俺の名を呼んだ。さっと背中が冷たくなった。俺は自分が聞いてはならないことを聞いていることにその時気付いた。だが一度開いた口は止まらなかった。
「クラセさんもやっぱり、あんたのことを好きだったんだ」
「違う…」
彼は頭を振った。俺は彼に詰めよる。
「奴が俺のことを好きだった訳がない」
「そんなこと判るの?あんたは彼じゃない!彼がそう言ったの?それとも言わなかったの?」
「言ったよ。言ったんだ。…ああそうだ。言ったんだ。俺は、言われたんだ。だけど」
手が伸びる。抱きすくめられる。何か言おうとした俺の口は塞がれた。
こんなことは初めてだった。何故、と俺は思った。それはひどく長い時間に感じた。ひどく荒々しくて、俺の知っているあの穏やかな彼など、そこにはまるで感じられなかった。
ようやく身体を離すと、肩で息をついている俺を見据えて、彼はごめん、とつぶやいた。
開け放った窓から、軽い風が入ってきた。俺は首筋に微かな涼しさを感じた。身体中から一度に汗が吹き出していたことに俺はその時ようやく気付いた。
彼はその大きな手で、自分自身の顔を覆い隠していた。俺は彼の首にそっと両手を回した。何だか、ものすごく、彼を抱きしめたかった。こんなに暑いのに、そんなことどうでもよくなっていた。
「悪い、マキノ…」
抱きしめ返してくる。先程とは違う、いつもの穏やかさで。そして彼の顔はちょうど見えない。
「命日なんだ」
「クラセさんの?」
彼は黙ってうなづいた。
「ブラスバンドの先輩で、高校からのバンド友達で、誕生日のプレゼントを驚かしあって交換した人の?」
再び彼はうなづいた。
「トモさんは、その人が好きだったの?」
「判らない」
「でもその人はトモさんが好きだったんでしょ?」
「そう言った。少なくともそういう意味のことを言った。だけど、そう言った次の次の日、奴は死んだ」
自殺だったかも、とナナさんの言葉が俺の中によみがえる。
「何で死んだのか、誰もさっぱり判らないと言う。だけど、あれは、俺のせいもあるかもしれない」
「トモさん!」
俺はぱっと彼から離れた。そこには、俺の知らない彼の表情があった。今まで見てきた、いつも穏やかな、笑みを絶やさない彼の顔からは想像ができない、辛そうに歪んだ。
胸が痛んだ。錐を突き立てられたように、鋭く、強く。
「俺が、ちゃんと答えていたら」
「違う!」
俺は思わず叫んでいた。
「何が違う?」
「それは…」
「俺は、答を知っていた。ただ、そこに俺のモラリティとかそういう奴が邪魔をして、答えさせなかった。他に奴が死ぬどんな理由があったにせよ、自殺ではなかったにせよ、俺はYESなりNOなりの答を出すべきだったんだ」
「トモさんは、クラセさんが好きだった?」
「好きだったよ。だけどマキノ、俺は、奴と寝たいかと聞かれたら、答えられない。今でもそれは答えられない。そういう類の気持ちを彼に感じたことはない。だけど奴という人間は好きだった。奴の声が好きだった。ずっと奴の声を支えるベースを弾いていたいと思った。それは本当なんだ」
きりきりと、胸の痛みが止まない。
「最初にコントラバスを勧めたのが、奴じゃなかったら、俺はきっとそうしていない。あの熱心さに… いや、あの勧めた声にその時から惚れていたんだ。マキノお前、アジテーターの声って知ってるか?」
ううん、と俺は首を横に振った。
「歌はさ、上手い奴はいるし、練習次第で上手くなることはよくあるよな。だけど、扇動者の声を持ってる奴はそうそういないんだ。人を無条件に動かす声だよ。それは天性のものだ」
「…あ」
前に聞かされたテープの声を思い出す。マイクロフォンごしの、あの何処かが切れたような。何かが過剰にあふれていて、それでいて何かが欠け落ちているような。
「俺が最初に、奴のその声に引っかかったんだ。でもそれは間違っていなかった。同じ高校に入った時、彼は迷わず俺をベースに誘った。俺は嬉しかった。また彼の声が間近で聴けるのかと嬉しかった。そして高校時代ずっと彼とバンドで活動した。奴が一浪しても進学するつもりだと聞いた時には、迷わず俺はその学校を選んだ。別に学校へ行かなくてもよかったかもしれない。だけどそうすることができたから、そうしたんだ」
ずっと追ってきたんだ、と彼のとりとめのない話は、言っていた。
「いつも突拍子のないことで俺を驚かせて、振り回して、楽しませた。俺はそれが楽しかった。俺は昔から手の掛からない奴で、誰かに振り回されるようなことはまずなかったからね。だけど、それがどれだけつまらない生活だったか、奴に会ってから気付いたんだ。だけど、それはあくまで友達という次元のことであって…」
いや違う、と彼は自分の言ったことを次の瞬間、否定する。
「判らない。俺の感じていたのは、もう執着だ。もしも奴という存在を、誰かが俺以上の密接さでもぎ取っていったら、俺は何をしていたか判らない。だから、執着は、もしかしたら、友達の次元ではなかったかもしれない。いや絶対そうだ。だけど、俺は、あの時、答えられなかった。奴には」
「クラセさんは… あんたにどう言ったの?」
「言う前に、キスされた」
彼は苦笑する。
「驚いたなんてものじゃない。からかっているのか、本気なのか、本気だったらどうなのか、俺は一瞬にして混乱したよ。だから聞いたよ。『どういうつもりだ』って。そうしたら奴は言った。俺が好きなんだって」
「その通りじゃないの?」
「今だったら、そう思う。思える」
だろうな、と俺も思う。
「だから俺が、そう言ったとき、応えたの?」
「お前は別だよ。お前がそう言ったから、俺は、その時のことが本気だったと、今は思えるんだ」
大きな手が、俺の髪をくしゃ、とかき回す。
「それは、俺が居て、良かったってこと?」
「…」
「俺はトモさんが好きだよ?どうしてだか全然判らないけど、どうしてだか判らないから余計に…理屈が要る訳?そういうことに」
理屈なんて、後でついてくるものなのだ。俺はそう信じていた。俺自身、どうしてそういう感情になったのかさっぱり判らない。世間的モラリティとはかけ離れている。だけどそんなことはどうでもいいのだ。
「お前は、俺と似てるよ、マキノ」
「似てる? そんな訳ない…」
「似てるよ」
彼はそう言うと、正面向いて、俺の顔を両手ではさんだ。
「お前は、押さえ込むなよ、自分を」
「押さえ込んで…」
なんかいない、という言葉は結局言えなかった。
だが押さえ込んでいたのは事実だ。ただ、俺は自分が押さえ込んでいるということ自体に気付いていなかったのだ。
俺は彼の腕の中で、あの熱を出した時のことを思い出していた。
風邪が伝染る、と避けた俺に、彼は構わない、と長いキスをした。寒いと言ったら抱きしめていてくれた。
俺は、それが嬉しかった。
苦労してかぶり続けていた「手の掛からない子」というものを何の意味もないんだ、と無理矢理にでも破り捨ててくれて。そしてそれが決して強引な訳でもなくて。
ああそうか。そういうことができる人だから、俺は。