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アルテアの魔女  作者: たつみ暁
第一部『アルテアの魔女と黒の死神』
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1:セァクの祖神祭(2)

 エン・レイに七歳より前の記憶は無い。

 思い出の始まりは白い雪が舞う冬の日。皇都の城門前でぼろぼろになって飢えと寒さで動けずにいたのを、先代の皇王が拾ってくれたところからだ。

 皇王は身寄りも記憶も無い少女を湯につからせて汚れを取ると、花柄の美しい衣を着せて、温かい粥を与えてくれた。そして腹一杯になった少女が礼を失している事に気づいて恐縮しながらひたすら頭を下げると、大きな手で少女の黄昏色の髪を撫でてくれたのだ。

 皇王の事はよく覚えていない。それどころか、命の恩人なのに、どんな顔だったか、背はどれくらいだったか、声は高かったか低かったか、髪や瞳は何色だったか、眉は太かったか細かったか。何ひとつ覚えていない。

 だがとにかく皇王は、名前すら忘れてしまった寄る辺無き少女に、セァクでは高貴とされるヒノモトの言葉で「炎と冷気」を表すエン・レイという名を与え、皇族の一員に列してくれた。

 それにより、エン・レイはセァクの姫となり、弟を一人得たのである。

「氷と火」の名を持つ弟、ヒョウ・カを。


「姉上!」

 皇城の大理石の廊下を抜けて謁見の間に入ると、声変わりしたばかりの少年の快活な一声がエン・レイを出迎えた。居並ぶ重臣達が見守る中、毛足の長い絨毯を踏みしめ進み出て、玉座のあるきざはしの前で膝を折る。

「ただいま戻りました、陛下」

「そんな堅苦しい挨拶をしないでください、姉上。僕らはきょうだいなのですから」

 エン・レイとは対照的に真冬の氷原のような色の髪を持つ皇王ヒョウ・カは、赤紫の瞳に喜びの星を宿して満面の笑みを見せた。

「今年も姉上が無事にお役目を果たして、何よりです」

 嬉しさのあまり今にも玉座から腰を浮かせそうな落ち着きの無さは、十四歳という若さを思わせる。しかし弟の素直な感情を受け取って胸がじんわり温まる自分がいる事も、エン・レイは知っている。

「お役目お疲れさまでした、エン・レイ様」

 投げかけられた声に視線を転ずる。ヒョウ・カ王の傍ら、最もそば近くに直立している、影のような男だった。金刺繍を施した黒地のローブをまとって、フードですっぽりと顔を覆い隠しており、どれくらいの年齢なのか、どんな顔をしているのか、うかがい知る事ができない。それが彼の印象を一層薄くしているのである。

「あなたこそ、いつも陛下をお守りしてくださり、感謝します。ソティラス」

 エン・レイが謝辞を述べると、ソティラスと呼ばれた男はフードからわずかにのぞく口元をふっと緩め、深々と頭を下げた。

「祖神祭の成就に、セァクの民も喜んでおります。皇王ヒョウ・カ様の栄光とアルテアの巫女エン・レイ様の御名はますます世に響く事でしょう」

 ソティラスの言葉を合図にしたように、両脇の家臣達から拍手が湧いた。

「姉上」

 満足気にそれを見渡していたヒョウ・カがとうとうたまらずに玉座から腰を上げ、両手を広げた。

「こう息の詰まる謁見は無しにいたしましょう。祖神祭の成功を祝って、今夜は宴です」


 三弦琴と横笛がセァクに永く続く曲を奏で、それに乗って、鮮やかな衣をまとった舞い手達が艶やかな舞を披露する。卓についてそれを眺めながら晩餐に興じるのが、皇族の祖神祭の締めくくりである。

 高く、低く、力強く響き渡る楽曲は耳に心地良く届き、舞い手の体さばきは優雅で、ヒョウ・カ皇王の隣に座したエン・レイは我知らず微笑んだ。毎年これを見ると、ああ、春が来るのだな、と実感する。

 宴に参加した皇族や重臣、賓客の前には、腕自慢の猟師が山へ入って狩った熊肉をじっくり焼いて、醤油と山椒で少しだけ辛めに味付けした主菜を中心に、塩で漬け込み柚子の甘酸っぱさを添えた、雪の中でも育つ菜。屋外でかちかちに干した豆腐を湯で戻し甘く煮込んだものと、ほくほくした小芋の汁物、そして豆や麦、黒米など幾種類もの雑穀を混ぜ込んだ米飯。最後には鮮やかな色を加えて花の形に整えた、見た目も楽しめる羊羹。得られる食べ物が制限されている大陸北方のセァクでは、これが贅を尽くした食事である。

 皇族や貴族でも、特に冬はそうそう毎日贅沢な食事を摂れる訳ではないので、この宴に招かれる事は栄誉である。めいめいがセァク伝統の食事を堪能しながら、誰もの目が、この席に招かれた異質な客にちらちらと視線を送っていた。

 上座の皇王からほど近い位置で食後の緑茶をすすっているのは、金の装飾が施された白鎧に身を包んだ兵を数名従えている、セァクとは異なる衣をまとった、ひょろ長い手足の男だった。胸には幾つもの勲章が実績を誇示するように輝いている。歳は恐らく四十路近くだろうか。口髭をたくわえぎょろりとした獣のような目をして、隣席のセァク家臣と時折何事か言葉を交わしている。

 演奏が終わり、場に拍手が満ちる。楽団と舞い手達が優雅に腰を折って退場すると、その獣のような男が、用意されていた布で口を拭って席を立ち、ヒョウ・カとエン・レイの前にやって来て、ごく自然にひざまずいた。

「贅を尽くした食事と、心のこもった演舞、堪能させていただきました。誠に素晴らしく、感銘を受けております。イシャナからお招きいただいて、光栄の至り」

 胸に手を当て、男は高らかにのたまう。

「ダーレン少将」ヒョウ・カ皇王が静かに男の名を呼んだ。「楽しんでくださって何よりです」

「僭越ながら、エン・レイ姫のアルテアも沿道から拝見しておりました。姫君の秘術と優しきお心、いたく感動いたしました」

「ありがとうございます」

 エン・レイも皇王の姉として、しゃんと背を伸ばし、姫君に相応しくふんわりとした笑みを見せる。ダーレンはゆるく口元を持ち上げると、更に低頭し、言を継いだ。

「このような可憐な姫君であるならば、我が国王の正妃としても申し分無く、いえ、イシャナがお迎えする事は恐縮で、実に僥倖」

 しん、と一瞬その場が静まり返った。幾人かの重臣がひそひそさざめき合うが、当のエン・レイは、何を言われているのかわからなくて呆けてしまう。隣のヒョウ・カは、他国の使者という事で覚悟していたのか、わずかに表情を硬くした。

「エン・レイ姫様」

 目の前の男が続ける。

「セァクとイシャナが休戦してから十三年。両国の友好を今後も継続してゆく為に、婚姻関係を交わして絆を強化すべき、との話が、貴国と我が国で持ち上がっております」

 歌うように告げられる宣誓に、何を言われているのか理解しかねた。しかし。

「我が国の王は適齢期を過ぎてもいまだ正妃を娶っておられません。そしてセァクには姫様、あなた様がいらっしゃる」

 そこまで言われて初めて、エン・レイは自分の身にどういう運命が降りかかったかを理解した。

「エン・レイ様。イシャナ王は、あなた様を正妃にお望みです」

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