第6話 つなぎとめる手
振り返ったリュシアンは瞠目してブルーの瞳を大きく見開いた。
天空を切り取ったような瞳に間近で覗き込まれ、そこに映りこんだ自分の姿を見て、リュミエルは我に返る。
とっさに掴んでしまったリュシアンの服の裾を持つ手をぱっと開き、ゆっくりと戸惑いがちにもう一度裾を掴んで俯いた。
「あのね、さっきは馬鹿にしてたけど、本当に砦の森は危険なのよ。野宿はやめたほうがいいわよ」
俯いたまま小さな声で言ったリュミエルの頭上に、呆れたようなため息が落ちてくる。
「と言われても、さっきこの街に来たばかりでまだ宿はとっていないし、この時間じゃ、もう宿はいっぱいだろ?」
そう言ったリュシアンは、部屋の奥にある大通りに面した窓に視線を向ける。リュミエルもつられて窓を振り向けば、先ほどまで青空を切り取っていた窓枠の中には赤とオレンジを混ぜたような夕焼けが広がっていた。
宿はだいたいが夕方前にはいっぱいになってしまう。
リュシアンの言うとおり、この時間から空いている宿を探すのは難しいだろう。さほど大きくないバノーファの街には宿屋は二つしかない。
「友人が宿屋で働いているから、一緒に言って空いているか聞いてみるわ」
「いい、野宿は慣れている」
「この時期の夜はまだ冷えるわ。納屋でも、屋根と壁があるだけでもましでしょ?」
「毎回宿代払うほど持ち合わせていない」
「ならうちに泊まって、部屋も余ってるし、父さんも母さんも困っている旅人を野宿させるような人じゃないもの」
名案でしょ! とでもいうように瞳を輝かせるリュミエルは、今にも部屋を飛び出して両親にリュシアンのことを頼みにいきそうな勢いで、リュシアンは渋々おれる。
「……、わかった。宿に行けばいいんだろっ」
投げやりに吐き出したリュシアンの言葉に、リュミエルは満面の笑みを浮かべる。
「風見鶏亭にも知り合いはいるけど、小鳩亭の方が格安だから小鳩亭に案内するわね」
宿に泊まると言っただけなのに、とても嬉しそうにしているリュミエルを見て、リュシアンは不思議な気分だった。
他人を、しかもついさっき知り合ったばかりのどこのだれかも分からないような人間を、自宅に泊めてもいいと言うリュミエルはお人好しすぎる。
確かにこの時期の野宿はまだ冷えるが、旅をしていて宿に泊まることよりも野宿の方が断然多かった。リュシアンにとって野宿は当たり前のことで、こんなに心配されるようなことではないのだが。
心配そうに見上げる翠の瞳はあまりにも澄んでいて。
こんなふうに誰かに心配されることなどいままでなかったが、リュミエルに心配されるのは、嫌ではなかった――
リュシアンが村を出たのは、月も輝かない墨を流したような漆黒の夜だった。
逃げるように村を出、幾日も寝ずに走り続けた。
迫ってくる追っ手を何度も撒いてやり過ごし、身を隠すような日々――……
暗く冷たい記憶が脳裏にちらつき、リュミエルはその記憶を振り切るように頭を一度振ってぎゅっと唇を噛みしめると、嬉々として階段を下りていくリュミエルの後に続いた。
※
薬屋を出て大通りを進み、中央広場を越えて更に大通りを進んだところで、リュミエルは止まった。
店の軒先には金色の鳩の形の看板が出ている。
「ここが友人の働いている小鳩亭。料理がすっごく美味しくて、お値段も良心的だから安心して。空きがあるか聞いてくるからちょっとここで待ってて」
「ああ」
素直に頷くリュシアンを見て微笑んだリュミエルは、小鳩亭の扉を押し開いて中へと入っていた。
しばらくして店から出てきたリュミエルは満面の笑みを浮かべ。
「ちょうどキャンセルが出て空きが一部屋あるって。私の知り合いって言ったら、宿代もまけてくれるって言ってたよ、よかったね」
知り合い――という単語に内心首を傾げずにはいられなかったが、あえて突っ込まずにリュシアンはお礼を言った。
「世話になった、ありがとう」
「どういたしまして。あっ、私こそ、その……」
思いついたように口を開いたリュミエルは、少しためらいがちに視線をそらす。
「森では盗賊から助けてくれてありがとうってお礼をまだ言ってなかったわ……」
言いながら、だんだんと声が小さくなっていく。
砦の森でリュシアンに地面に押し倒されて、おまけに覆いかぶさられたことを思い出してしまって、自分でも分かるくらい頬がかぁーっと赤くなっていく。
整った眉と通った鼻筋、涼しげな唇、二重の切れ長の瞳は青空を切り取ったようなブルー。ドキっとするほど澄んだその眼差しの底には、野獣のようなきらめきがあり、気品に満ちた色香が漂っていた。
間近で見た、息も止まるほど端正な美貌を思い出して。キスされそうになったことを思い出して、恥ずかしさでもう頭が爆発しそうだった。
誤魔化すように話題を変える。
「あの、リュシアンはいつまでバノーファにいる予定なの?」
「特に決めていないが、しばらくはいるつもりだ」
「そうなんだ、じゃあ、また会うかもしれないね」
そう言って、なんとか気力を振り絞って、リュミエルは顔を上げた。
きっとまだ顔は真っ赤だろうけど、すでに日は沈み始めてて、気づかれないだろうと思う。
リュシアンは、一瞬、遠くの方を見ていて、リュミエルの視線に気づいてこちらを見下ろした。
「ああ、そうだな。ちょうど切れてる薬があるんだ」
「そうなの? それなら、うちのお店に来て。たいていの薬ならそろっているわ」
誇らしげに薬屋の話をするリュミエルを見て、リュシアンは意味深に微笑んだ。
「近いうち、寄らせてもらう」
「うん、待ってるわ。じゃあ、今日は本当にありがとう」
「礼を言わせてほしいのは俺のほうなんだけど」
困ったように苦笑し、リュシアンはリュミエルの頬にそっと触れて、すぐに踵を返して、いい香りの漂う小鳩亭の扉をくぐっていった。