第10話 誘惑の甘い夜
中年女性の後をついて階段を登り細長い通路を進み、案内されたのは四階の部屋だった。
「少し狭いけど、眺めは最高だよ」
そう言って自慢げに微笑んだ中年女性が扉を閉めた音が、室内にやけに大きく響く。
なんだか流されて泊まることになってしまった。しかも、一部屋って……
まあ、一部屋しか空いていないんだから仕方ないのかもしれないけど……
もやもやと考え込んでいたリュミエルはちらっと視線を上げる。
中年女性が出て行った途端、抱き締めるようにリュミエルの腰に回していた腕を解いたリュシアンは、窓側に置かれたテーブルにどさっと荷物を置いた。
リュシアンが動くたび、襟元で結わかれた長い銀髪が意志を持った生き物のように揺れ動く。整った眉と通った鼻筋、涼しげな唇、二重の切れ長の瞳は青空を切り取ったようなブルー。ドキっとするほど澄んだその眼差しの底には、野獣のようなきらめきがあり、気品に満ちた色香が漂っている。
息も止まるほどの端正な美貌の横顔を見て、ぼそっと小さな声で悪態つく。
「さすが、慣れているというか……」
初めて砦の森であった時、リュシアンに押し倒された時はなにがなんだかわからなくて混乱していたけど、今日一日、一緒に王都で過ごして分かったことがある。
リュシアンは女ったらしだ――
整いすぎた美貌のリュシアンは歩いているだけで女性の視線を集め、リュシアンとお近づきになりたくて声をかけてくる女性はたくさんいた。
そのどの女性にも、リュシアンは笑顔で優しく接し、過剰にスキンシップしていた。
助けてもらった直後に、押し倒されてキスされそうになって、ドキドキしてしまったけど、あんなのリュシアンにとっては日常茶飯事だったのだ。
自分が特別かもしれないと、ちょっとでも思ってしまったリュミエルはなんだか悔しい。
むっとした表情で唇を噛みしめていたリュミエルに、窓辺に置かれた一人掛けの椅子に長い脚を投げ出して座ったリュシアンが小首をかしげる。
「なにむくれてるんだ? もしかしてさっきの気にしてる?」
その指摘が図星だっただけに、リュミエルは押し黙る。唇を引き結んだまま訝しげな視線をリュシアンに向けた。
「妹って言った方がよかったか?」
小馬鹿にしたような視線に苛立ちが募る。
「そういう問題じゃないの!」
「じゃあ、なんだよ?」
なにが問題なのさ? というように、不思議そうに首を傾げるリュシアン。
「どうして同室なの!?」
「仕方ないだろ、一部屋しか空いてなかったんだから」
「そうだけど……、他の宿なら空いていたかもしれないじゃないっ」
「王都の西端のこの宿が満室だっていうのに、他に二部屋空いている宿があると思う?」
「うぅ……」
「一日歩きまわって疲れてるのに、そのうえまだ歩き回って空いているかどうかも分からない宿を探すなんて、合理的じゃないだろ」
「ぅ……」
「だいたい、持ち合わせのないあんたと出費は押さえたい俺が泊まれる低価格で、安全な宿っていったらここより条件がいいとこはそうそうみつからないと思うけど?」
「……っ」
なにも反論できなかったリュミエルだけど、これだけは譲れないと思って、思い切って反論を試みる。
「でも、だからって同室なんて……」
「屋根と壁があるだけでもまし――って言ったのは誰だった?」
澄んだ青空のような眼差しでじっと見られて、リュミエルは言葉に詰まる。
そう言ったのは紛れもない自分だった。
「歩き回って疲れてるんだから、これ以上騒ぐな」
迷惑だというようにため息と共に吐き出されて、リュミエルはこれ以上我が儘を言うのはやめた。
この状況で、ここに泊まるしかないのは仕方がないことで、自分が言っていたのは我が儘でしかないと分かっているから、今日は泊まることも、リュシアンと同室ということも諦めることにした。
なにより、リュミエルのお腹が限界を告げていた。
ぐぅ~~きゅるるるるぅ…………
盛大な主張をしたお腹を、リュミエルは慌てて抑えた。
椅子に座っていたリュシアンは、何の音だというように瞳を大きく見開き、真っ赤になったリュミエルを見て、ぷっと噴き出した。
「すごい音だな」
「…………っ!?」
恥ずかしさで、穴があったら埋まりたいぐらいだ。
朝が早かったから朝食はそれほど食べていないし、昼食もお財布事情からお腹いっぱい食べることはできなかった。その上、一日中歩いていたのだ、お腹が空くのは当たり前。
リュミエルは若干開き直ったていで、ぷいっと顔をそらして言う。
「お腹すいたー、食堂いこっ」
精一杯強がって言ったリュミエルを見て、リュシアンは、ぷぷぅーっと噴き出してしまった。
※
一部屋しか空いていないのは残念な部分だったが、食堂のシステムにはリュミエルは感動した。
メイン料理を頼めば、副菜とご飯、それからパンとスープが食べ放題だった。
食堂の奥には白い清潔なクロスのかけられた細長いテーブルがいくつか置かれ、その上に、お皿に乗ったサラダやら、野菜炒め、パン、スープが置かれていて、客が自由に、好きな量だけよそっていいのだ。しかも、おかわり自由と聞いて、メイン料理の料金だけでこんなに食べれるなんて驚きを通り越して感激ものだった。
リュシアンは以前に一度だけ、この宿を利用したことがあるらしく、低料金で夕食がたんまり食べられるというのもあって、この宿を選んだらしい。
生まれ育ったバノーファを出たことがなかったリュミエルには驚きのシステムだったが、王都の宿では、配膳の人件費を削減できるためよく用いられているらしい。
食べそこなった朝食の分まで食べてお腹をふくらませて、お風呂にも入ってさっぱりして部屋に戻ってきたリュミエルは、この時、すっかり忘れていた――もとい、考えないようにしていた現実を突きつけられる。
部屋に入ると、壁際にどーんっとベッドが一つ……
これ、どうするんだろう……
そうなのだ、部屋にはベッドが一つしかない。
大きさからして、二人で寝れないこともないけど……、それってどうなの!?
男の人と一つのベッドで一緒に寝るとか無理――っ
頭の中が大混乱で、ベッドの前で立ちつくしていると、ぎしっと床の鳴る音がして、突然、耳元で話しかけられて、リュミエルは心臓が大きく飛びはねる。
「なにやってんだ?」
お風呂を済ませて後から部屋に入ってきたリュシアンは、ベッドの前に立つ尽くしてうんうん唸ってるリュミエルを不思議そうに見やり、すぐ真後ろで立ち止まり顔を覗きこむように尋ねた。
突然至近距離で顔を覗き込まれたリュミエルはあまりに驚きすぎて、反射的にずずっと後ずさりして……、こけて床に尻餅をついてしまった。
「なにやってんだ」
くすくす笑いならがリュシアンは言い、リュミエルの横を素通りし、ベッドに向かう。
「早く寝ようぜ」
さも当然のように掛布をめくりベッドにもぐりこむリュシアン。
なんとか立ち上がって微動だにしないリュミエル。
「…………っ」
なにか言いたそうな視線に気づいたリュシアンは、ベッドに片肘をついた態勢でリュミエルを見上げる。
「なに?」
「ベッドが一つしかない……」
「ここの部屋しか空いてないんだから仕方がないだろ」
「でも……、知らない男の人と一緒のベッドで寝るなんて……」
顔を真っ赤にして視線をそらしながら言ったリュミエルを見て、リュシアンは一瞬、眉根をしかめ、ため息をつく。
「なら、床で寝れば?」
冷たい口調で吐き出したリュシアンは、そのままベッドに横になり、肩まで掛布を引き上げた。
こちらに背中を向けてベッドで寝てしまったリュシアンを見て、リュミエルは唇を噛みしめる。
リュシアンと同室なのも、ベッドが一つしかないのも仕方ないって分かってる。でも、やっぱり一緒に寝るなんてできない……
胸の中が苦しくなる。
仕方ないのよね。一緒には寝れない、それなら、私はソファーで寝るしかないよね。
救いなのは、窓側に横になれそうな二人掛けのソファーがあることだった。
しばらく立っていたリュミエルは諦めたように俯き、のろのろとソファーへと歩き出した。
だが一日歩き回った疲れだろうか、足は重く、つんのめってしまう。
倒れる――っ
そう思い、ぎゅっと強く瞳をつぶったリュミエルは、床ではなくなにか温かないものに衝突した。
「たくっ……、なにやってんだよ」
呆れた口調が頭上からして瞳をあけると、リュミエルはリュシアンのたくましい胸の中に抱きしめられ、そこにめいいっぱい頬を埋めていて、心臓が大きく跳ねた。
いくらたってもリュミエルがベッドに入ってこようとしない気配に、リュシアンがベッドを出たのと、リュミエルがソファーにのろのろと動き出してつんのめったのが同時だった。
転びそうになるリュミエルを抱きとめたリュシアンは、呆れたような微笑を浮かべて、吐息をもらす。
瞬間、リュミエルの背中と膝の裏に腕を回し、リュミエルを抱き上げた。
リュシアンの腕に包まれるように抱き上げられて、見上げれば、すぐそばにリュシアンの端正な美貌があって、心臓が騒ぎ出す。
近いっ、近すぎる……っ
恥ずかしさと、どきどきとうるさい心臓にリュミエルは耐えられなくてぎゅっと瞳をつぶった。
リュシアンはそんなリュミエルを見てふっと微笑を浮かべ、ベッドへと歩き出した。