いつも笑顔な婚約者の裏の顔
学園のティールームにて、私は婚約者のアーヴァイン王子と茶会を楽しんでいた。
大きな窓からは庭園が一望出来る。鮮やかな緑に、満開の薔薇が眩しい。
メイドが一人、私のカップに紅茶を注ぎ入れていく。
香りをたっぷり纏った湯気が立ち上る。芳醇な匂いが身体を吹き抜けるようだ。
「この※ルークレイの香り、懐かしいです」
※ルークレイ:この世界における紅茶の産地、ルークレイ地方で生産される茶葉のこと。高級品。
アーヴァイン様は眉を上げる。
「ルークレイなんて公爵令嬢の君なら珍しくもないだろう」
「ええ。ですがこの匂いを嗅ぐたび、あなたと会った時のことを思い出すのです」
王子が初めて会ったのは12歳の頃。アーヴァイン第三王子の婚約者候補として、私が名を連ねた時だった。
初対面で茶会となったのだが、その時に出てきたのもルークレイだった。王子は今より一回り小さくて、幼さの残る顔をしていた。今も美しいけれど、その時の彼は本当に天使そのものだった。
私は一目見た時から彼を好きになった。会話を通してもっと好きになった。
けれど、それを婚約前に伝えることは出来なかった。その会が終わった時、唐突に
「僕と結婚してくれ」
と、先に告白されてしまったからだ。
「残念ながら、あの時の紅茶の味も香りも覚えていないんだ」
王子は困ったように笑う。困り顔にも他を寄せ付けない高貴さがあった。
「アーヴァイン様はあまり紅茶に興味がありませんものね」
「ノエル、そうじゃない」
王子は私の手を覆うように握った。笑顔から一転、真剣な瞳になる。
「だって、あの時僕はずっと君に夢中だったからね」
顔が沸騰したかのように熱くなった。恥ずかしくて思わず視線を逸らせてしまう。アーヴァイン様は普段からこんなことを言う人ではない。けれど時々、唐突に甘い言葉を囁いてくる。
こちらとしてはガードが緩んでいるものだから、一発の破壊力は抜群だ。
「そういえば」と私は切り出した。話題を変えようと思ったのだ。
「アーヴァイン様には言っていませんでしたが、当時私の義母は婚約に反対していたのです」
一瞬、アーヴァイン様の動きが止まった。表情も固まる。けれど直ぐ元に戻っていた。
「そのことならガーネット公爵から聞いたよ」
父がアーヴァイン様に話していたというのは意外だった。彼は醜聞に繋がりかねないことを徹底的に隠そうとする性格だからだ。
「ノエル、どうして急にその話を?」
まるで羽毛のベッドのような、柔らかい口調だった。王子は相変わらず眩しい笑みをたたえている。
「いいえ、ただ、婚約当時のことを話していたら思いだしたのです。義母と上手くいっていない時期が続いていたことを」
アーヴァイン様は相槌を打っている。
「今でこそ言える話ですが、当時はとても辛い思いもたくさんしました。けれど義母も最終的には婚約を認めてくれて、それまでのことを謝ってくれたのです」
「そうか……。確か君のお義母さまは今、もう居ないよね」
「ええ。でも今思えば、もっと仲良くしておけばと考えてしまいます。だってあの人も根は悪い人ではなかったのですから」
私が言葉を切った時、アーヴァイン様は俯いていた。手首で紅茶をぐるぐる揺らしている。
「悪い人ではなかった、ね」
窓から入る眩しい昼の日差しが、王子の笑みを片側だけ陰らせていた。
◆
ノエル・ガーネットと出会う前、僕の心は荒んでいた。王位継承権のことで毎日母親から叱咤されていたのだ。母は寵妃であり、僕は三番目の王子だった。故に継承権などよっぽどのことが無い限り巡ってこない。
それは母も分かっているはずだった。しかし「あなたは何をしてでも王になるの」「無能な兄なんて蹴散らしてしまいなさい」「とにかく勉強するの。あなたの優秀さを示せば、国王陛下もきっと分かって下さるはずよ!」と言い続けた。
その上毎日凄まじい詰め込み教育を受けさせ、少しでも僕の成績が下がると目に見えて落ち込んだ。自身は内政に終始し、何とか王宮内での味方を増やそうと必死になっていた。
完全に浮いた存在だったのだが、本人は全く気付かない。いや、気にしていなかったのだろうか。
どうやら王位に固執したのは正妃との対立、不仲が原因だったようだ。けれど親同士の対立を代理戦争させられるのは、しんどくて仕方なかった。
そのせいで本来仲が良かった二人の兄弟とも、どこかよそよそしい関係になってしまい、心の休まる時など全くなかった。
◆
12歳の時、第三王子の僕にも婚約の話が持ち上がった。候補は全部で5人。ガーネット公爵家のノエルもそのうちの一人だった。
全く乗り気ではなかった。異性のことなど考える余裕も無かったし、そんな暇があるなら勉強をするべきだと思った。
けれどノエルを初めて見た瞬間、全てが覆った。
公爵邸で会った彼女は、まるで春先に咲く花のように凛として輝き、可憐で、女神のように美しく見えた。
「初めまして、アーヴァイン王子。お会い出来て光栄ですわ」
その笑顔は僕の冷え固まった心を、穏やかに溶かしてくれた。彼女と会っている時だけは嫌なことを考えずに済んだ。いや、考えられなくなった。
それほど夢中になっていた。
後になって思えば、あの時も彼女は酷い目に遭っていたはずだ。それなのに僕に気を使い、ずっと優しく接してくれていたのだ。
茶会が終わる時、我慢が出来なくなった僕は彼女の前に傅いていた。彼女の小さな手を握り、言った。
「ノエル嬢、僕と結婚してくれないか」
言ってから壮絶な後悔が押し寄せる。
断られたらどうしようという恐怖、そして顔から火が出るほどの恥ずかしさで熱い身体。
そもそも同世代の異性とまともに話したことだって初めてだったのだ。けれど、その時の僕は、何をしてでも彼女を誰にも渡したくないと思ってしまったのだ。
自分にそんな独占欲があるなんて全く知らなかった。
ノエルは驚きに目を瞠っていたけれど、やがて花開くような笑顔に戻った。
「はい、喜んで」
こうして他候補に会う前に僕とノエルの婚約が進められることになった。
間違いなく、僕の人生で最も嬉しい出来事の一つだった。しかし気がかりもあった。この婚約を、母が許してくれるかだ。
◆
ほどなくして僕の母とノエルの会う機会が巡ってきた。
母はノエルのことを気に入らないだろうと考えていた。彼女は美しいけれど、頭の回転が早い方ではない。母はもっと外交的で、強かな女性を好むと思った。
事実、「あの子じゃ王妃になれないわ」と彼女との対面が終わった直後に吐き捨てていた。
けれど母は事あるごとにノエルと会いたがった。「プレゼントは何にしようかしら」と悩んでいたり「ノエルに刺繍入りのハンカチを貰ったのよ。あなたが貰ったものより手が込んでいると思わない?」と自慢げに見せつけてきたりした。
そして想定外だったのは、彼女と会う回数を重ねていくうち、僕に「王を目指せ」と言わなくなっていったことだ。
彼女にどんな心境の変化があったのか、はっきりとは分からない。ただ母は僕の姉を生んだ後、早くに亡くしてる。
そのことをずっと悔やんでいた。死んで20年近く経った今でも、母は娘の墓の前で「守ってあげられなくてごめんなさい」と泣きながら謝るのだ。母親が子供を亡くした悲しみは計り知れない。
母は自分の娘と、大らかで、無垢な柔らかさに満ちたノエルを重ね合わせたのかもしれない。
王妃を目指すということは、険しいいばらの道を歩くに等しい。我が娘のように可愛がっている彼女に、そんな思いをさせたくないと考えたのだろう。
何にせよ、僕としては本当に助かった。ノエルは僕と、そして母の心も救ってくれたのだ。
不毛な権力闘争に駆り出されることもなくなり、ある程度は自分の時間を取れるようになった。兄との仲も徐々に回復していった。
全てノエルのお陰だ。感謝してもし切れない。
だからこそ、彼女のことは何があっても守る。どんなわがままも聞いてあげようと決意したのだ。
僕たちの関係は順調に育まれていったけれど、正式な婚約はまだ決まらなかった。ノエルの話では、どうやら公爵家の方で、ちょっとしたトラブルに手間取っているのだという。
こちらとしては結婚するのは決定事項だと考えていたし、多少遅れようと問題は無いと考えていた。
八度目にノエルと会った時のことだった。
彼女はいつものように笑顔だった。けれど彼女のことを観察してきた僕には分かった。何か悩みを抱えている。
「何かあったのかい?」と聞いてみる。しかし何度聞いてもはぐらかされてしまう。
どうすれば話してくれるのだろう。そう考えていた時。
「アーヴァイン様、ほら、あそこに青い鳥が飛んでいますわ」
咄嗟のことで油断していたのだろう。彼女は右手を突き上げ、空の鳥を指さした。その一瞬、見えてしまった。
袖口から覗く痛々しい包帯が。
そこから先、僕は彼女と何を話したか一切覚えていない。頭の中にあったのは「ノエルにあんな仕打ちをしたのは誰か」である。
もしノエルが自分で転んだだけなら僕に秘密にする必要はない。誰かから傷つけられたのだと考えられた。
王宮に戻った僕は、早速父であるローラン王に面会を求めた。会えたのは二日後の朝だった。
「隠密を使う許可を下さい」
頭を下げて願い出る。
彼らは特殊な訓練を受けており、諜報や密偵、そして暗殺を速やかに遂行することが可能だ。
僕も小さい頃から隠密とコミュニケーションを取る機会は何度かあった。「将来、国の中枢を担う者ならば隠密を使えて当然」というのが父の考え方だったからだ。
そして一か月後、僕の元に隠密の報告書が届いた。勉強する手を止め、かじりついて読む。
手が震えた。思わず唇をかみしめた。じわり血の味が広がる。
そこにはノエルが義母に、過酷ないじめを受けていると書かれていたのだ。
◆
ノエルの義母、マドリンが公爵家に入ったのは6年前。ガーネット公爵とは歳が10も離れている。マドリンは気の強い女性で、精神的な作法を非常に大切にする人だったようだ。
娘のルドミラも連れて来ていたが、ノエルから見て義妹にあたる彼女はいじめに関与していなかった。
義母のマドリンは当初からいじめをしていたわけではなかったが、「娘のルドミラこそ王妃に相応しい」と周囲に言い続けていた。
夜会でも王族や王宮で働く文官を見つけては、何とか印象を良くしようと必死に立ち回っていた。ルドミラにも「気合で王妃になるの」「覚悟さえあれば何でもうまくいくのよ」と毎日のように言っていたようだ。
ところが当のルドミラには全くその気が無かった。というか、素行不良でさえあった。
ノエルが僕の婚約者に選ばれる直前、彼女は店主の見ている前で、堂々と店の物を盗って逃げるという問題行動を起こし、修道院送りになっていた。
これは公爵家の秘密とされていることで、外部には漏れていないようだ。
「当てつけ」だったのだろう。
ルドミラは母親を酷く嫌っていた。彼女の都合の良い存在に、絶対なりたくなかったのだ。
直後、ノエルが僕の婚約者に選ばれたことで、マドリンのいらだちは一気に爆発した。嫉妬、悔しさ、怒り。様々な負の感情が全て種火となったかのようだ。
すれ違う時にわざとぶつかって転ばせたり、些細なことで長時間説教することもあった。
ノエルの父親は仲介を試みようとしていたが、妻に強く言えず、全く役に立っていなかった。
義母の行動はエスカレートしていく。わざとノエルがミスするように仕向け
「覚悟が足りないからそうなるのです。常日頃から覚悟を持って生活していれば、ミスすることも、出来ないこともありません」
と説教し、鞭で打った。精神論が全てにおいて無駄だとは思わないが、マドリンはそれを、ノエルをいたぶる道具にしていたのだ。
彼女は「ノエルが王子と結婚するくらいなら婚約を台無しにしてやる」と考えていたのかもしれない。
報告書を読み終えた僕の心に、それまでの人生で感じたことのない闇が芽生えていた。
どす黒く、塗り潰せと叫ぶ欲求。
それは僕を飲み込んで更にに肥大化しようとしているようだ。
花にたかる悪い虫は駆除しなければ。
報告書から顔を上げた時、ちょうど机の上に置いてある鏡の中の自分と目が合った。笑っていた。思ったよりも、飛び切りの笑顔だった。
何だ、ノエルと会っていなくても、こんな笑顔が出来るんだ。ある意味新鮮な気持ちになる。
そして僕は隠密に丁寧な口調で言った。
「立派な覚悟を持っておられる公爵夫人に、是非招待したいところがあるんだ。お連れしてくれるかな」
◆
「お、下ろしてください!」
金切声が冷たい晩秋の夜にこだまする。
マドリンはロープで雑に縛られ、木から逆さづりに垂らされていた。
……ただ、その枝は断崖絶壁に伸びていて、彼女はその先端付近に吊るしてある。
「下ろしても良いですよ。真下になら、ね」
僕が言うとマドリンはぶるぶると首を振る。
「そ、それは止めて下さい!」
ため息が出る。こんな根性も気概も無い女が「覚悟が足りない」とノエルをいじめていたというのだから。
「下ろせと言ったり、下ろすなと言ったり、結局どうして欲しいのですか。寒いから早くして欲しいのですが」
「そんな理不尽な! ……じゃ、なかった。か、寛大なるアーヴァイン王子! どうしてこんなことをするのです。私は何も、あなたに敵意を向けたことなど……」
僕は木を伝うロープにナイフを近づけた。
「ま、待って! お願いです! 謝ります! ノエルのことですよね!?」
「おや、心当たりがあるんじゃないですか」
僕は嬉しくなって、つい微笑んでしまう。
「あなたの婚約者を傷つけてしまい、本当に申し訳ございません! もう二度と彼女をいじめたり、不当に扱ったりしませんから、どうか……」
僕は無言でロープにナイフを入れる。
「ああ! 待って! お願い! 何でもするから! 助けて下さいぃいい!!!」
みっともなく泣き叫ぶ。
公爵夫人とあろう者でも、こうなってしまえばただの死にかけた一つの生き物でしかないわけだ。情けなく泣きわめく彼女には妙な説得力がある。
「助けてって、どうして僕に言うんですか?」
尚もロープを切り続ける。
「ど、どうしてって! それはあなたが私を攫って、こうして吊るしているから……」
「こんな時こそ、気合と根性で乗り切ってみせて頂けませんか?」
マドリンの目も口も大きく開かれている。どうやら僕の意図を察してくれたらしい。
今一度、彼女に笑ってみせた。
「覚悟、足りてますか?」
その瞬間、ぶちっ、と音がしてロープが切れる手ごたえがあった。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
悲鳴を上げながらマドリンは奈落の底
に、落ちていなかった。
マドリンも冷静に考えれば分かったと思うのだが、彼女を繋ぐロープは木に括りつけられているだけで、こちらの手元にはない。
僕はただ木に縛り付けてあったロープを切っていただけだ。
マドリンは亡者のように白目を剥いて失神していた。
もしかしてショック死したのかとも思ったけれど、それはそれで特に問題なかった。
***
僕はマドリンの命を助ける代わりにある約束をさせた。
今後二度とノエルをいじめないこと。誠心誠意謝ること。そして一か月以内にノエルの前から消え、その後僕と彼女の前に、一切顔を見せないこと。
この一つでも果たせなかった場合、今度こそ本当の地獄を味わうことになると「助言」した。
こうしてマドリンはノエルに手をついて深々と謝罪した後、「自分の過ち」を理由に離婚を申し出、公爵家を出た。そのまま修道院に入り、今をもって出ていない。きっと二度と出てこないだろう。
ちなみにマドリンとほぼ入れ違いで修道院から出たルドミラは、現在平民として気ままに暮らしている。
「この方が性に合ってるから」
と本人は言っているようだ。
その後、直接、間接的にノエルに触手を伸ばす輩は何人か現れた。僕はその全てを排除してきた。
ノエルは何も知らない。知らなくていい。きっと優しい彼女は胸を痛めてしまうだろうから。
その証拠が先日のベティという男爵令嬢の件だ。
ベティはノエルに馴れ馴れしく付きまとっており、ノエルはとても迷惑していた。
だからほんの少しだけ、お灸をすえてやった。
そのことを示唆した途端ノエルは大きく動揺していた。やはり、言う必要なんて無かったのだ。
◆
「どうか、されたのですか?」
ノエルが心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。どうやら昔のことを思い出していたら、ずっと俯いてしまっていたらしい。
「何でもないよ。君に心配して欲しくて、わざと深刻な顔をしてみただけさ」
「まあ」
ノエルの顔がぱっと華やぐ。
君は花だ。どんな時も僕の心を癒してくれる。君にしか出来ない役割。僕の唯一の宝物。
けれど、どんな花も一輪じゃ咲けない。土や泥から、虫や動物の亡骸から、栄養を吸い上げることによって、はじめて可憐な花が咲くのだ。
ならば僕は喜んで土であろう。泥になろう。亡骸だって積み上げてみせる。
ノエルが傍で咲いてくれさえするのならば、僕は喜んで手を汚す。
それが恩人であり、最も愛する彼女への、僕の覚悟なのだから。
おわり




