一
『食べることが怖い』
そう思うようになったのはいつからだろう。
歯車が狂いはじめたのは、彼氏の恭平くんとの同棲生活が始まって少し経った頃だった。
恭平くんは2歳年上。付き合って半年経った頃、彼がふいに言った。
「瑞穂、そろそろ同棲しない?」
私はちょうど32歳になったばかり。
将来のことを考えるには、悪くないタイミングだった。
周りでは結婚する友人が増えてきて、私だけが取り残されていくような感覚。焦りが心のどこかにあった気がする。
だから、結婚への近道になったらいいな。そういう淡い期待が芽生えたのも事実だ。
同棲開始してからは、一緒に買い物へ行ったり。ソファでテレビを観ながら、並んでごはんを食べたり。
ずっと一緒にいられる日常が、すごく幸せだと感じた。
そんなあたり前の日々が続くものだと思っていたのに……。
ある日、付き合っていた恭平くんが何気なく言った。
「……なあ、最近ちょっと食べ過ぎじゃない?」
「え? なにが?」
向かい合ってごはんを食べている最中。
何を言っているかいまいち理解できず、もぐもぐと頬張ったまま聞き返した。
すると、彼は眉間にしわを寄せる。
「女の子なのにそんなに食べる? 普通、女の子はもっと気を使うんじゃない?」
その言葉が胸に突き刺さった。言われるがまま、視線を落とすと私が食べていた生姜焼きと、白米はまだ半分ほど残っている。
「え、でも……このくらい普通じゃないかな? 大盛り食べてるわけじゃないし」
私は曖昧な表情のまま、言葉を選んで言い返した。
たしかに食べることは好きだ。だけど、量で言えば人並だと思う。
「太らない体質ならいいけど、そうじゃないじゃん?」
笑って流せたら良かったのに、私はその瞬間から箸を持つ手が止まっていた。
「わ、私。太った……かな」
「うん。前よりちょっとね」
素っ気なく言った彼は、一向に私のことを見てはくれない。
「俺の友達の彼女とか、みんな細いしさ。努力してる感じ? 瑞穂も、もうちょい気をつけたら?」
努力。気をつける。
その言葉はまるで今の自分はダメと言われているようで、心がひりついた。
私は食べかけだった生姜焼きを、箸でつまんで見つめる。口に運ぶ手を止めて、そっと箸を置いた。
「そう、だね。ちょっとダイエットしてみようかな」
その日から私は食べることを、意識しすぎるようになった。
「それ食べるんだ?」
「痩せるって言ってなかった?」
「どんだけ我慢できないんだよ」
彼の放つ一言一言が積み重なって、私の心をむしばんでいく。
食べれば太る
太れば嫌われる。
嫌われたら捨てられる。
捨てられたら婚期が遠のいてしまう。
普通にお腹いっぱい食べてしまった時は、罪悪感がつのるようになった。
なんとか食べたものを減らしたい一心で、便器の前にしゃがみ込んだりもした。
ひんやりした床の冷たさは、まだ記憶に残っている。
そこにいる自分自身が、ひどくみじめに思えた感情も。
震える手を口もとへ近づけた途端に身体がはっきり拒否するのがわかった。
胃の中が重くうずくのに、吐き出す気配はどこにもない。
吐き出すこともうまくできなくて、気づけば食べることが、怖くなっていた。
そんな私の変化に、恭平くんは気づかない。
食事に手を付ける回数が減った私を見て、むしろ努力してると褒めた。
そのたびに、心がずきんと痛くて息苦しい。
努力なんかじゃない。ただ食べることが怖いだけなのに。
それから、私は偶然恭平のスマホを見てしまった。
そこに映っていたのは、私より細い女の子と撮った写真。
ああ、やっぱり
ギリギリで保っていた心がぐしゃりと潰れた。
もう……無理だ。
私は荷物をまとめ、同棲していた家を出た。
行き場はなかった。実家は飛行機で帰る距離だし「家に泊めて」と気軽に言える友達もいない。
ホテルに泊まるお金だって、馬鹿にならないし数日も続かない。
頭の中でぐるぐると考えた末に、私は家を出た足で不動産屋へ駆け込んだ。
「す、すぐに入居できる部屋……ありませんか」
扉が開いて第一声がそれだった。
不動産屋さんの男性は、目をぱちくりとさせた。必死にキャリーケースを引いていた私は、ひどい血相をしていたんだと思う。
だけど、さすがは接客のプロだ。次の瞬間には爽やかな笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませ。本日担当します。川村と申します」
そう言って、カウンターの席に案内された。丁寧に渡された名刺を受け取って、その場に置いた。
私より年下に見える川村さんは、不思議と安心できるような風格があって、声も落ち着いている。
そんなことを考えていたら、別の女性職員さんが横からお茶の入ったカップをそっと置いた。
軽く会釈をして、出されたお茶をじっと見つめる。
お茶だからカロリーはないか。あ、でも飲みすぎるとむくむ?
口にするより先に、そんなことを考えてしまう。
その時ハッと我に返る。
もう恭平くんとは別れたんだから、気にしなくていいのに。
習慣になってしまったのかもしれない。
小さな一口を飲んで、一息つく。
それだけで罪悪感が残る。
「こちらに記入していただけますか?」
川村さんが差し出した紙に書かれた項目は、名前、職種。簡単な私の情報を書く欄。指定された必要事項を書いて埋めていく。




