第44話 貴族のルール
ルーベンが去ってからのギルドは、元の喧騒に戻った――ように見えた。
けれど、何かが一枚挟まったみたいに、空気が重い。
笑い声が少ない。依頼票を剥がす手が遅い。
そして何より、受付の職員たちがやけに忙しそうだった。
セレスは表情を変えずに、ギルド長へ近づいた。
「……今の話、詳しく聞かせて」
ギルド長は一瞬だけ目を泳がせ、周囲を確認してから小声で答えた。
「……奥の部屋だ。ここでは話せん」
◇
奥の部屋は、紙の匂いがした。
帳簿、契約書、寄付名簿。
冒険者が汗で稼ぐ場所の裏側に、冷たい文字の世界がある。
ギルド長は扉を閉め、深く息を吐いた。
「……セレス。お前の名前が出た時点で、嫌な予感はしてた」
「誰から?」
「ルーベンの家からだ。正確には“名代”。
ここ数日、支援金の流れが止まりかけてる。追加の監査も来る」
リアナが机を叩きそうになって、堪えた。
「監査って何だよ。金出してるからって、何でも言えるのか?」
「言えるんだよ」
ギルド長の声が苦い。
「……少なくとも、この街じゃな。
支援が切れれば、医務室の薬も、救助班の装備も、滞る。
人が死ぬ」
ミナが唇を噛んだ。
「そんな……」
ハヤトは拳を握った。
剣でも電気でもどうにもならない“仕組み”が、ここにある。
セレスはただ静かに聞いていた。
怒りを見せない。焦りも見せない。
でも、その沈黙の硬さで分かる。内側は燃えている。
「ルーベンは何を要求しているの」
セレスが問う。
ギルド長は視線を落とし、言った。
「……お前を連れて帰ることだ。
“保護”って言葉を使っていたが、要するに囲う。
お前が冒険者として動くのを止めさせたい」
セレスは頷いた。
「予想通りね」
リアナが叫びそうになるのを、セレスが指先だけで制した。
「私がここで暴れれば、ルーベンの思う壺。
ギルドは“貴族に喧嘩を売った”ことになる」
「じゃあ、どうするんだよ!」
リアナが歯を鳴らす。
セレスはギルド長の机の上の書類を一枚取った。
寄付名簿。支援者の名前と金額、用途。
その紙を眺めながら、淡々と口にする。
「“貴族のルール”で戦う」
ハヤトが小さく言った。
「ルール、って……」
「言葉と契約と、立場の取り合い」
セレスは紙を戻す。
「剣で勝てない相手に剣を抜けば、負ける。
だから私は、相手の得意な盤で勝つ」
◇
ギルドを出た瞬間から、圧は始まった。
依頼票が減った。
いや、減らされた。
《エレキ・ストライド》に回ってくるはずの地図整備や浅層の護衛が、他へ回っている。
受付の職員が気まずそうに目を逸らす。
「……すみません。上から、指示が……」
上。
誰の上かは言わなくても分かった。
リアナが歯を食いしばる。
「これ、露骨すぎ」
セレスは答えなかった。
怒りを言葉にしない代わりに、視線が一点に定まっている。
考えている目だ。計算する目だ。
宿へ戻る道、セレスは急に足を止めた。
「……今日は街の記録庫に行く」
ミナが驚く。
「記録庫……?」
「貴族の名を使うなら、まず“自分の名”を正しく扱う必要がある」
リアナが眉をひそめる。
「仲間、減らされたのに単独行動?」
セレスは首を横に振った。
「単独じゃない。あなたたちは一緒。
でも――ここから先は、言葉の戦い。感情で口を挟むと、私が負ける」
その言葉は、誰に向けたものか分かりすぎる。
ハヤトの喉が鳴った。
「……分かってます」
分かっている。
でも、胸の奥の熱は、消えない。
◇
街の記録庫は、石造りの小さな建物だった。
入口には紋章が刻まれ、番人がいる。冒険者の顔では通りにくい場所。
セレスは一歩前へ出て、静かに名を告げた。
「セレス・ヴァルディオル。閲覧権を行使する」
番人の目がわずかに見開かれる。
態度が変わる。声が低くなる。
「……失礼しました。どうぞ」
リアナが小声で囁いた。
「やっぱ有名なんだ……」
ミナは息を呑んで、セレスの背中を見る。
セレスは振り返らずに言った。
「ここでは私語を控えて。耳がある」
中は紙と革の匂い。
棚には家系図、婚姻記録、後見契約、土地の権利書。
セレスは迷いなく一角へ向かい、束になった書類を引き抜いた。
まるで、最初から場所を知っていたみたいに。
ハヤトは、セレスの別の顔を見た気がした。
セレスは書類を開く。
指先が早い。目が冷たい。
「……“後見”の更新が、数年前に一度途切れてる」
リアナが口を開きかけて、ミナが袖を引いた。
セレスの集中を邪魔しないために。
セレスは続ける。
「ルーベンが“保護”を言い出す根拠は、この空白。
私の後見が曖昧な期間を、弱点として使うつもり」
ハヤトが小声で言った。
「……埋めればいい?」
セレスは頷く。
「埋める。正確には“正しく繋ぎ直す”。
私の名が、誰の鎖にも繋がれていないことを証明する」
ミナが小さく問う。
「……証明できるんですか?」
「できる。鍵は――母方の記録と、家の評議会の議事録」
セレスは紙束を閉じ、別の棚へ向かった。
その背中が、冒険者の背中ではなかった。
戦場は変わっても、戦う姿勢は同じだ。
◇
夕方、宿へ戻る途中。
路地の入口で、見慣れない男が待っていた。
服は平民寄り。だが立ち方が護衛のそれだ。
目だけが冷たい。
「セレス様」
男が言う。“様”をつけて、わざと丁寧に。
「ルーベン様より伝言です。明日、正午。旧礼拝堂。
貴族としての“確認”の場を設ける、と」
リアナが一歩前へ出そうになる。
セレスが、指一本で止めた。
「分かった。伝えたと伝えなさい」
男は頷き、視線を横に滑らせた。
ハヤトを見る。リアナを見る。ミナを見る。
そして薄く笑った。
「……仲間、ですか。
泥の中で拾った玩具は、壊れやすい。気をつけて」
リアナの拳が震えた。
ミナが青ざめた。
ハヤトの中で何かが切れそうになる。
だが、セレスが先に前へ出た。
「玩具ではない」
声が低い。鋭い。
「彼らに触れるなら、あなたの主人に伝えて。
私は“貴族の顔”を捨ててでも噛みつく、と」
男の笑みが消えた。
一瞬だけ、セレスの目に怯えが浮かぶ。
男は何も言わずに去った。
◇
宿の部屋。
セレスは窓の外の暗い街を見ていた。
背筋は真っすぐ。だが、肩の力が少しだけ抜けている。
リアナが堪えきれず言う。
「……明日、行くの?」
「行く」
セレスは即答した。
「逃げたら“逃げた”という事実を与えるだけ。
それが一番まずい」
ミナが小さく呟く。
「怖い……」
「怖いわよ」
セレスは、驚くほど素直に言った。
そして、すぐ表情を整える。
「でも、怖いからこそ、準備する」
ハヤトは、胸の奥の熱が抑えきれず、口を開きかけた。
でも、セレスが先にこちらを見る。
その目が、言っている。
でも同時に、別のものも滲んでいた。
ハヤトは喉の奥で息を飲み、短く言った。
「……俺は、そばにいます」
セレスは答えなかった。
答えない代わりに、ほんの少しだけ頷いた。
貴族の戦いは、剣の音がしない。
でも確実に、人を追い詰める。
その静かな圧迫の中で、四人は同じ部屋にいて、同じ夜を過ごした。




