第37話 罠印の追加依頼
ギルドの掲示板は、朝から赤かった。
赤い紐、赤い札、赤い印。
“危険”を示す色が、紙の上で増殖している。
「灰石の穴・第一階層――罠多発、群れ増加、奥は危険指定……」
セレスが淡々と読み上げる。声は冷静なのに、眉間だけがわずかに固い。
リアナは鼻で笑った。
「もう初心者用の第一階層じゃないよね、これ。初心者殺しの第一階層」
ミナは口を閉じ、掲示板の赤印を見つめている。
助けられなかった人の顔が、まだ胸のどこかに引っかかっているのが分かる。
ハヤトは、紙ではなく“空気”を見ていた。
ギルドの出入り口の近くで、装備の軽い新人パーティが掲示板を見て、引き返していく。
代わりに、顔つきの硬い連中が集まって、ひそひそと情報を交換している。
そのとき、掲示板の下段に貼られた新しい依頼票が、目に入った。
「罠マーキング追加・通行ルール作成」
報酬は地味。だが、説明欄が長い。
――壁面ワイヤー/透明糸/踏み板/射出矢。
――既存の×印だけでは不十分。
――通行ルートと注意点を、現地に残せ。
セレスが依頼票を剥がす。
「これ。やる」
リアナが肩をすくめる。
「うち向きだね。地味で、めんどくさくて、でも必要」
ミナが頷いた。
「……はい。誰かがしないと」
ハヤトは小さく息を吐いて、指輪の尖端を親指でなぞった。
火花を出すためのものじゃない。
“吸われ方”を見るための、目。
「行きましょう」
◇
灰石の穴の入口は、相変わらず冷たい息を吐いていた。
中に入ると、光が死んだ。
湿り気と石の匂いが、肌に張りつく。
ハヤトは足裏の感覚を薄く広げ、同時に指先の意識も落とさない。
床だけじゃない。壁。空中。通り道そのもの。
「隊列は一列」
セレスが小声で言う。
「壁に寄らない。荷物は背中の中心。袖や外套が擦れないように」
「了解」
リアナが先頭、セレスが二番、ハヤトが三番、ミナが最後。
前に進むたび、壁の継ぎ目が増える。
割れ目、欠け、古い火の跡。罠の隠れ場所だらけだ。
分岐が見えた。
以前×印をつけた射出矢の通路。
壁の×が、薄暗がりの中で浮かんでいる。
「ここ」
セレスが止まる。
「追加調査。ハヤト」
「はい」
ハヤトは膝をつき、指輪の尖端にほんの少しだけ静電気を溜めた。
火花は出さない。出したくなったら、溜めすぎだ。
尖端を壁の割れ目へ近づける。
……引っ張られる。
“そこに飛びたがる”感じ。
ハヤトはチョークで石粉を払う。割れ目の奥に、細い金属線――ワイヤー。
「壁面ワイヤー。昨日確認したものと同じです。位置は×印の下、ここ」
セレスが頷き、チョークで壁に追記する。
×の下に細い線。矢印。
「壁面ワイヤー注意」
「荷物こすり厳禁」
リアナが低く言った。
「これ、搬送のとき地獄だね。担架とか絶対当たる」
「だから通行ルールが必要」
セレスは短く言い切った。
「“中央一列”と、“荷物の高さ制限”も書く」
ミナが小声で付け足す。
「……焦って壁に寄る人が多いので、“壁に寄るな”を太字にしたいです」
「採用」
セレスが即答する。判断が速い。
――あの日の震えが嘘みたいに。
ハヤトはその横顔を見て、胸の奥が少しだけ落ち着くのを感じた。
◇
分岐から左へ。広間には近づかない。
通路の空気は冷たく、音が吸われる。
ハヤトは足を止めた。
「……糸、あります」
リアナが即座に止まる。
「見える?」
「見えません。でも、尖端が“そこ”に吸われる」
ハヤトは最小の量だけ溜めて、火花を出さないギリギリの“引き”を見た。
空中の一点が、吸い込むように存在感を持つ。
セレスが杖先の光で斜めに照らすと、薄い線が浮いた。
「透明糸。膝の高さ。壁から壁へ」
ミナが喉を鳴らす。
「……子どもの髪の毛みたい」
「引っかかったら終わり。矢でも落とし穴でも呼び寄せでも」
セレスが言い、ハヤトに視線を向ける。
「マーキング、追加」
「はい」
ハヤトは床に△を描き、横に短い線と
「糸」
。
さらに、壁側にも同じ高さで小さな点を二つ打つ。線の両端の目印だ。
「これで、照らさなくても“ここに糸がある”って分かります」
リアナが感心したように言う。
「印の付け方、うまくなったよね。前は×だけだったのに」
「死にたくないので」
ハヤトが淡々と言うと、ミナが小さく笑った。
「……それが一番の理由ですね」
◇
通路を戻りかけたとき、別のパーティがやってきた。
四人。装備は軽いが、目がまだ甘い。
掲示板の赤印の意味を、本当には理解していない目だ。
「おい、ここ通れる? ×印があるって聞いたけど」
先頭の男が、壁を覗き込みながら言った。
荷物の肩紐が、ワイヤーのある高さをかすめそうになる。
「止まって!」
ハヤトの声が鋭くなる。
男が驚いて動きを止めた瞬間、荷物の端がぎりぎりで止まった。
「そこ、壁面ワイヤーです。荷物が擦れると矢が出ます」
「え……?」
男の顔色が変わった。
セレスが一歩前に出て、冷静に言う。
「通るなら中央一列。壁に寄るな。袖や外套も擦らせるな。
それと、膝の高さの糸罠がある。印を見ろ」
リアナが短剣の柄で床の△印をトンと叩く。
「これが糸。ここを跨ごうとしたら引っかかる。屈んで通れ」
新人パーティの後衛が青ざめた。
「……俺たち、知らなかった……」
ミナが優しく、でもはっきり言う。
「知らないまま進むのが、一番危ないです。
今日は撤退したほうがいいと思います」
先頭の男が唾を飲み、仲間を見る。
そして、悔しそうに頷いた。
「……戻る。ありがとう」
四人が引き返していく背中を見て、ハヤトは息を吐いた。
戦わずに救えた命が、たしかにあった。
セレスが小さく言った。
「今の判断、良かった」
褒め言葉は短い。
でも、その短さが逆に刺さる。
「……ありがとうございます」
ハヤトが答えると、セレスは一瞬だけ視線を逸らした。
頬の、薄い赤みはもうほとんど消えている。
なのに、ハヤトはその場所を見ないようにしてしまった。
見たら、何かが戻ってきてしまう気がしたから。
◇
帰還の道で、ハヤトは要所ごとに大きめの印を追加した。
・
「中央一列」
・
「壁禁止」
・
「荷物擦るな」
・
「糸=△」
短く、強い言葉。
読みやすい位置。
チョークの残りが少なくなるまで、迷いなく描く。
地上へ出たとき、空気が一段軽くなった。
ギルドで報告を済ませると、受付の職員が顔を上げて言った。
「通行ルールまで残したのか。助かる。
こういう仕事、できる奴が本当に少ない」
リアナが得意げに胸を張る。
「うちの静電制御士、地味に最強だから」
ミナがくすっと笑い、セレスは静かに頷いた。
「今日はこれで良い。誰も死ななかった」
その言葉が、ただの結果報告じゃなくて、祈りのように聞こえた。
ハヤトは指輪の尖端をそっと握り、心の中で繰り返す。
この世界で、電気はまだ知られていない。
だからこそ――学ぶことが、誰かを生かす。




