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第36話 頬に残るもの



 セレスは自室の扉を閉めたあと、しばらく動けなかった。

 廊下を去るときの足取りは完璧だった。

 背筋は真っすぐ、呼吸も乱れていない。

 ――少なくとも、外からは。

 でも、扉の向こうで一人になった瞬間。

 頬が、じん、と疼いた。

 赤く熱い場所が、遅れて主張してくる。

 皮膚の表面じゃない。もっと内側。骨の近くで、微かに脈打つような感覚。

 セレスは無意識に指を伸ばし、触れてしまう。



「……っ」



 自分の指先が、思ったより熱くて、少し驚いた。

 痛いはずなのに。

 屈辱のはずなのに。

 なのに――その疼きが、嫌じゃない。

 むしろ、妙に“はっきり”している。

 あの瞬間、頭を支配していた恐怖が、頬を打つ音で砕けた。

 世界が戻ってきた。呼吸ができた。判断ができた。

 まるで、全身に電気が走って回路が繋がったみたいに。

 苦笑しようとして、うまく笑えなかった。



 セレスは宿の自室で、鏡の前に立っていた。

 頬に残る熱が、まだ完全に消えていない。

 昨夜の出来事──ハヤトに頬を張られた瞬間。

 貴族の分家の娘として育った彼女にとって、誰かに手を上げられるなど、想像すらしたことがなかった。

 それが、貧民街の少年に。



 机の前に座る。

 髪を指で整えようとして、手が止まる。

 自分でも分かる。

 今、思い出しているのは“作戦”じゃない。

 撤退のルートでも、敵の数でもない。

 ハヤトの目だ。

 あの場で、迷いなく前に出た目。

 恐怖で固まった自分を、責めるのではなく



「今、止まったら死ぬ」



と言い切った声。

 その言葉が浮かんだ瞬間、セレスは眉をひそめる。

(違う。私は導く側。

 貴族だ。判断役だ。指示を出す側だ)


その瞬間「はっ!!!」とした


セレスは自分が、知らず知らずのうちに壁を作っていたことに気づかされた。

火術の才能、貴族の血筋、ギルドでの地位。

それらは彼女の誇りでもあったが、同時に他人を遠ざける鎧でもあった。

誰もが「セレス様」と呼び、頭を下げ、距離を取る。

本当の意味で「並んで」くれる者は、いなかった。


なのに、ハヤトは違う。


彼は自分の弱い魔力を笑われながらも、必死に努力し、仲間を信じ、守ろうとする。

そして、セレスが無意識に上から見下ろしていたことに、真正面から向き合った。

頬を張られた痛みより、胸に残った衝撃のほうが大きかった。


(あの子は、私を「セレス」として見てくれた)


貴族でも、火術士でもなく、ただのセレスとして。

対等に、仲間として。

その事実に、セレスの心が静かに揺れた。

これまで感じたことのない、温かなざわめき。


「……変わらなきゃ」


セレスは鏡に向かって呟いた。

高飛車な態度は、鎧の裏返しだったのかもしれない。

本当は、もっと素直に、もっと近くで、仲間と向き合いたかった。

頬の熱は、痛みではなく、変化の証のように思えた。


そして、その中心にいるのが――ハヤトだ。

セレスは冷たい水を口に含む。

喉を通る冷たさで、頭を冷やそうとする。

でも、冷えるのは喉だけだった。

胸の奥は、まだ熱い。













翌朝、宿の食堂。


ミナが朝食のスープを運んできたところで、ハヤトがいつもの調子で声を上げた。

「セレス、おはよう。昨日は……その、悪かったな」


ミナの動きが、ぴたりと止まる。

スープの碗がわずかに傾き、危うくこぼれそうになった。




「……え?」




隣でパンをかじっていたリアナも、目を丸くしてハヤトを見る。




「は、ハヤト……今、なんて言った?」




ハヤトは少し気まずそうに頭をかいた。

「セレス、って呼んだだけだけど……。昨日、話しただろ? 対等でいたいって」



ミナとリアナが、顔を見合わせる。



「貴族の令嬢を……呼び捨て……?」

「ありえない……セレス様を呼び捨てにするなんて、普通は……」



二人の視線がセレスに集中する。



セレスはコーヒーを一口飲み、静かに言った。



「いいわよ。私もハヤトを呼び捨てにしてるんだから、当然でしょ」



ミナが慌てて声を潜める。

「で、でもセレス様……貴族の家柄的に、そんな……」



セレスは小さく笑った。

その笑みは、いつもの冷たいものではなく、柔らかさを帯びていた。

「家柄は関係ない。ここでは、私たちは仲間でしょう?

だったら、呼び方は対等でいい。

……それに、私も、もう“上から目線”は捨てることにしたから」



ハヤトが驚いたようにセレスを見る。

「セレス……本当にいいのか?」



「だから、いいって言ってるじゃない。

それとも、私だけ呼び捨てにしておいて、自分は『セレス様』って呼び続けるの?」



ハヤトが照れ笑いを浮かべる。



「いや、そんなつもりはないよ。じゃあ、これからもセレスって呼ぶ」



ミナとリアナは、まだ信じられない様子で互いを見ていたが、

やがてミナが、恥ずかしそうに口を開いた。



「……じゃあ、私も……セレス、って呼んでもいい?」

リアナもすぐに続く。

「私も……セレス、でいいよね?」



セレスは少し目を丸くしたが、すぐに頷いた。

「ええ、もちろん。

これからは、みんな呼び捨てでいきましょう」



ハヤトが明るく笑う。

「なんか、急にみんな同じ目線になった感じだな」



ミナがくすりと笑う。

「ふふ、セレスがこんなに素直になるなんて、珍しいよ」



リアナも頰を緩めて頷く。

「うん……でも、嬉しい」



セレスは頬杖をつき、小さくため息をついた。

だが、その表情はどこか満足げだった。

「……まぁ、いいわ。

これで、少しは煩わしい距離がなくなったんだから」



食堂に、穏やかな笑い声が響いた。

それは、これまでで一番自然で、仲間らしい朝の音だった。












その日から、

ミナもリアナも、セレスを「セレス」と呼ぶようになった。

セレス自身も、それを当たり前のように受け入れた。

頬に残った熱は、いつしか心の奥に灯った小さな火となり、

静かに、確実に、彼女を変え始めていた。

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