第33話 読み違い
第一階層の通路は、さっきより静かだった。
倒したゴブリンの血の匂いが、湿った石に吸われていく。
足元の湿りが、判断を一拍遅らせる。
それなのに、空気のざわつきだけが消えない。
ハヤトは足裏の感覚を広げ、指輪の尖端に意識を残した。
火花は出さない。
“吸われ方”だけを見る。
気配が、増えている。
「セレス様」
ハヤトが小声で言った。
「前方、複数。さっきより足が速い。隊形を作ってます」
セレスは一瞬で判断した。
「小隊の残党が合流したわね。ここで当たるのはまずい。
でも、後ろにも気配がある」
リアナが短剣を握り直す。
「挟まれる?」
「挟まれる前に抜ける」
セレスの声が鋭くなった。
「リアナ、前に出て。通路を取る。私は煙で射線を切る。
ハヤト、足止めで群れの“形”を崩して。ミナ、後ろ固定」
ミナが頷く。
「はい」
リアナは軽く首を回し、笑った。
「了解。いつも通りね」
だが、ハヤトの足裏が拾った“重さ”が、嫌な位置にあった。
石を擦る音。
ゴリ、ゴリ、と、遠くで何かを削る音。
それが、近づいている。
「……石喰いが、動いてます」
ハヤトの声が低くなる。
セレスの目が一瞬だけ細くなった。
「まだここまでは来ない。広間から離れている。
こちらが先に抜ける」
断言。
その断言が、いつもなら正しい。
だから、誰も疑わなかった。
◇
角を曲がった瞬間、前方の闇が動いた。
槍持ち。
投げ槍。
そして、壁際に張りつく回り込み。
数は――十二。
「……っ」
リアナが息を飲む。
「多い!」
「押し返す!」
セレスが杖を振る。
「《フレア・スモーク》!」
粉塵が舞い、視界が白く濁る。
その隙を狙って、リアナが前へ出た。
短剣が閃く。
一体目の喉――ではなく、腕。武器を落とす。
落ちた槍を踏んで、次の一体へ。
動きが速い。軽い。正確だ。
ハヤトは“壁の導電ライン”に電気を流し、槍先へ薄く引っかけていく。
火花は出ない。
けれど、握りが緩む。踏み込みが鈍る。
「いい、押せる!」
リアナが叫んだ。
セレスも、その流れを見ていた。
だから――次の指示を出した。
「リアナ、もう半歩前! 前列を崩せば、後列が散る!」
リアナは即座に従った。
半歩。
その半歩は、いつもなら勝ちを決める距離だった。
しかし、その半歩の先に――床の“違和感”があった。
ハヤトの足裏が、遅れてそれを拾う。
「止ま――」
叫ぶより先に、リアナの靴底が、細い糸を踏んだ。
距離が詰まる。次の一手を迷う暇はない。
カチ。
短い金属音。
狙いはリアナの脇腹。
「リアナ!!」
ハヤトの声が裂ける。
指輪の尖端に意識が集中する。
矢尻は尖っている。そこに引っかけて逸らす――
だが、矢は近すぎた。速すぎた。
「《エレキ・リペル》!」
バチッ、と火花が飛ぶ前に。
矢が、リアナの脇に――深く刺さった。
「――っ!」
リアナの身体が、目に見えて止まった。
短剣が落ちそうになる。
刃が走る。浅ければ意味がない。深く、核を狙う。
膝ががくりと沈む。
それでも、彼女は倒れなかった。
視界が狭くなる。耳だけが、風切り音を拾う。
「……っ、まだ……!」
血が、指の間から滲む。
息が荒い。顔色が一気に落ちる。
ゴブリンたちが、その隙を見逃さない。
「ギィィッ!!」
ゴブリンどもが槍を一斉に構える。
「戻れ!」
セレスが叫び、火で前列を払う。
「《フレア・カット》!」
火の刃が槍柄を燃やしていく。
だが、数が多い。押し返しきれない。
距離が詰まる。次の一手を迷う暇はない。
リアナは必死に下がろうとする。
けれど、脇腹の痛みで身体が言うことをきかない。
その瞬間――
広間のほうから、低い音が響いた。
ドン。
ドン。
床が震える、重い足音。
ゴリ、ゴリ、と石を噛む音が近づいてくる。
視界が狭くなる。耳だけが、風切り音を拾う。
石喰いゴブリンだ
近くまで来ている....
「……嘘」
セレスの声が、初めて掠れた。
計算が外れた。
読みが外れた。
“まだ来ない”は、甘かった。来た。
「セレス様!」
ミナが叫ぶ。
「リアナさんが……!」
セレスは一歩踏み出しかけて、止まった。
目が、動かない。
視線だけがリアナの刺さった矢と、背後から迫る重い足音の間を揺れる。
笑い声が混じる。遊びのつもりで、首を狙ってくる。
そして――足が、震えた。
ガク、ガク、と。
見て分かるほど、膝が笑っている。
「……待って」
セレスの唇が震える。
「待って、待って、待って……」
いつも判断が速い彼女が、言葉を繰り返す。
恐怖。
“自分の読みで、人が死ぬ”という恐怖が、セレスを縛っていた。
汗が手袋の内側で冷える。滑れば終わりだ。
杖を握る手に、力が入らない。
息が浅い。肩が小さく震える。
「……撤退」
セレスが、やっと声を絞り出した。
「撤退しなさい! 今すぐ! ここで粘ったら全員死ぬ!」
叫ぶ声なのに、どこか壊れそうだった。
「撤退! 撤退よ!」
ミナが泣きそうな顔で頷き、リアナへ駆け寄ろうとする。
だが、投げ槍が飛ぶ。ミナの足が止まる。
「リアナ、走れる!?」
ハヤトが叫ぶ。
リアナは歯を食いしばり、うなずこうとして――首が揺れただけだった。
「……無理、かも……でも……」
息が途切れる。
立っているのがやっとだ。
ドン。
ドン。
背後の足音が、さらに近い。
ゴブリンたちの目が、リアナに集中する。
“獲物”を見つけた目だ。
セレスは震えながらも、もう一度叫ぶ。
「リアナを捨て――」
その言葉が、喉で詰まって止まった。
言えない。
言った瞬間、自分が壊れる。
足が震えて、立っているだけで精一杯。
守るために指示を出したのに、守れない。
恐怖で、頭が真っ白になっていく。
「……できない」
セレスの声は、泣いているみたいに細かった。
「私の……せいで……」
ハヤトは、その声を聞いて、腹の底が熱くなった。
撤退が正しい。
理屈では分かっている。
でも、撤退したらリアナが死ぬ。
呼吸が浅くなる。怖さは、思考の速さに変わる。
それだけは――
許せない!!!!!!
「……そんなこと、できない」
ハヤトは一歩前に出た。
ゴブリンの槍列。
リアナの傷。
背後の石喰いの足音。
全部が、喉を締める。
それでも、ハヤトは叫んだ。
「そんなことできない! あなたを死なせない!」
セレスが、震えた目でハヤトを見る。
ミナが息を呑む。
リアナが、血の滲む口元で笑おうとする。
笑い声が混じる。遊びのつもりで、首を狙ってくる。
ハヤトは指輪の尖端に親指を当て、覚悟を決めた。




