第31話 救助の代償
地上に出た瞬間、膝が笑った。
四人分の息が一斉に外へ漏れて、冷たい風がそれをかっさらう。
背中にへばりついていたダンジョンの湿気が、やっと剥がれた気がした。
「……はぁ……」
リアナが、救助者の片腕を肩にかけたまま、顔をしかめる。
「これ、筋肉痛じゃ済まないやつだね」
「喋れるなら生きてる」
セレスが短く言って、足を止めない。
ミナは後ろで、倒れそうになる救助者の呼吸を見ながら治療の光を細く繋ぎ続けていた。
派手な治癒じゃない。心臓を落ち着かせる程度の“糸”を、切らさない。
ハヤトは、ずっと耳の奥に残る音を消せずにいた。
――グオォォ。
石喰いゴブリンの咆哮。
胸と喉が揺れて、空気が震えたあの一声。
勝てなかった。
倒せなかった。
でも、救助して帰れた。
その事実が、嬉しいのに悔しい。
胃の奥が、熱くて苦い。
◇
ギルドに着くと、医務室の前がすぐに騒ぎになった。
「戻った! 救助だ!」
「四人も!?」
担架が走り、回復役が呼ばれ、受付の職員が顔色を変えてこちらを見た。
セレスが、息を整える暇もなく報告を始める。
「第一階層・広間奥。石皮膚の大型ゴブリン――“石喰い”を確認。
周囲に群れ多数。指揮系統あり。咆哮で群れが一斉反応する。
救助者四名、生存。全員搬送」
職員は一瞬固まり、それから荒い息で言った。
「……石喰い、だと? その証言が本当なら、第一階層の難度が一段上がる」
「本当よ」
リアナが、汗だくのまま言い切る。
「槍も火も通りにくい。あいつ、岩食ってた。しかも近づいたら、床が割れるレベルで殴ってくる」
ミナが、救助者の手を握って静かに言う。
「でも、今はこの人たちを……」
「分かってる」
職員が頷き、周囲へ指示を飛ばす。
「医務室の奥を空けろ! 薬師を増やせ!
――それと、救助班の再編を急げ。第一階層の広間、封鎖寄りで検討する!」
人の波が動く。
ギルド全体が、ひとつの生き物みたいにざわめいた。
◇
医務室の廊下で、ようやく落ち着いた頃。
ミナがハヤトの腕を掴んだ。
「……大丈夫ですか」
「え?」
「顔が、青いです。無理してませんか」
ハヤトは返事に詰まって、口を開けて閉じた。
痛い場所はない。怪我もない。なのに、胃の奥が冷たい。
「……咆哮の音が、まだ残ってます」
正直に言うと、ミナは眉を寄せて頷いた。
「怖かったですね」
「怖かったです」
言葉にした瞬間、肩が少しだけ軽くなった。
そこへ、セレスがこちらを見た。
視線が鋭いのに、声音は落ち着いている。
呼吸が浅くなる。怖さは、速さに変わる。
「ハヤト。今日の判断は正しかった。救助優先で引いた。
あなたが“勝てない”と判断できたから、生きて帰れた」
「……でも、倒せませんでした」
「倒さなくていい戦いもある」
セレスは淡々と言い、次にリアナへ視線を移す。
「リアナ。あなたもよく踏ん張った。
“最後の一人”を欲張って死んだパーティは山ほどいる」
リアナは悔しそうに唇を噛み、それでも頷いた。
「……分かってる。分かってるけど、ムカつく」
「その怒りは、つぎの戦いに使いなさい」
セレスの声が少しだけ冷たくなる。
「感情で突っ込めば、石喰いに潰される」
リアナは深呼吸して、短剣の柄を握り直した。
「……うん。準備する」
◇
宿に戻ったのは夜だった。
食堂の隅の席。
湯気の立つスープを前にしても、誰もすぐには手を付けない。
沈黙の中で、ハヤトは指輪の尖端を見つめていた。
あの瞬間――石喰いの爪先で火花を爆ぜさせ、軌道を逸らした。
ギリギリだった。距離も、量も、何もかも。
『偶然ではない』
教授の声が、いつもより低く響いた。
『お前は“尖端集中”を理解し始めた。
だが、理解しただけでは足りん。再現性が要る』
『式に落とせ。手順に落とせ。
戦場で身体が勝手に動くように、学びを身体に刻め』
ハヤトは唾を飲んだ。
「教授。俺、石喰いに勝てますか」
口に出してから、ミナとリアナの前で言ったことに気づいて、少しだけ居心地が悪くなる。
でも二人は、聞こえていない。教授の声も、会話も。
セレスだけが、ハヤトの独り言を“思考の癖”として受け取ったのか、静かに見ていた。
『勝つとは何じゃ』
教授が答える。
『倒すことか。追い払うことか。生きて帰ることか。救うことか』
教授の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
『なら、学べ。
知は力なり――それを忘れるな』
ハヤトの指が止まった。
その言葉は、胸の奥のもっと深い場所を叩いた。
亡き父の言葉。
はずなのに、今の“教授”の言い方は――妙に近い。
『……言葉は、残る』
教授はそれ以上を言わなかった。
いつもの調子に戻った声で、淡々と続ける。
『次は本の第――いや、次の節じゃ。
“電位”と“電流”の考え方を入れる。
お前の静電気を、“流れ”に変えるための基礎じゃ』
流れ。
ハヤトは、スープの表面の揺れを見た。
静電気は、弾けて終わる火花だと思っていた。
でも、今日の壁押しも、足止めも、矢逸らしも――全部“流れ”だった。
足元の湿りが、判断を一拍遅らせる。
「……分かりました」
ハヤトがそう言うと、ミナが小さく微笑んだ。
「ハヤト君、食べましょう。今日は……生きて帰ってこれた日です」
リアナが頷く。
「うん。生きて帰った。救って帰った。
それだけで、今日は勝ちってことにしよ」
セレスが一拍遅れてスプーンを持ち上げる。
「勝ちは次へ繋げるためにある。食べなさい。明日、動けなくなる」
湯気の中で、四人はようやく食事を始めた。
喉の奥に残る咆哮はまだ消えない。
でも、その音の上に、別の音が重なっていく。
スプーンが器に当たる音。
息が落ち着く音。
生きている音。




