第30話 第一階層の主「石喰いゴブリン」
地上に戻ったとき、ギルドの空気が一段重くなっていた。
受付の前に、担架。
医務室へ運ばれる血まみれの冒険者。
呼吸が浅くなる。
壁際で膝を抱える新人――泣き声はないのに、顔だけが真っ青だ。
「……増えてる」
リアナが小さく呟く。
セレスは一度だけ眉をひそめ、すぐに表情を戻した。
「報告を先に」
四人はカウンターへ向かい、今日の印と罠の位置、広間の群れの数を簡潔に伝えた。
受付の職員は顔色を変え、紙に赤線を引く。
「“糸罠”の追加は助かる。……でも、今はそれ以上に厄介な報告が来てる」
職員が声を落とした。
「第一階層の広間。あなたたちが“群れ”を見た場所のさらに奥で、動く壁みたいな奴が出たって。
ゴブリンの群れが、そいつの周りに集まってる」
「動く壁?」
ミナが息を飲む。
職員は頷く。
「生き残りの証言だと、石みたいな皮膚で、槍が通らない。
叫ぶと、ゴブリンが一斉に動く。……そして、さっき救助に入ったパーティが、まだ戻ってない」
セレスの視線が鋭くなる。
「何人?」
「四人。初心者。入ったのは一時間前」
リアナが歯を噛んだ。
呼吸が浅くなる。怖さは、速さに変わる。
「……行く?」
セレスは一拍置いて、ハヤトを見る。
「あなたの判断も聞く」
ハヤトは指輪の尖端を親指で触れた。
(今日、印を残して戻った。
でも、あの奥に人がいるなら――)
ミナが小さな声で言った。
「私、助けたいです」
怖いはずなのにその声は震えていない。
ハヤトは息を吸って言った。
「行きます。
ただし、全滅狙いじゃなくて救助最優先。
危険なら、すぐ引き返す」
セレスが頷いた。
「決まり。準備してダンジョンにもう一度入る」
◇
ダンジョンの闇は、戻るたびに冷たくなる。
広間手前の印――丸に点が七つ。
そこを過ぎると、空気が変わった。
臭いが濃い。
汗、腐肉、湿った毛皮。
そして、石を擦る音。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
ハヤトの静電センサーが、床の振動を拾う。
重い足音が、一定のリズムで動いている。
「止まって」
セレスが手を上げた。
四人は息を落とし、広間の縁から中を覗く。
そこにいたのは――ゴブリンだった。
だが、今まで見たゴブリンとは違う。
背丈は人間の男ほど。
肩幅は二人分。
腕が異様に太く、皮膚が石みたいに硬そうな灰色をしている。
顔はゴブリンのままなのに、顎が異様に発達していた。
口の中の歯が、石を砕く獣のそれに近い。
そいつが、壁の岩を掴んで、噛んでいる。
ゴリ、ゴリ、と音を立てて、岩を削って飲み込んでいた。
「……あれが“動く壁”」
リアナが息を呑む。
周囲には、普通のゴブリンが十以上。
槍持ち、投げ槍、弓のようなものを構える奴までいる。
そして、広間の奥。
崩れた石の陰に――人影が四つ。
倒れている。
汗が手袋の内側で冷える。滑れば終わりだ。
まだ動いている者もいるが、囲まれている。
「救助対象、発見」
セレスが即断する。
「作戦は一つ。群れを押し固めて、救助者を引っこ抜く。
主には手を出すな。触れたら死ぬ」
救助者とゴブリンの距離が詰まる。次の一手を迷う暇はない。
「でも、主が叫んだら群れが動くんだよね」
リアナが唇を舐める。
ハヤトは、主の喉の動きを見た。
『可能じゃが、失敗すれば終わりじゃ』
教授の声。
『“潰す”ではない。“遅らせる”のじゃ。数秒でよい』
ミナが小さく言った。
「私が先に入って回復します。意識がある人を起こして、動かせるように」
「ミナは後ろ」
セレスが切る。
「あなたが抜かれたら終わり。救助は私とリアナが引っ張る。
ミナは“倒れた時の保険”と、帰路の治癒に集中」
視界が狭くなる。耳だけが、風切り音を拾う。
ミナは悔しそうに目を伏せたが、すぐ頷いた。
「……はい」
ハヤトは床に静電気を広げ、広間の“線”を読む。
群れの足。
投げ槍の射線。
主の位置。
救助対象までの最短距離。
(直線は無理。壁沿いは罠があり得る。
じゃあ、中央寄りの“乾いた岩の線”を走る)
「行けます」
ハヤトが言う。
「右斜めに入って、柱の影を使えば、投げ槍の射線が切れます。
でも、左右の回り込みが来ます。俺が止めます」
「それで良い」
セレスが杖を構えた。
「リアナ、救助役。私が壁押しと煙。
ハヤト、足止めと矢逸らし。ミナ、後衛固定」
リアナが歯を見せる。
「了解。引っこ抜いて帰る!」
◇
セレスの合図は、火の粉だった。
「《フレア・スモーク》!」
床に火花が落ち、乾いた粉塵が舞う。
詠唱の間は無防備だ。短く切って、確実に当てる。
視界が一瞬曇り、ゴブリンの群れがざわめく。
「ギィッ!?」
誰かが叫ぶ。
主ではない。雑魚の声だ。
ハヤトが走る。
床の安全線の上。
足を滑らせない。半歩を間違えない。
投げ槍が飛んだ。
シュッ!
ハヤトは指輪の尖端に一瞬だけ意識を寄せ、
「《エレキ・リペル》!」
槍先の軌道の“外側”へ静電気を滑らせた。
バチッ。
槍先が微かにぶれ、壁に刺さる。
笑い声が混じる。遊びのつもりで、首を狙ってくる。
「っ、ナイス!」
リアナが煙の中を駆け、救助対象へ一直線。
だが、回り込み役の二体がリアナの横から突っ込んでくる。
「《エレキ・バインド》!」
ハヤトが床に電気を走らせる。
足首が絡まり、二体が同時に転ぶ。
リアナはその上を跳ぶように越えて、倒れた冒険者の腕を掴んだ。
足元の湿りが、判断を一拍遅らせる。
「生きてる? 返事!」
「……う、う……」
かすれた声。
意識はある。
「立てる? 立てないなら引きずる!」
セレスが群れの前列を壁側に押し固める。
視界が狭くなる。耳だけが、風切り音を拾う。
「はい!」
ハヤトは床に電気を“帯”で敷き、敵の踏み込みの軸をずらして壁へ誘導する。
呼吸が浅くなる。怖さは、速さに変わる。
ゴブリンの槍列が崩れ、互いにぶつかり合う。
前に出られない。
「《フレア・カット》!」
セレスの火が、槍柄と腕を舐め、握力を奪う。
槍が落ちる。
足元の湿りが、判断を一拍遅らせる。
隊形がまた崩れる。
リアナは二人目に手を伸ばした。
だが、そのとき――主が動いた。
岩を噛むのをやめ、ゆっくり顔を上げる。
汗が手袋の内側で冷える。滑れば終わりだ。
眼が、赤い。
鼻孔が広がり、空気を嗅ぐ。
「……グゥ」
喉が鳴る。
叫ぶ前の、深い吸気。
ハヤトの背中に冷たい汗が走る。
『今じゃ!』
教授の声。
ハヤトは走りながら、指輪の尖端に電気を集中させた。
狙うのは主の口ではない。届かない。
主の“叫び”は、喉と胸が作る。
なら――近くの金属に火花を飛ばし、音と衝撃で“呼吸”を乱す。
ハヤトの視界に入ったのは、倒れている冒険者の剣。
柄の金具が、尖っている。
「火花、行け!」
バチンッ!
剣の金具で火花が爆ぜる。
音が甲高く響き、主の吸気が一瞬止まる。
「グッ……!」
主が喉を押さえるように顎を引いた。
呼吸が浅くなり、叫びが遅れる。
「今だ、抜けるぞ!」
セレスが叫ぶ。
「リアナ、三人目!」
「了解っ!」
リアナが三人目の襟を掴む。
ぐったりしているが、呼吸はある。
「重い! ミナ、治癒投げて!」
「はい!」
ミナの光が飛ぶ。
「《ヒール・スレッド》!」
糸のような温かさが、倒れた者の胸に通い、呼吸が少しだけ深くなる。
足元の湿りが、判断を一拍遅らせる。
その瞬間、主が咆哮した。
「グオォォ――!」
空気が震え、広間の群れが一斉に反応する。
槍が上がる。
投げ槍が構えられる。
回り込みが走る。
「来る!」
ハヤトが叫ぶ。
「壁押し最大で、通路に引き込む!」
セレスが火で床を叩き、煙を増やす。
詠唱の間は無防備だ。短く切って、確実に当てる。
「《フレア・スモーク》、重ね!」
視界が白く濁る。
その中で、ハヤトが
「《エレキ・バインド》……連続!」
床に電気の帯を敷き続ける。
敵の足首を、ほんの一瞬だけ引っかける。
速度を殺す。
隊形を崩す。
リアナは三人を引きずり、最後の一人へ手を伸ばした。
だが、最後の一人は、柱の影に倒れている。
その影の向こう――主が、こちらへ一歩踏み出してきた。
ドン。
床が鳴る。
近い。
近すぎる。
「リアナ、下がれ!」
セレスが叫ぶ。
「最後の一人は――」
言い終える前に、主の腕が振り上がった。
石の棍棒みたいな腕が、リアナを叩き潰す軌道。
リアナが避ける。
でも、救助者を抱えている。動きが鈍る。
ハヤトは身体が勝手に動くのを感じた。
主の腕の“先端”――爪。
そこに電気は集まる。
なら、逆にそこを“跳ねさせる”。
「《エレキ・シフト》!」
バチンッ!
主の爪先で火花が爆ぜ、腕の軌道がほんのわずかに外へ逸れた。
ゴォン!
拳が床を叩き、石が砕ける。
リアナは転がりながら回避し、叫んだ。
「ハヤト、今の……!」
「後で! 今は引く!」
ハヤトは息を切らしながら、最後の救助者の腕を掴んだ。
重い。
だが、掴んだら離さない。
ミナが後ろで光を重ねる。
セレスが煙と火で射線を切る。
リアナが短剣で追撃の足を止める。
そして、ハヤトが床の電気で“追う足”のリズムを崩し続ける。
通路に入った瞬間、群れの速度が落ちた。
広間の“数”が、通路では邪魔になる。
主の足音はまだ響いていた。
ドン、ドン、と。
だが、通路の狭さに合わせて、巨体は簡単には入ってこられない。
「……止まった」
ミナが息を吐く。
主の足音が、広間の奥へ戻っていく。
救助者四人の呼吸が、辛うじて揃っている。
セレスが短く言った。
「撤退成功。……生きて帰る」
ハヤトは、指輪の尖端を握り締めたまま、汗で濡れた息を吐いた。
倒したわけじゃない。
勝ったわけでもない。
それでも――誰も死なせずに、救助できた。
その事実だけが、胸の奥を熱くしていた。




