第20話 滑る床とミナの「ベトベト大惨事」
スライムの巣になっている小部屋は、想像以上に厄介だった。
床も壁も、一部が半透明の膜で覆われている。
足を踏み出すたびに、ぬるり、と靴底が滑りそうになる。
「うわ、気持ち悪っ」
リアナが、つま先で床を突つく。
「こいつら、踏んでも踏んでも形戻るんだよね。
外でやったときより、だいぶ数多いよ」
「踏み潰すというより、“居場所を減らす”くらいの感覚で」
セレスが、指先に小さな火を灯す。
「広がりすぎたところを炙って、床を“安全地帯”に変えていく。
「了解です」
ハヤトは、足裏から静電気をじわりと広げた。
石だけのところは、“ざらざら”とした手応え。
薄いスライム膜があるところは、“ぬるり”とした重たい抵抗。
どろっと厚く溜まっている場所は、電気そのものが鈍くなる。
「リアナさん、このラインなら、まだ走れます。
「OK」
リアナが指定されたラインに立ち、腰を落とす。
「じゃ、軽く散らしていこっか!」
◇
戦闘は、一見すると地味だった。
リアナが、滑らないライン上を小刻みに動きながら、
“踏んでも平気な薄いスライム”だけ踏み潰し、濃い部分は避ける。
セレスは、小さな火球を床に落とし、膜が厚いところだけを狙って炙る。
焦げたスライムは、ぺちゃんこになって動きを止め、床が一部“乾いた岩”に戻っていく。
「ミナ、私の火が飛びそうなラインには、絶対入らないでね」
「分かってます」
ミナは後衛の位置を守りながら、滑りそうなところを避けて移動する。
しかし、どうしても足場が限られているため、動ける範囲は狭い。
「ハヤト君、ここ、ちょっと怖いです」
少し先の床を指さす。
「さっきから何度か足を取られそうで」
「見ます」
ハヤトは、ミナの足元のラインに静電気を流し込んだ。
(このあたり、表面だけヌルヌル。
でも、その先は“どろっ”とした厚みがある)
「ミナさん、その一歩先はやめましょう。
右足だけ半歩引いて、“こっち側”に体重を」
「はい」
指示どおりに体重を移した――その瞬間だった。
天井から、ぴちゃん、と音を立てて何かが落ちてきた。
「え?」
ミナの肩に、冷たい感触がのしかかる。
天井から垂れていたスライムが、一塊のまま、彼女の上半身にべちゃっと落ちたのだ。
「きゃっ!? つ、冷たっ!」
透明な塊が、ローブと髪と肌の上で、じわりと広がる。
ぬるぬるとした感触が、肩から胸元、背中へと流れ込んでいく。
「ミナさん!」
ハヤトは、反射的に手を伸ばしかけて――寸前で止めた。
スライムの膜が、ローブの布にまとわりついて、じりじりと染み込んでいくのが見える。
『良く見ろ』
教授の声が飛ぶ。
『あれは、“水”ではない。
粘り気を持った液体で、布の繊維の中に入り込もうとしておる』
『冷えと重みだけでなく、布の強度も落ちる可能性があるな』
「ミナ、動かないで!」
セレスが即座に前へ出た。
「その場で固まって。
変に走ると、布全体に広がる」
「は、はいっ!」
ミナは、肩と胸元に広がる冷たさに、震えそうになるのをこらえて立ち尽くした。
ぬるぬるした液体が、布を通じて肌に触れてくる。
冷たさと気持ち悪さで、勝手に身体が身震いする。
「リアナ、あの天井の残りも落として!」
「任せて!」
リアナが足場を選びながら前に出て、小さなスライム塊を次々斬り落とす。
落ちてきた残骸は、床の“乾いた岩”部分に落ちるよう、ハヤトが静電センサーで道を示した。
「ハヤト」
セレスが短く呼ぶ。
「ミナのローブの“外側”に電気を流せる?」
「外側?」
「スライムの粘膜だけに、軽くショックを与えたいの。
布を焼いたり、ミナを痺れさせたりしない程度に」
『だが、やる価値はある』
教授の声が、淡く熱を帯びる。
『電気は、導体を選ぶ。
スライムの水分とイオンは、布よりもよく通る。
“表面だけをなぞる”イメージでかけてみろ』
ハヤトは、ミナの正面には立たず、少し斜め後ろ側へ移動した。
直接、胸元や肩を触らない位置。
それでも、指先から伸ばした静電気が、ローブの表面とスライム膜に届く距離。
「ミナさん、ちょっとだけ我慢してください」
「……はい」
ミナは、ぎゅっと目を閉じた。
ハヤトは、指先に小さな電気を溜め、それを“布の外側”だけに沿わせるように流した。
ぱち、ぱち、と細かい火花が、スライム膜の中で弾ける。
「ひゃっ……!」
ミナが、小さく肩を震わせる。
冷たい粘膜が、じりじりと縮んでいく感触。
ローブに染み込んでいた水分が、微妙に引き締まるような不思議な感覚。
同時に、スライムの一部が、ぺろりとローブの表面から剥がれ落ちた。
「今!」
セレスが片手をかざす。
「《フレア・スパーク》!」
布から少し離れた位置に、小さな火花を散らす。
剥がれたスライム片だけを、最小限の火で炙って潰す。
「……ふぅ」
ミナが、震えた息を吐いた。
ローブはまだところどころ濡れているが、べったり覆っていたスライム膜はだいぶ薄くなっている。
「染み込みは止まったわね」
セレスが、濡れた部分をじっと観察する。
「このままなら、布が溶けるまではいかないと思う。
冷たいだろうけど」
「冷たいです……あと、気持ち悪い……」
ミナは、胸元をぎゅっと押さえた。
布越しに伝わるひやっとした感触が、まだ消えない。
ローブの下で、肌に張り付くような感覚が居座っている。
「ミナ、動ける?」
リアナが、心配そうに覗き込む。
「無理そうなら、ここで一度戻るって手もあるよ」
「動けます……ただ、その……あんまり大きくは動きたくないです」
「じゃ、一旦ここで“掃除タイム”にしよっか」
リアナが肩を竦める。
「こんな状態で突っ込んだら、集中できないでしょ」
「ハヤト」
セレスがまた、小さく呼んだ。
「さっきの“表面だけショック”。
もう少し弱めて、残りの粘膜を剥がすのに使えそう?」
「やってみます」
今度は、ローブの裾や袖口、背中側にも静電気を薄く滑らせる。
べったり貼りついていたスライムが、ぺろり、ぺろりと剥がれていく。
重さが少しずつ減り、ローブの布がもとの軽さに戻り始める。
「妙な使い方ね」
セレスが、感心したように息を吐く。
「静電気で、“汚れだけを剥がす”なんて」
『実際、異世界のどこかには“静電クリーニング”の研究者もおるかもしれんぞ』
ある程度スライムが落ちたところで、ミナが恐る恐るローブの裾をつまんだ。
「……だいぶマシになりました。
でも、中は冷たいです」
「帰ったら、お風呂直行だね」
リアナが笑いながらも、すぐに真面目な顔になる。
「今は――これ以上かぶらないように、上だけでも何か羽織ったほうがよくない?」
「そうね」
セレスが、自分の予備の外套を取り出した。
「ミナ、一旦これを上から羽織りなさい。
ローブの濡れが乾くまでは、直接風に晒さないほうがいい」
「ありがとうございます」
ミナは外套をぎゅっと締めた。
少し大きめのそれは、濡れたローブをすっぽりと隠してくれる。
冷たさは残るものの、露出している感じはかなり減った。
「ハヤト君」
ミナが、少し赤い顔でこちらを見た。
「さっき、すぐに電気で剥がしてくれて、助かりました。
もしあのまま染み込んでたら……想像したくないです」
「いえ……とっさにやっただけなので」
本当は、もっと細かく制御できればよかった。
でも、ミナの表情を見る限り、“最悪の事態”は回避できたらしい。
『悪くない判断じゃ』
教授の声が静かに言う。
『電気の通りやすさの違いを利用して、“布と粘膜”を分けた。
立派な応用じゃ』
◇
周囲のスライムを一通り片付け、床の“安全地帯”を広げたあとは、
いったんその場で小休止を取ることにした。
「ミナ、冷えはどう?」
「だいぶマシになりました。
少し動けば、体も温まってくると思います」
「でも、あまり無理はしないで」
セレスが釘を刺す。
「身体が冷えると、判断も鈍るから」
「はい」
ミナはこくりと頷いた。
外套に包まれた姿は、いつもの修道服よりも少し小さく見える。
スライムまみれの大惨事だったが、なんとか“悪い意味での被害”は避けられた。
「とりあえず――」
リアナが、スライム片で汚れた床を見渡す。
「天井スライムがいる場所では、“真下に長時間立たない”ってことね」
「それも静電センサーで分かりますか?」
ミナが、少しだけ冗談めかしてハヤトを見る。
「上からの“違和感レベル”とか」
「……やってみます」
ハヤトは、試しに指先から微かな電気を、天井に向けて伸ばしてみた。
岩だけの部分は、固い反応。
スライムが膜を作っているところは、柔らかい抵抗。
滴になって今にも落ちそうな場所は、特に“揺れ”が大きい。
『良いか、ハヤト』
教授が、穏やかな口調で説明する。
『電気は、“水分の多い場所”を好む。
天井のうち、“やたらと水分を含んで揺れている部分”は、スライムの溜まり場じゃ』
『そうじゃ。
床と壁と天井、三方向を同時に感じられるようになれば、
この階層で死ぬことはまずなくなる』
「やること、どんどん増えますね……」
ハヤトは苦笑した。
でも、増えた“やること”の中には、
さっきミナを守れたような場面も含まれている。
静電気で罠を避ける。
静電気で敵を止める。
静電気で汚れを剥がす。
静電気で、上からの危険も感じる。
ハヤトは、指先をぎゅっと握った。
そう思いつつも、心のどこかで、その“多すぎる仕事”が少しだけ誇らしく思えていた。




