第8話:夜闇に響く、最初の悲鳴
あの日以来、俺の日常は、少しだけ変わった。
放課後のチャイムが鳴ると、俺は仲間たちとは別の場所…アッシュ教官の研究室の隣にある、彼専用の訓練場へと向かう。
それが、俺にだけ課せられた、特別訓練の日課だった。
「…集中しろ。雑念が多い」
アッシュは、腕を組み、壁に寄りかかったまま、冷たく言い放つ。
俺の前の空間に、ホログラムで一体の訓練用ゴーレムが投影されている。
課された訓練は、ただ一つ。
「《スキルNo.12:フレイムランス》で、あのゴーレムの核だけを、正確に撃ち抜いてみせろ」
C級アンカーを目指す者なら、誰もが最初にぶつかる壁。
俺は、必死に《魂の燭光》を使い、自らの感情のノイズを抑え込もうとする。
そして、『起源の書』の手順通りに、魂の波形を集中させる。
「…っ! 《フレイムランス》!」
しかし、掌から放たれた炎は、槍の形にはならない。
いびつな塊となってゴーレムに当たり、その核ではなく、胴体を、無駄に焦がすだけ。
「違う。貴様の魂は、貫くという意志が、足りん」
アッシュの声には、感情がない。
何度も、何度も、失敗を繰り返した。
炎は暴発し、壁を焦がし、時には、俺自身の眉毛を焼いた。
その度に、脳内に響くイグニスの罵倒が、俺の心を抉る。
《ポンコツが。三流が。それで、父の“謎”を追うだと? 笑わせるな》
うるさい、と心の中で叫び返す。
そして、何十回目かの失敗の後。
アッシュは、溜息をつき、言った。
「…次だ」
次の訓練は、《カードNo.001:嫉妬深き剣士》の制御。
「あの黒い刃を出して、瘴気をコントロールし、剣先を長くしろ。その形を、10秒間、維持してみせろ」
俺は、意を決して、カードを発動する。
その瞬間、脳内に流れ込む、あの冷たい感情。
視界の隅に表示される『自我境界』のゲージが、100%から、99%、98%…と、1秒ごとに、ゆっくりと死へと近づいていく。
「なぜ、俺じゃないんだ…」
耳の奥で、声がする。
俺は、必死に抵抗する。
(うるさい…! 俺の魂は、俺のものだ…!)
俺は、右手に、あの《劣等の一閃》の漆黒の刃を、具現化させる。
しかし、それを振るわない。
ただ、その形を、必死に維持しようとする。
《残り、3秒…2秒…1秒…!》
イグニスのカウントダウン。
「――解除!」
俺は、叫び、自らの意志でカードを引き剥がした。
全身は、汗でびっしょりだった。
だが、その顔には、確かな達成感が浮かんでいた。
俺は、10秒だけ、あの力を、コントロールしたんだ。
アッシュは、そんな俺を見て、初めて、ほんのわずかに、その口の端を吊り上げたように見えた。
「…勘違いするな。戦場は、訓練場ではない」と言い放った。
その、厳しい言葉ですら、今の俺には、最高の褒め言葉に聞こえた。
***
その夜。
俺は、一人、自室で訓練の復習をしていた。
仲間たちは、もう、それぞれの寮に帰っている。
《フレイムランス》の手順を、何度も、何度も、頭の中で反芻する。
地味で、退屈な反復練習。
だが、その小さな失敗の積み重ねが、俺に、確かな課題を与えてくれていた。
その時だった。
――ピィン…!
俺の魂が、まるで警鐘のように、鋭く鳴った。
《魂の燭光》が、勝手に発動したのだ。
脳内に、直接、映像が流れ込んでくる。
アカデミーの外れにある古い墓地。
そこから、強く、そして哀しい、ゴーストの存在波形が、放たれている。
そして、それだけじゃない。
もう一つ。
小さく、怯えている、誰かの魂の悲鳴が、確かに聞こえる。
「…嘘だろ…!」
こんな時間に、なぜ…?
アッシュ教官は、もういない。
仲間たちは、遠い寮の中だ。
俺しかいない。
俺の脳裏に、アッシュの言葉が蘇る。
『戦場は、訓練場ではない』
そうだ。
これは、もう訓練じゃない。
本番だ。
父さんなら、どうする…?
答えは、決まっている。
俺は、部屋を飛び出した。
ただ、聞こえてくる悲鳴だけを頼りに、夜の闇の中を、走り出した。
墓地の中心。
古びた英雄の慰霊碑の前で、俺は、その絶望の光景を、目の当たりにした。
一体のB級ゴーストが、その場に倒れ込むアカデミーの下級生の少女に、その絶望の大剣を、振り下ろそうとしていた。
俺は、迷わず、少女の前に飛び出した。
「やめろ!」
ゴーストの、虚ろな瞳が、俺を捉える。
その魂から放たれる質量の違いに、俺の全身が、戦慄する。
こいつ…! 『嫉妬深き剣士』と同等の…いや、それより上か…!
俺は、震える手で、懐のカードを握りしめた。
やるしかない。
俺が、この子を、救うんだ。
「俺が、お前の魂を、救ってやる!」
その、あまりにも青臭い宣言が、
孤独な戦いの、始まりの合図だった。
まず、俺が選んだのは、唯一の攻撃手段。
震える手で、懐のカードを握りしめる。
「頼む…力を貸してくれ…! 《カードNo.001:嫉妬深き剣士》!」
俺は、カードを装備した。
その瞬間、脳内に流れ込む、あの冷たい感情。
視界の隅に表示される『自我境界』のゲージが、100%から、一気に70%まで降下する。
《警告! ターゲットから放たれる絶望の波形が、マスターの自我を侵蝕しています!》
イグニスの警告通り、訓練の時とは比較にならない圧が、俺の魂を締め付ける。
だが、構わない。
俺は、右手に、あの《劣等の一閃》の漆黒の“刃を、具現化させた。
「いけえええっ!」
刃を、ゴーストの核めがけて、叩き込む。
しかし。
キィン!
甲高い金属音。
俺の刃は、ゴーストの体をすり抜けることなく、その手前で、まるで分厚いガラスに阻まれたかのように、弾かれた。
「なっ…!?」
《…無駄だ、マスター》
イグニスの、冷徹な声が響く。
《気高い騎士の魂は、卑しい嫉妬の魂と、決して共鳴しない。お前の力は、奴の誇りに、拒絶されている》
くそっ…!
ならば、これしか、ない…!
俺は、カードを解除し、最後の希望に賭けた。
「スキルNo.101:《魂の燭光》!」
嫉妬深き剣士の心を救った、俺だけの発明。
俺は、目を閉じ、ゴーストの魂の深海へと、意識をダイブさせようと試みた。
あの声を…『魂の残響』を聞き分けるために…!
しかし。
――ズンッ。
俺の魂は、まるで分厚い鉛の壁に、叩きつけられたかのような衝撃と共に、弾き返された。
脳が、揺れる。
なんだ…? この壁は…?
《警告! ターゲットの魂の壁が、強固すぎる!同調が、強制解除される!》
この騎士のゴーストが抱く「絶望」は、少年の「嫉妬」とは、次元が違った。
その魂の嵐は、あまりにも深く、あまりにも冷たい。
『魂の残響』など、一筋の光すら、見つけ出すことができない。
攻撃も、ダメ。
対話も、ダメ。
万策尽きた。
その、思考が停止した一瞬の隙。
ゴーストの、無慈悲な大剣が、俺の、がら空きの胴体へと、振り下ろされていた。
「しまっ…!」
もう、避けられない。
死ぬ。
俺が、その絶望を、受け入れた、まさにその瞬間。
――ガァンッ!
俺の目の前で、ありえないほどの火花が、散った。
ゴウキが、その巨大な土の盾で、ゴーストの大剣を、受け止めていた。
いや、違う。受け止めきれていない。盾には、巨大な亀裂が走り、ゴウキの口から、苦悶の声が漏れている。
――バチバチバチッ!
そのゴウキの側から、ジンの雷の鞭が、しなりながら、ゴーストの剣に絡みつき、その軌道を、必死に逸らそうとしている。
――パリンッ!
そして、俺とゴーストの間を、シズクの氷の壁が、何重にも、何重にも、刹那の速さで展開され、そして、砕け散っていく。
三つの壁。
彼らが、命がけで稼いだ、その数秒が、俺を死の淵から、引き戻した。
そして、俺の背後から、仲間たちの声が、響き渡った。
「バーカ!一人でカッコつけんなって!」
ジンの、悪態。
「…全く、無謀ですわ。貴方という人は…!」
シズクの、呆れ声。
「大丈夫…! 僕が、絶対に、守るから…!」
ゴウキの、覚悟の声。
そして。
「…ホムラくん、大丈夫!?」
カオルの、涙声。
ああ、そうだ。
俺は、いつだって、そうだった。
一人では、何もできない。
落ちこぼれの、俺は。
だが。
仲間と、一緒なら。
その事実が、
俺の、折れかけた魂に、
もう一度、火を、灯した。




