第7話:心を纏うということ
翌朝、俺は一人、アッシュ教官の研究室の前に立っていた。
鉄の扉が、まるで巨大な墓標のように、俺の前にそびえ立っている。
「貴様が井の中の蛙だということを、教えてやる」
昨日の、アッシュの言葉が脳裏をよぎる。
ゴクリと、喉が鳴った。 俺は、意を決して、その扉をノックした。
「…入れ」
中から聞こえてきたのは、いつもと変わらない、短く、冷たい声だった。
研究室は、相変わらず古文書と機材の匂いで満ちていた。
アッシュは、俺を一瞥すると、背後の棚から、小さな金属製の箱を取り出した。
「――訓練場へ行くぞ」
それだけ言うと、俺に背を向けた。
「お前の、その神のおもちゃが、ただのガラクタなのか、神器となりうるのか。俺が、見定めてやる」
***
アカデミー郊外の、岩がちな荒野。
心配してついてきた仲間たちが、固唾を飲んで、俺たちを見守っている。
アッシュは、静かに言った。
「俺が相手してやる。お前が昨日手に入れた、その借り物の力を使ってみろ」
借り物の力…。
俺は、震える手でウィンドウを操作し、《カードNo.001:嫉妬深き剣士》を取り出した。
これを、使うのか。
俺の意志とは関係なく、あの冷たい感情に、魂を飲み込まれるかもしれないのに。
《――案ずるな、三流マスター。お前の魂は、今、ここに在る。だが……このガラクタの設計図によって、上書きされるぞ》
脳内に、イグニスの冷徹な警告に紛れた、僅かな焦りが響く。
「――ソウル・コネクト!」
その瞬間、魂の奥底から、冷たい水が流れ込んでくるような感覚に襲われた。
歪んだ瘴気が右手にねじ曲がりながら集まり、重力を吸い込むような漆黒の剣を形成していく。
同時に、俺の視界の隅に、一本の光のゲージが表示された。
【自我境界:100%】
《それが、お前の理性の残量だ、マスター》
イグニスの警告が響く。
《ゼロになる前に、そいつを手放せ。さもなくば、お前がお前でなくなるぞ》
ゾクッ。
「なぜ、俺じゃないんだ…」
「なぜ、あいつばかりが…」
耳の奥で、そんな声が聞こえる。
脳裏に、カオルを見つめる、憎悪と羨望に歪んだ、あのゴーストの瞳がフラッシュバックする。
目の奥が、じわりと熱くなる。同時に、口の中には鉄錆と、生臭い泥のような嫌な味が広がり始めた。
俺の右腕が、自分の意思とは関係なく、誰かの意思で動いているような気がする。
まるで、関節一つ一つに他者の指が絡みついているようだ。
「カードスキル、発動…《No.501:劣等の一閃》!」
一瞬、アッシュの背後が、巨大で、憎悪に満ちたゴーストの影のように歪んで見えた。
アッシュに向かって、斬りかかる。
視界がブレるほどの加速。思考が、肉体の動きに追いつかない。
ゲージが、【80%】に減少。
俺は、まだ冷静だ。 しかし、アッシュは、その一撃を片手で受け止め、俺を挑発する。
「その程度か? 嫉妬の味とは、そんなものか?」
「…ッ!」
挑発に乗せられ、俺は攻撃を繰り返す。
冷静な剣筋は消え、ただ壊したいという憎悪の衝動に支配された横薙ぎに変わる。
しかし、アッシュは全ての攻撃を予測し、静かに受け流す。次元が違う。
ゲージが徐々に【73%】 → 【46%】へと降下していく。
脳内に響く声が、大きくなる。
《警告。危険領域に突入。これ以上の同調は、魂の汚染を招く》
「どうした? もう終わりか? その程度で、俺を超えるなどと、笑わせるな」
アッシュの、最後の言葉。
それが、嫉妬の魂の逆鱗に触れた。
俺の魂が、自分の意志を超えて、暴走しようとする。
ゲージが、【35%】…【32%】…と、危険な速度で降下していく。
(――お前が、最強か…。ならば、俺がお前を、引きずり下ろす…!)
俺の魂の奥底で、誰かの憎悪が叫んだ。
俺は必死に抵抗した。
しかし、脳裏に浮かんだ仲間の顔が、音もなく霜に覆われ、砕けていくのを止められなかった。
「やめて、ホムラくん!」
その時、観客席から、カオルの、悲痛な叫び声が飛んだ。
その声が、錨となる。
俺は、ハッと我に返り、自らの魂の主導権を、必死に掴み返そうとした。
(やめろ…! 俺は、こんなことのために、力を…!)
俺は、自らの意志で、カードを解除しようとした。
一瞬の無防備を、アッシュは見逃さない。
「――甘い」
彼の手刀が、俺の喉元に、本物の殺気を込めて、突きつけられていた。
喉元に突きつけられた手刀は、俺が繰り出したどの攻撃よりも速く、静かで、そして重い。
それは、次元の違う『熟練』だった。
俺は、完全に動きを止め、自らの敗北を、悟った。
アッシュは、ゆっくりと手刀を収めると、静かに、しかし、厳しく告げた。
「…理解したか、ホムラ。それが、『ソウル・カード』のリスクだ。お前は、スキルを使っているのではない。魂を使っているのだ。その魂の感情に飲み込まれれば、お前は、お前でなくなる」
「そして、戦場では、お前を止めてくれる仲間の声が、常に聞こえるとは、限らん」
俺は、自らが手に入れた力の恐ろしさと、その力を制御することの難しさを、同時に知った。
「俺は、この呪いを、使いこなせるのか…?」




