第4話:英雄不在の絶望
奇跡の男。
ここ数日、アカデミーで俺が呼ばれている、気恥ずかしい称号だ。
廊下を歩けば、生徒たちが遠巻きに「あれがゼロ・フレアの…」「スキルナンバー900番台だってよ…」と囁き合う。
あの戦いのことは朧げにしか覚えていない。
しかし、正直、悪い気はしない。
ジンやゴウキに肩を組まれ、シズクからは初めてその実力を認められ、そして何より、カオルが、前よりもっと優しい笑顔を、俺に向けてくれるようになったから。
この、温かくて、誇らしい日常。
それが、ずっと続けばいいと、心の底から願っていた。
***
その日の午後、俺はアッシュ教官の研究室に呼び出されていた。
「…来たか」
アッシュは、巨大なホログラム・スクリーンに映し出された、あの試合の魂の波形データを、厳しい顔で睨みつけていた。
それは、一本の、ありえないほど鋭利な針のように、計測上限を振り切っていた。
「…見事だった、ホムラ。貴様がやったことは、ただの勝利ではない。神のルールブックに、新しい一行を書き加えたに等しい。…だが、勘違いするな。あれはまだお前の力とはいえない。偶然当たっただけの宝くじみたいなものだ」
アッシュは、俺の目を、真っ直ぐに射抜いた。
「――ホムラ。もう一度、あの奇跡を、狙って、起こせるか?」
「それは…」
当たり前だ、と答えようとして、言葉に詰まる。
分かっているのだ。あれが、ただの偶然だったことを。
あの時、俺の魂が、どうなっていたのか。もう、思い出せない。
アッシュは、そんな俺の心を見透かすように、続けた。
「再現性のない奇跡は、戦術には組み込めない。それは力ではない。ただのバクチだ」
彼は、別のデータをスクリーンに表示した。それは、禍々しい、赤黒い波形だった。
「この波形…世界各地で観測されている正体不明の『霊体』の波形と、貴様のゼロ・フレアの波形は、酷似している。これがなにを意味するかは、わからん。だが、…その力、二度と人前で使うな。」
その、あまりに重い警告に、俺が言葉を失った、まさにその時だった。
ウウウウウウウウウウッ!
アカデミー全域に、最高レベルの侵入警報が、鼓膜を突き破らんばかりに鳴り響いた。
アッシュの端末に、信じられない報告が、音声で届く。
『緊急事態! 防衛結界が、内側から、ハッキングされています!』
『訓練場に、複数のC級ゴースト出現! D級職員では、干渉不能!』
「チッ…面倒な時に」
アッシュの端末に、同時に、世界エレメント協会からの緊急招集命令が届く。
「中央地区で、A級レベルのゴーストが出現。直ちに出動せよ」
「なっ...!くそっ!こんなときに!」
アッシュは、一瞬だけ悩み、そして決断した。
「俺は中央へ向かう! アカデミーの雑魚は、他の『騎士』たちに任せる!」
「お前もライセンスを取得したとはいえど、まだD級だ!」
彼は、俺の肩を強く掴んだ。
「いいか、ホムラ! 絶対に、あの力は使うなよ! 分かったな!」
その言葉を残し、アッシュは嵐のように部屋を飛び出していった。
***
訓練場は、既に戦場と化していた。
数体のD級ゴーストに対し、ジン、シズク、ゴウキたちが、見事な連携で立ち向かっている。
「シズク、援護を!」
「言われるまでもなく!」
ジンの雷がゴーストの動きを牽制し、シズクの氷がその足元を凍らせる。その一瞬の隙を、ゴウキの土の拳が完璧に捉える。
天才たちの、完璧な共闘。
C級ゴーストたちは、次々と撃破されていく。
「…ふぅ、これで最後か!」
ジンの放った雷槍が最後のゴーストを貫き、訓練場に、つかの間の静寂が戻った。
俺たちのチームは、本当に強い。
誰もが、そう確信し、安堵の息をついた、その瞬間だった。
ピシリ…ッ!
空気が、凍てついた。
勝利の余韻も、安堵の空気も、全てが一瞬で粉々に砕け散る。
訓練場の中心、その一点の空間が、世界の法則そのものが悲鳴を上げるかのように激しく歪み、黒く、深く、腐食していく。
それは出現ではない。世界の傷口から、濃密な絶望そのものが滲み出してくるような、冒涜的な顕現だった。
そこにいたのは、ブレザーの制服を着た、かつてアカデミーの生徒だったであろう少年のゴースト。
だが、その魂が放つ圧は、さっきまでのC級の群れとは比較にすらならない。
彼の周囲から、凍てつくような渇望と、焼けつくような嫉妬のオーラが、見るだけで魂を蝕む霧となり、1本の長剣を形作っていた。
実体を持たない、憎悪そのものを練り上げたような呪いの刃。
その虚ろな瞳は、誰かを探している。
ずっと、誰か一人だけを、探し続けているかのような、哀しい光を宿していた。
「――B級ゴースト…!でも、ただのB級じゃない…! あの瘴気の剣…特定の感情に特化した、ネームド級よ…! 」
さっきまで冷静だったシズクの声が、恐怖に上ずる。
その言葉を証明するかのように、駆けつけた『騎士』の一人が、果敢にゴーストへと斬りかかった。
ゴーストは、何の感情も見せず、ただ、その瘴気の剣を、騎士へと向けた。
切っ先が、ありえないほどに伸びる。
ズブリ、と。音もなく、呪いの刃は騎士の鎧も肉体も完全に透過し、その胸を貫いた。
物理的な傷は、ない。血の一滴も流れない。
だが。
「あ……が…」
騎士の瞳から、生命の光が、ごっそりと抜け落ちた。まるで魂の一部を、その剣に削り取られたかのように、彼は、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
「どけえええっ! 《スキルNo.28:ライトニング・ピアス》!」
ジンの雷が、ゴーストを貫く。しかし、その体は陽炎のように揺らめくだけで、一切の手応えがない。
「無駄ですわ、ジン! 魂の次元が違う! 私たちのレベルでは、魂の質量がたりない...。触れることすら、叶わない...!」
シズクの《スキルNo.32:アイス・バレット》もまた、ゴーストの体を、ただ虚しく通過していく。
ゴウキの盾ですら、その攻撃を、受け止めることができない。
ゴウキが仲間を庇うように土の大盾を構えるが、瘴気の剣は物理法則を無視して盾をすり抜け、彼の魂に浅く触れる。
「ぐっ…ぁあああっ!」
全身の力が抜け落ちたように、その場に膝をついた。
触れることすら許されない。
防ぐという概念すら、通用しない。
圧倒的な格の違い。それは、もはや戦いですらなかった。
万策尽きた、その時。
ゴーストの、虚ろな瞳が、初めて一点に、その焦点を結んだ。
その視線の先にいたのは、仲間を庇い、必死に小さな風の壁を展開している、カオルだった。
ゴーストは、まるでプログラムされたかのように、一直線に、カオルへと、その狙いを定める。
「やめろ…!」
俺は、叫んだ。
やるしかない。もう一度、あの奇跡を…!
俺は、サイトウと戦った、あの瞬間を、必死に思い出そうとした。
「カオルを守りたい!」
その感情を、魂の中心で、必死に燃え上がらせる。
しかし。
俺の魂は、沈黙していた。
奇跡は、起きない。力は、ただ、虚しく暴発するだけ。
《――無駄だ、三流マスター!》
脳内に、イグニスの、絶望的な声が響く。
《貴様の、その貧弱な魂のレベルでは、神の御業を扱うことはできない!》
《レベル1の冒険者が、レベル99の伝説の剣を、振るおうとしているのと同じことだ!》
嘘だろ…。
俺の、希望が…。
最後の希望が、ここで、完全に断たれる。
万策尽きた、その絶望のど真ん中で。
ゴーストの凶刃が、仲間を庇おうとした、カオルの、無防備な胸元へと、無慈悲に、迫っていく。
「やめろおおおおおおっ!」
俺の、力の伴わない、ただの悲鳴だけが、
崩壊していく日常に、虚しく、響き渡った。




